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海へ

 地下鉄の電車を待っている中年の男性のこんもりとした腹の山には、ひときわ大きな革のベルトが一周ぐるりと巻き付いている。彼の耳の辺りに群がる白髪交じりの毛は、渦を巻いて、その周囲の黒い髪と明らかなコントラストをなしていた。彼は、茶色の皺が幾重にも出来た年季の入った大きな鞄をだらしなく左足と右足の間に置いた。
彼の後ろに偶然にも位置した正人は「いずれこうなることは分かりきっている」と思った。「これは未来から来た自分なんだ」と彼の耳毛の辺りをぼんやりと見つめた。
彼の小さな目はスマートフォンの時刻表を確認し、電光掲示板を見上げ、またスマートフォンの時刻表を確認したのだが、時間は変わらなかった。車掌のアナウンスがホームに響くと電車が轟音とともにホームに到着した。

 電車の扉が開くとクーラーの冷気がホームの方まで流れ込み、営業周りで太陽の熱波を一日中浴びた正人の体を冷やした。冷気は正人の体の芯まで達し、身震いするほどだった。天井の扇風機はぐるぐる回りスーツを着た女達の髪をなびかせている。前に並んだ太った男は空席を見つけるなり、犬が散歩中に偶然肉を見つけたみたいに座席に飛びついた。太った男は大きな尻を座席に沈めると安堵したかのように腕を組んで目をつむった。
正人は、男のはす向かいに座り、男の姿を目に焼き付けた。食べる行為と眠る行為の繰り返し。肥大する肉体。まわりの軽蔑の目線ももはや彼の中の正しい心を動かすことはない。「彼の印象をいつまでも心のどこかに閉まっておくべきだ」と正人は思った。
電車の中は朝のラッシュが嘘のように空いていて、白髪の赤い服を着て杖を几帳面に持ったお婆さんが、優先席に肩身狭そうに座っている。隣の車両では、女子高生二人がおしゃべりを続けている。
地下鉄の振動は、正人の体に子供の頃に母親の懐に抱かれたときの安心感、精神の安らぎを与えてくれる。午後6時半の傾きかけた夕日は、遠くの高層ビルと高層ビルの間に挟まれいっそう赤く見えた。窓から夕日が差し込むと今まで気が付かなかった車内の埃が光を受けてふわりと浮かんでいる。その先に英単語帳を膝に載せたまま眠る女子校生の姿が見えた。

 目の前に立つサラリーマンの上着の感触で目が覚めた。窓の景色からどうやら四駅分は眠っていたようだと分かった。駅で前に立った太った男はもうどこかの駅で降りたらしく、その空いた席に少しお腹の膨らんだ女とチェックの服の男がが何やら楽しそうに話をして、近くにはベビーカーに乗せられた赤ちゃんがこちらを不思議そうな目で見つめている。正人もその生まれたての目に見入った。
その時、「正人じゃない?」
と近くの女が話しかけてきた。彼はどきりとして女を見た。やや切れ目の両眼は黒目がちで、細い鼻筋は鼻頭で丸みをおびている。肌の色は白い。一瞬その大人びた白いブラウスと金の細いネックレスに惑わされたが、そこには奈緒子が立っていた。
「久しぶり」と奈緒子は言った。とっさの動揺に耐えながら出てきた言葉は「おお」と二言。長年怠けてきた来た言葉の結果。奈緒子は「あっちに座らない?」と言った。二人はあまりひと気のない席に着いた。
「なんでここにいるの」
「わたしの会社がこの近くにあって、今日は客先で解散になったから」
「へえ、じゃあ毎日同じ電車に乗ってたってわけだ」
「いやそれは違うと思うたまたまこの電車に乗っていただけだから」
まるでそうであって欲しいと伝えたくて言っているように思われるだろうかと正人は思った。
「俺は大体この電車だよ。もう新卒から五年間も同じ。毎日淡々としたしらけた生活だよ」
「愚痴が多いなぁ。私もだいたい同じ感じじゃないかな。やりたいことをやれる人なんてほんのわずかでしょ」
「そうだな、だけどそういうのも生まれつき決まってるっていうか、運命みたいなもんだろ」
「運命なんてものは良くわからないんだけど、努力の意味は分かる。でもそれも難しく考えるなら運命ってことでしょ?」
「何もかも運命」と奈緒子は言った。
奈緒子とは幼馴染だった。正人が携帯のメールに絵文字をふんだんに使っても奈緒子からのメールは句点か黒い絵文字だった。髪も黒く光沢があった。いつもその髪を自慢げになびかせ、学校へ自転車で向かっていた。
「そういえばFBやってるんだっけ」と奈緒子は言った。
「やってるよ、全然更新してないんだけどね。イイネされるような私生活は送ってないからね」と正人が言った。
「私もやってるんだけどFBの友達にまだ恵美入ってるんだよね」
「FBにあの時行った海の写真ががいっぱい残ってるんだよね」と奈緒子は言った。
「海に最後に出かけたんだよな」
車窓を見ると日は落ちて、家々の明かりが灯っているのが見える。窓に映った二人は気持ちの良い疲れに身をまかせ規則正しい列車の振動に身を任せた。

 恵美との思い出は沢山あるが最後の思い出は千葉の外房の海へ四人で出かけた時のことだ。高校を卒業することにわくわくし、四人は海への旅行を計画していた。そんな話を学校の教室のベランダで良く話した。
七年前のある日、他の学生が部活やバイトに勤しんでいる午後に、正人はいつものように八木と二階のベランダで雑談していると、突然八木が一階にいる知らない学生に向かって、手に持った野球のボールを二階から投げた。次の瞬間「逃げろ!」と八木はこちらに叫んで教室の中に逃げ込んだ。どきりとした正人はベランダから下を覗き込むと、バスロータリーに並んだがっしりした体つきの二人組が正人を睨んでいる。正人も八木の後について逃げたが、八木に追いついたその瞬間、八木は足を滑らせて顔から地面に着地した。何が起きたのか正人にはさっぱり分からなかった。というのも、八木が滑った地面はなんの障害物のない平らな平地だったからだ。八木の顎はぱっくりと割れ、その顎からは500mlほどの鮮血が地面に滴り落ちていた。
正人は「大丈夫かよ」と言ったが、八木は「ダイジョブ、ダイジョブ、じゃあまたナ」と言って特に何もなかったかのように帰って行った。
そんな他愛もない話をいつものベランダで八木は自分をネタにして三人は面白がっていたが、奈緒子はあまり笑わなかった。

 蝉の鳴き声がいちだんと高く、夏は延々と続くかのように思われた日、僕らは海へ出発した。親から紺色のカローラを借りた。四人を乗せたカローラのエンジンの音は快調に鳴り、走り出すと風は気持ちよく僕らの顔を撫でた。
「なんか音楽なーい?」と恵美が言ったので、正人は当時流行っていたヒップホップを車内に流した。恵美の金髪に染めたウェーブがかった髪が、風で上下に揺れている。甘ったるい香水の匂いが時々鼻をつく。皆気分は上々だった。それから、八木が馬鹿なことをやりだした。外に手を出して、手を開いたり、閉じたりしている。
「時速60キロで、空気がおっぱいのやわらかさ!」あまりに馬鹿馬鹿しくて皆笑った。
恵美が一緒になって車から手を出して手を伸ばす。
「おっぱいのやわらかさー!!」
正人も手を出して同じことをやった。
「おっぱいのやわらかさ!」奈緒子もこの時は皆と同じことをやった。

 外房の海沿いの道を車で下っていく。何度もトンネルをくぐり抜け、トンネルに入ったとたん目が眩む。車の脇をトラックがギリギリで通り抜けていく。すると突然視界が開け、目の前に青い海が現れた。海は太陽の光を反射し、果てまで光っているかのようだった。波を待つ何人ものサーファーが我先に来る波を待って海に賑わいを見せている。駐車場には大きな車が沢山止まり、路面にシャワーの水溜りが出来ていた。
「海だー!」四人が一斉に叫んだ。
「わ、サーファーだ!私サーファー好きー。八木サーフィンやってなかったっけ?」と恵美が言った。
八木は日に焼けた黒い顔を照らしながら「えっ俺、スケボーだけど。スケボーの発祥はサーフィンだけどね」と自慢げに言った。
「スケボーとサーフィンって違うんだっけ、海と道路でしょ」と奈緒子が言った。
「違うだろ明らかに。スケボーはスケボー。サーフィンはサーフィン。スケボーは硬派だろ?」と八木が言う。
「硬派かあ。よくわかんないなあ」と恵美は行った。
「スケボーはスタイルなんだよ。つまりオリンピックみたいに競争じゃなくてね。そこがかっこいい所なんだよね」
三人はもう八木の話はどうでもよかった。太陽が海の海面を滑っていく様や、魚料理屋の営業中の、赤いのぼりを見ていた。
四人はしばらく無言で、海岸線を走りながら椰子の並木を見上げたり、潮風を胸いっぱいに吸い込んだりした。視線は遠くまるで何かを悟っているようだった。
「大学行っても連絡取り合おうねー」と恵美が言った。
「ね、大学で友達出来るか不安だなー。だって私こんな感じで圧出してるし、誰も話しかけて来ないかも」と奈緒子が言う。
「なおちゃんは性格いいし、面倒見もいいからだいじょうぶでしょ。私はサークル入って男漁りかなぁ」
「体験入学で漁って来ちゃったんじゃないの?」と正人が言った。
「携帯交換したの三人。これまじ。」
車内に笑いが起こる。この時代だけの幸せに気づくのはこの地点から遥か遠く、僕らがスーツに身を包み、シャツにびっしょり汗をかき、上司の永遠かと思われる説教にうつむきながら早く終われと念じている頃のことだ。

 海岸の近くの松林の路肩に車を止め、松の小道を進んで行った。松ぼっくりが地面に落ちていて踏むとばりばり音をたてた。桑の葉やススキの葉が腕や足に触れこそばゆかったが、四人はかき分けて進んだ。急に目の前に海が広がった。目的の海岸は二方を岸壁で囲まれ、思っていたほど広くなく、こじんまりしていた。まるで四人のために用意されたプライベートビーチだった。所々に瓦礫が散乱していたが無邪気な僕らには関係のないことだった。四人は水着に着替え、お互いの姿を晒しあった。正人は二人の水着姿を見るのが初めてだったので視線をどこにやったらいいか分からなかったが、恵美はそれが面白かったようで、しばらくからかわれていた。健康的に焼けた肌の恵美はオレンジのチェック柄の水着、白い肌の奈緒子は白い水着だ。彼女らに似合っているなと思った。
八木はすでに海の浅瀬につかっていた。
「おうーい!早く来いよぉ!」と、八木が呼んでいる。

八木は膝の辺りまで海に浸かり、足できらきらした海水を空高く飛ばしていた。三人も八木に倣って海へ向かって行った。足に冷んやりとした砂が触れ、いつかの夏を思い出させるようだ。次の瞬間には白波が辺りに扇のように広がって足に触った。
「冷たあぃ!」恵美が歓声を上げた。
奈緒子はじっと自分の足を見つめ、慎重に一歩一歩進んでいる。
「おーい、奈緒子ー!」正人は呼びかけた。
奈緒子は無言で視線だけこちらに返してきた。
正人は波を大またぎして八木に近づいた。八木が海水をこちらに蹴って来る。正人もそれに応じた。八木は上手くかわした。また八木が蹴る。海水は太陽の光を受けながら光のしぶきを上げた。八木は蹴った拍子に波に足を取られ尻もちをついた。八木の体が海面を割り大きなしぶきが上がった。
「冷てえ!」と八木が叫んだ。
恵美と奈緒子が正人と八木に追いついた。それから僕らは海水を手のひらにすくい相手にかけあった。恒例のどこかで刷り込まれた楽しい遊び。
そろそろ戻ろうと誰かが言い、四人はなんとなく砂浜に戻った。
「そろそろご飯にしようよ、もうお腹すいちゃった」と奈緒子が言い、車の中から奈緒子が母親と一緒に作ったというサンドイッチを出してきた。シンプルなハムとレタスがマスタードソースとよく合う。付け合わせのウインナーも四人で美味しく食べた。
「後であの島行ってみようよ!」奈緒子が言った。
この砂浜から20メートルくらい先に、ごろごろした大きな岩が転がり、頭上が樹木で覆われている島が見える。
「あそこまで泳いで見よう!」急に元気を取り戻した奈緒子が言った。
「まあ俺は小さい頃に水泳習ってたから、全然大丈夫だけどまさとは体操だったから、泳げないんじゃないの、途中で溺れても俺は知らないぜ」と八木が言った。
八木の目はらんらんと自信にみなぎりそのオーラに正人は怖気付きそうになった。
「お、やる気か、なんだったら金かけてもいいぞ。どっちが先に、あの島に到着するか勝負な」と正人は言った。

 最後の敵の砦に向かう兵士のように、四人は横一列に隊を成し、島に向かってじゃぶじゃぶと進んでいった。目指すはあの戦場の島。胸の高さまで海水に浸かると、ほてった体が冷えてとても気持ちがいい。波が時々顔にあたる。足が着かなくなった辺りで、島に向かって泳ぎだした。正人が泳ぎだして島のほうを目にやると八木は、5メートル先の方を泳いでいて、八木の頭が沈んだり、浮かんだりを繰り返しているのが見えた。後ろを振り返ると恵美と奈緒子が海面に顔を出し若干不安そうな目つきで泳いでい来る。正人は八木に負けじと手足を力強く伸ばしスピードを上げた。しばらく進むと対岸の砂に足が着地した。水で重くなった水着を海上に持ち上げて、砂に埋まった丸い石を踏まないように大股で進んだ。
岩場では八木が大きな岩の上に座り、勝ち誇ったような目でこちらを見下ろして言った。
「おっせえなお前。俺の勝ち」
八木はやたら顔をにやにやさせ、黒い肌に白い歯をきらりとさせた。
あとから二人がごろごろした小石をよけ、時々小石に付着した藻に足を取られながら追いついてきた。
「正人達早いよ!こっちは必死になりすぎて溺れるところだったじゃない」と奈緒子が言った。
奈緒子は黒い髪を後ろに撫でつけて、額を大きく見せた。海風が気持ちよく吹き抜ける。恵美は奈緒子の後ろの方で膝に手をやり激しく呼吸を整えている。恵美の金髪が入り混じった髪から海水が滴っている。
三人は仰ぐように八木を見た。八木はその高みから見下ろしていた。

 岩場を散策しようということになって、四人は思い思いに散らばって岩場をぶらぶらした。灰色の小さな蟹がじゃぼんと岩と岩の間の潮だまりに落ちた。潮だまりの中で小さな魚が泳いでいる。正人は手を突っ込んでみたがすぐ岩陰に逃げてしまった。フジツボが岩にへばりついている。生来生き物好きの正人は、他の三人に気も留めずに岩から岩へ軽々と進んでいった。クラゲの死体や魚の死体を通り越し、フナムシの黒い体がさっと逃げた。右手の岩場の切り立った岸壁には人が一人座れるくらいの四角い穴が掘ってあり、波が穴の奥にぶつかり大きなしぶきをあげた。岩場から山を見上げると、トベラの木が所々に生え、下枝を枯らした立派な黒松が一本、山のてっぺんに生えている。その松は幹を曲げ残った枝葉を空に伸ばしていた。上空をトンビが旋回する。時々島中に鳴き声を響かせた。日はやや傾きかけ、夕日が島全体を暖めた。

 すると、近くの岩陰に奈緒子が大きな潮溜まりに足をつけて座っていた。「正人、みんなでこの島にずっといられたらいいと思わない?世の中のこと全部忘れて」と奈緒子が言った。
「もうやんなっちゃった、将来のこととか家族のこととか」
「お前のお兄さんいい加減働き出したの?」と正人が言った。
「それが、全然。もうお母さんも諦めてるみたい」
「将来のことだってわたしも不安なのにお兄ちゃんのことなんて考えられないよ」奈緒子は潮溜まりの海面に両てのひらを遊ばせている。
「別におまえが抱え込むことないんじゃないの?」
「そうなんだけどね〜そうもいかないんだあ」
「そういうもんかなあ」と正人が言った。奈緒子の白い背中は日に焼けて赤みがかっていた。
その時だ。沖の方で高いビルほどのしぶきが上がったのは。
「今の見た?」と、奈緒子が言った。
「多分クジラだ」
「この辺りにクジラが打ち上げられたってニュースでやってた」
「そのかたわれかな」
「悲しいね、もう死んだってことを知らないでいるんだ」
海の王者は何物も寄せ付けず悠然と海を泳いでいる。太陽の光が海の模様になってクジラの体を光らせた。ときに、気まぐれに回転してみては遊んでいるかのように、飲み込んだ大量の潮を海上に吹き出した。深い紺碧の孤独な海は、太陽の光を深海にのみ込んだ。海底から泡が吹き出している。
「ねえ、そろそろ戻らない?日が暮れそうだよー。暗くなって取り残されてもしゃれにならないんだからー!」遠くの方から恵美の声が聞こえる。
帰りの水泳は正人が勝ちこれで引き分けになった。しかし結局二人はしばらくほうっておいた罰として奈緒子と恵美に夕飯を奢ることになった。

 砂浜に戻った僕らは、タオルの上にひとまず腰を下ろした。
さっき僕らがいた島は徐々に影を落とし、島のシルエットと一本の松の形がくっきりと映えた。夕日が燃えるように赤く空を染めている。こちらの浜辺もだんだん暗くなってきて、冷たい風が沖の方から吹いてきた。
「ほら、あれ、やろうよ、あれ」恵美が言った。
道中のコンビニで3千円くらい出し合って花火を買っていた。恵美は車の中からごみ箱を取り出して、ごみの入った袋を別にし、その容器を海水に入れた。
「これ大事なんだから、火事になったら大変でしょ」
もう辺りは暗くなり、満月がぽつりと浮かんでいる。月の光が砂浜の傾きかけた竹の柵の影を四人の方に伸ばした。
四人で輪になって袋を囲んだ。
「とりあえずこれから」
取り出したのは筒状の手持ち花火で、四人は一本づつ手に取って、八木が持ってきたライターで恵美の花火の先に火をつけた。花火は火花を散らしだした。
「待って、やばいやばい」と恵美は言った。
次の瞬間、花火が筒から飛び出し、火の玉になって砂浜を勢いよく転がり、一瞬浜辺全体を照らした。
「そっちじゃないって海の方!」八木は驚いて叫んだ。
恵美が海の方に花火を向けると、いくつもの青い火の玉が一定の間隔で筒から飛び出し、海上を照らした。三人も火を点けて一斉に海の方へ花火を打ち上げた。赤、白、黄色の火の玉が弧を描きながら、打ち返す波を照らし出した。
「たーまやー!」誰かが言い。みんなで「たーまやー!」と言った。そのあと、ねずみ花火に火をつけると、花火は砂の上を狂ったように回りだし、火花を辺り一面に吹き、四人の靴を照らした。最後は俺の出番だと言わんばかりに、大きな手筒花火を八木が手に取った。
「それで終わり」奈緒子が言った。
手筒花火の導火線にライターの火をつける。しばらく燻っていたが、数回ライターを擦るうちに点火した。じりじりと火が筒に向かって行く。勢いよく火花が空高く舞った。花火は四人の背丈を越えて無数の火花を散らした。火花が四人の顔を照らす。その中心はあまりにも眩しい。花火は一瞬で燃え尽き、静かな波の音が聞こえてきた。白い煙が宙を漂って、風に吹かれ移動していった。

 帰りの車内は来るときに比べ口数は少なかった。恵美と奈緒子は後部座席で車のブレーキを踏むたびに、互いの顔がぶつかりそうになりながらも、静かに眠っていた。と、言っても車内は暗く、ほとんど前から彼女らの顔は見えなかったが。正人と八木は、時々とりとめもない話をし、しばらく黙り込んで、また少しだけ話をした。車は曲がりくねった山道を上っていく。道は荘厳な杉林に囲まれていた。フロントガラスから、神社の本殿まで続く参道に、火を入れた灯篭が並び、明かりを畳石に投げているのが一瞬見えた。車のライトがカーブを曲がるたびにガードレールを浮かび上がらせた。
「俺スケボーのプロになろうと思ってるんだ」と八木が言った。
「プロでも食べていけるのか?」
「プロで食べていけるやつなんてほとんどいないんだけどね。まあショップ掛け持ちしたりさ。でも子供の頃からなりたかったものだし、他にやることもないから」
「食えなくてもやっていけるのかよ」とまさとが言った。
「それでもいいんだよな。みんな将来のこと決まってるだろ?俺にはなにもないから」
「お前がいいなら、いいんじゃない」と正人は答えた。
信号が赤から青に変わり、右に曲がると、真っすぐに道は伸び、青錆のように薄緑にペイントされた丸い西洋風の電灯が、点々と商店街を照らしていた。全く人気はなく、寝静まっているというよりも、そもそも人の住んでいる様子はなかった。すると、「明治屋」と大きな書道の筆で書かれたような看板のシャッターの前に、男がぐったりと横になっているのが目に入った。二人はびっくりして
「男が寝てるぞ」と八木が言い、車を路肩に寄せて停めた。
正人と八木は男に近づいた。恵美と奈緒子も眠そうな顔で車から覗いている。電灯に照らされた男は、赤い縞の小汚いポロシャツと、だぶだぶのチノパンという姿で体をくの字に曲げている。白髪の髪は、油でべたつき、顔は真っ赤だ。
「こいつ吞んでるな」と正人が言った
「おーいおっさん」八木が話しかける。
うつろな目を辺りに向けながら男は
「ここはどこだっぺー、おたくらはだれよ」と言った。
「分からないよ、なんでこんなところで寝てるんだよ」と正人が言った。
「わかんねえよ。おれちょうないかいの飲み会にでてたらこうなってたっぺーよ」
「起きれるかー、こんなところに寝てたら殺されちまうぜ」
「殺されるわけねんでよ、みんないい人間だっぺよ」男は言い、白髭をまた地面に着けて眠りだした。
「おいどうするよ」と八木が言った。
「どうするも警察呼ぶしかないだろ」と正人が言った。
仕方がないので町の警察に電話をしてみたが、出払っているのか何回電話しても出る気配はなかったので、車に戻りしばらく様子を見ることにした。
「ねえどうしたの?」恵美が言った。
「酔っ払い」八木が言う。
「ほっておくの?」奈緒子が言った。
「一応ここで様子を見るよ、警察が戻って来るまでね」正人が言った。
「えー早く帰りたいんだけどぉ、いいんじゃないほうっておけば」恵美が言った。
「さすがにまずいだろ見殺しは」八木が言った。
そんな話をしているうちに後ろからバイクのライトが近づいてくる。
「あれ警察じゃない?」と奈緒子は言った。
「噂をすれば」八木が言った。
「さっそくだな」正人が言った。
警察の白いバイクが近づいてきた。窓を開けて警察を呼ぶ。
「おまわりさーん」
「こんばんわ、何か事件ですか」
「いやね、しょうもない話なんだけどあそこに酔っ払いが寝てるんですよ、何とかしないと」と言って明治屋のシャッターの方を指さした。男の姿は消えていた。
「何もないなら、私のやることは家に帰ることですね」そう言い残し警察は行ってしまった。
四人は不思議に思い、男がいた所に戻ってみたが、跡形もなかった。
がらんとした辺りを皆で見回したが、廃れたシャッター街には誰もいなかった。怖くなってきた。四人は、男は家に帰ったものと自分に言い聞かせ、車に乗り込み出発した。しかしさっきの男のことが気になって仕方がない。
「今思い出したんだけどあの男さっき神社の前を歩いていた」と正人が言った。
「お前怖いこと言うなよ。神社からどうやってあそこまで車と同じスピードで移動するんだよ」と八木が言った。車で約20分はかかる距離だ。
「いや間違いないって、あそこにいたんだよ」異常な汗でハンドルが滑る。
「へんなこと言わないでよ、正人」と奈緒子は言った。
「もういやっ」恵美は今にも泣きそうな声を出した。四人はぞっとしてバックミラーや前方のライトの先の暗闇に目を凝らした。気を紛らわすために音楽の音量を上げた。この話をしている間にも、そこの大きな杉の影から顔を真っ赤にした男がこちらを見ているような気がしたからだ。車は峠を一目散に下って行った。

 こんなにも地元の見慣れたショッピングモールや、何台も行きかう車の灯りに安心したことはついぞなかった。四人はようやく息をすることが出来た。コンビニから出る光は眩しいくらいに暗い駐車場を照らしていた。四人は吸い込まれるように自動扉を抜けた。光のシャワーがからだを清めた。あの男の影は本当に消滅したように思えた。レジ係の中年の女のあごのたるみや、しわがれた声を聞いて、この人は仏の生まれ変わりなんじゃなかろうかとすら正人は考えた。コンビニは現代の金堂だ。四角い箱の中に仏様が座り、救いを求める四人のような修験者が夜な夜な訪れる場所。
「それじゃあわたしここから歩いて帰るね、家近いから。またメールするね。」と奈緒子は明るい声で言った。それで奈緒子とはここで別れ、三人で奈緒子の姿を見送った。
「恵美と八木はどうする?」と正人が言った。
「そうだな俺送ってもらっちゃおうかな~いいだろ?」と八木が言った。
「いいよ。恵美は?」
恵美は「わたしここまでお母さんに迎えに来てもらうから大丈夫」と言った。恵美とコンビニで別れ、八木を家まで送った。一人になった正人は近くの空き地で車を止めて自販機からコーラを取り出し車内で飲んだ。早く帰りたくなかった。しばし今日の海や山での印象の余韻に浸りたかった。
しばらくして、両親の待つ家に向かった。

 通勤電車の揺れが、正人と奈緒子の肩を軽くぶつける。奈緒子の髪の匂いがふんわり漂ってきた。駅が大きな駅に着くと、一斉に乗客が乗り込んで来た。前の人とは膝がぶつかりそうな距離だ。車内はむっとして暑苦しかった。
「じゃあ私次の駅で降りるから、一応ライン交換しておこう」と奈緒子が言って連絡先を交換した。大学に入ってからは奈緒子とは疎遠になっていた。次の駅に着き奈緒子は
「じゃあまたね」と言い、体を斜めにして男達の間をすり抜け、野球部員達の地面に置かれたバッグを跨ぎ、電車を降りた。電車が走り出すと、向かいの窓の人と人との小さな隙間から奈緒子が手を振っているのが見えた。正人も隣にぶつからない程度に小さく手を振った。
正人が普段使っている駅に到着すると、外は霧のような雨が降っていた。駅のホームが長いわりに屋根は短い。正人が電車から降りた場所は屋根から遠く、正人はうつむきがちに早足で歩いた。駅の外灯が雨に濡れた花壇を照らしていた。恵美と八木は今頃何をしているだろうかと考えた。八木とは高校を卒業してからしばらく連絡を取っていたが、スケーターの仲間とつるむようになってからは疎遠になっていった。八木は悪いことに手を染めるようになり、目つきも高校と時と変わっていった。恵美はあの夏からボディーボードを習い、そこで知り合ったアメリカ人と付き合った。高校を卒業して二人は彼氏の実家のあるニューヨークのアパートに住むことになった。ある日、彼氏が男友達を呼ぶと言って、四人でテレビを見ながらソファーに座って酒を飲んでいた。すると、突然、彼氏の友達が恵美に覆いかぶさった。彼女は彼氏に助けを求めたが、彼氏はどこかへ行ってしまった。彼女は抵抗した。しかし、男の力はあまりに強く、彼女は無気力な気持ちになり諦めた。さらにもう一人も恵美に覆いかぶさった。その後彼女は音信不通になり、どこで何をしているかも分かっていない。

 一週間後の火曜の夜、奈緒子からラインが送られてきた。
「正人この前は久しぶり〜。元気そうで何より!」
「奈緒子も元気そうだったな!」と返した。
イイネしたスタンプが送られてきた。
「正人FBの恵美のページ見てみて!更新されてるよ!」
正人はびっくりして急いで鞄の中からスマートフォンを取り出し恵美のページを開いた。
そこにはモン・サン=ミシェルを背景に、健康的に日焼けし、へアバンドみたいに黒いサングラスを髪に着け、タイトなジーンズを履いた恵美が、右手を挙げて満面の笑みで立っている。反対側の手で、子供と手をつなぎ、子供は、恵美とおそろいの赤いロゴのTシャツを着ている。恵美と違うところは青い目と髪が可愛くくるくる巻きになっているところだけだ。隣にいる外国人の旦那は子供と同じ巻き髪で、体の前で両手のひらを合わせ、バランス良く片足で立っていた。三人とも楽しそうだ。写真に添えられたコメントには「Bonjour Japon!notre famille va bien!」(こんにちは日本!私たち家族は元気です!)と添えられていた。
正人はその写真を見てとても嬉しくなった。高校の時と変わらず明るく、おしゃべりで、お転婆な恵美がそこにいた。
「今度恵美が日本に帰って来たら八木も呼んでみんなで会わない?」と思わずラインを奈緒子に送った。15分ほど間があってから返信が来た。
「もちろん正人の奢りでね」文の後には赤いハートマークが付いていた。

 ある日の昼下がり、正人はバスタオルの上に寝そべり、太陽の光のゆらめきがどこまでも続く海面を見つめていた。砂は体を熱くした。入道雲が、あの日のように、真っ青な空にもくもくと出ていた。水平線は、蜃気楼のせいでぼやけ、何かの形が海上に揺れていた。潮風が吹き、浜ヒルガオが風を受けてそよぐ。波が、ゆりかごのように、音を立てながら満ち引きを繰り返す。遠くの島の木々は、青々と生い茂げり、ごろごろした岩肌は、あの日と変わらずそこにあった。正人は幸せな気分だった。上下に浮き沈みする、八木の後頭部を思い出す。その時、遥か遠く、高いしぶきが上がった。「クジラだ!」と、一瞬、正人は思った。しかし、それが蜃気楼のまぼろしであることにすぐに気が付いた。「まるで、あの日の夢を見ているようだ」奈緒子は、正人の隣に背を向けて横たわり、静かな寝息をたてていた。白い巨大なクジラが、飲み込んだ大量の潮を煌めかせながら、高く空に向かって吹き上げている。クジラは、太陽がいくつもの線となって光差し込む海の中を、沖に向かって尾びれをゆっくりと動かしながら優雅に泳いでいる。諸島の白いサンゴ礁の透明な海にたどり着いたクジラには、原色の色鮮やかな魚たちが集まり、彼らは色散らばる大きな群れとなって、その先の世界を、どこまでも自由に泳ぎ回っている。その後クジラは、あの日夕日に照らされた島に泳ぎ着き、四人はクジラを先頭に沖の赤い太陽に向かって泳いでいく。正人は、そんな想像をした。そして、いつかきっと、奈緒子に今見た景色を上手に伝えようと、正人は決めた。


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