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志村けんさんの話

2020年3月30日、ついさっき。志村けんさんが亡くなった。


自分は1985年生まれなので、「ドリフ大爆笑」「バカ殿」「志村けんのだいじょぶだぁ」「志村けんはいかがでしょう」あたりがリアルタイム世代だ。

小学生の頃、ヒトミ婆さんの口調で遊んだり、親のヘアジェルでいいよなおじさんの髪型をマネしたりした記憶がある。きっと日本人ならなんとな~く覚えのある体験だと思う。

死亡説が流れたこともあるけど、いるのが当たり前で、いなくなることなんて想像できないスーパースターだった。


僕にとって志村けんさんは、TVの中のスーパースターであると同時に、遠い親戚のようなおじさんという感覚もある。

父がTV局に勤務していて、志村さんのほとんどの番組に関わっていた。

小さいころ、たまに撮影現場に遊びに行かせてもらうこともあったし、今となっては信じられないがスタッフの家族と志村さんで海外旅行に行ったこともある。バブリーだ。

TVでの姿が想像できないくらいとても物静かなおじさんだったが、「おう、川口の息子か」と優しく声をかけてくれて、それでもずっと目が合わなかったことをよく覚えている。子供心に「この人は恥ずかしがり屋なんだな」と思った。


ある時から、ただのスタッフだった父が志村さんの番組に出演しだした。出演の頻度は増えていき、毎週のレギュラーになった。

きっかけは、打ち上げで父が見せた宴会芸を気に入った志村さんが「それ面白いから客前でやれ」と半ば強制的に命じたことらしい。

違法アップ動画なので気が引けるが、ラストに唐突に出てくる民族が自分の父である。

出てきた瞬間の歓声そして大合唱。

父は「嫌々やった」と言っているが、絶対に嘘だ。このとき最高に楽しかったに違いない。その証拠にいまだにカラオケではこのネタを披露するし、親戚一同が集まる日にはこの映像を見せたがる。(みんな飽きてるので拒否する)

僕が当時住んでいたアパートには、放課後になると小学生が父(芸名:パピアントグッチャングッチャン)のサインを求めにきた。知らない他校の子もいた。

思春期なので「恥ずかしいからやだ」と言っていたが、内心誇らしかった。やはり親子、思考と行動パターンが同じだ。それでいうと↓

この白塗りが僕である。確実に父を通して志村イズムの影響下にあることが少し分かっていただけるだろうか。


僕の妹が産まれたとき、志村さんが父に言ったらしい。「お前の娘をコントに出すぞ」と。

生後数か月の妹が志村さんに抱かれている(ついでにいうとマーシーにも抱かれている)その映像は、やっぱりうちの家族の宝物だ。

結果的に川口家に最高の思い出を残してくれた志村さんは、多分スタッフ思いなんだと思う。でも父は退職した今も酔っぱらうと「志村さんはよぉ~」と文句を言う。

スタッフ思いなんだろうけど、それだけじゃない面があったり、伝わってなかったり、きっと不器用な方だったんだと思う。


ここでコロナどうこうは言うつもりない、ただただ今は残念だし悲しい。

芸事をやる沢山の人が志村イズムを受け継いで生きているし、僕も末席ながらそれを忘れないでやっていこうと思う。

ちなみにこの記事を書くためにウィキペディアを調べたところ、パピアントグッチャングッチャンにも死亡説が出ていた。バリ生きてます。



ありがとう志村けんさん。ご冥福をお祈りします。


川口の息子より

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