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バーガーハウスへようこそ

 「いらっしゃいませー。こちらでお召し上がりですか?それともお持ち帰りですか?」川嶋有香は、唇の口角を上げて無理やり笑顔をつくった。「メニューはお決まりですか?」「えーと、それじゃあこのメガチーズバーガーセット、こちらで」ワックスできっちり髪を整えた若い会社員風の男性が言った。「ポテトとお飲み物のサイズはいかがいたしますか?」「んー普通のサイズで」男性の後ろには十人ほどの客が、メニューを見たり、注物の品を待つ間携帯を見たり、友達と話をしているのがカウンターから見えた。「かしまりましたー」「それでは680円になりまーす」「ワンメガチはいりまーす」ガチャンとキャッシャーが開く。「メガチ十分くらいかかりそうだから待ってもらってー」店長の忙しそうな大きな声が店内に響く。「すみませんメガチーズバーガーセットただいまお待ちいただいてます、お席にお持ちします」「はい」と若い会社員は言った。有香は番号札をトレーに乗せて男性に渡した。男性は軽いトレーを持って階段を上っていった。「お次のお客様どうぞー」有香は再び口角を持ちあげる。「いらっしゃいませー。こちらでお召し上がりですか?それともお持ち帰りですか?」
 普段暇な時は、有香がレジ係を担当しているが、ピークタイムは忙しく、三台あるキャッシャーが全て空き、ベテランの佐藤さんとリーダーの林さんが入り、二人とも主婦ならではのテキパキさで客をさばいていく。「はい、次のお客さんどうぞー」店内はレジのキャッシャーの開け閉めする金属音や、何種類ものフライヤーの音がけたたましく同時に鳴り響き、狭いキッチンではあわただしく店長や新人のスタッフ数人が行きかい、所狭しと各自の仕事をしていた。鉄板の上で冷凍の丸い形の牛肉の塊が食欲をそそる匂いを放ちながら肉汁をしたたらせジュージュー音をたてていた。有香は、目の前の列の客がいなくなったところを見計らって、ジュースの容器のふたを補充にかかる。すると、「有香ちゃん、今空いてる?バックヤードにフライヤーの洗い物がたまってるから洗って来てほしいの」と林さんが言った。「はい、りょうかいですー」と有香は言った。バックヤードに行くと、すでに多田が洗い物に取り掛かっていた。「おはようございまーす。川嶋さん今日入ってたんだ」「おはよー、多田くん。私10時入り。わ、洗い物たくさん」「次から次へと洗い物がこっちに回って来るからもうスポンジがこんなになっちゃてさ」多田くんが牛肉の脂でぎとぎとになったスポンジと、てかてかした手の平を有香に見せる。「多田君、手がきらきらしてるね。そろそろ変わる?」「えっいいの?それじゃあお願い」「BH」とロゴの入った淡いムラサキ色の店のメッシュキャップを取った多田くんの顔は、熱湯の蒸気でつるつるしていた。黒い髪がオールバックになり、涼しげな額が現れた。有香は、一瞬その額を見つめた。多田くんはキッチンの方へ行きシャツの背中は汗で濃いムラサキ色に変色していた。大量の洗い物が有香のもとへ次から次へと運ばれてくる。ポテトを油に入れるあまりに熱すぎるステンレスのかご、卵を入れるプラスチックの輪、牛肉の塊をいれる透明の容器、ケチャップがへばりついた空き容器、マスタード発射機など。ピークタイムが過ぎ店は落ち着きを取り戻し、あんなにうるさかった店の調理器具の音もたまに鳴る程度になってきた。店長は脚立を使って、客から見える電光のメニュー看板を取り換えようとしていたが、あまりに体が大きすぎるので、脚立がカタカタいって、もうすぐのところで床に転がるところだった。「川嶋さーん、ちょっといいかなー。悪いけどこの看板ー」有香は、カウンターから見えない冷蔵庫の陰で佐藤さんと佐藤さんの息子の大学生活について色々今後の参考にさせてもらおうと話に夢中になっていたので、崖から落ちかけている店長の「助けて」のメッセージは届かなかった。「川嶋さーん!!」何か店長が言っているのが聞こえた有香は、店長のもとに駆け付けた。もう一人中に入っているんじゃないかと思われる店長のふたつに重なった腹は波うち、有香の二倍はあるであろう顔には、丸い小さな眼鏡が輝いている。店長はハンカチで額の汗を拭いていた。「川嶋さん軽いでしょ、ちょっとこの仕事変わって、メガチーズハンバーグセットもう終了したから、こっちの平常メニューに戻すから」と言ってバッグヤードに行って、取り付ける半透明のメニューの看板を持って帰って来た。有香は脚立に上って、店長からのその看板を受け取り、メガチーズバーガーセットの看板がなくなって白い電灯がむき出しになっている所にはめ込んだ。店長との距離は妙に近い。店長はアルバイトとは別の色の赤いメッシュキャップをかぶり、その下から汗ばみ、落ち窪んだ目と涙袋がたっぷり垂れ下がっている顔が見える。メニューがさし変わった所を店長がカウンターから外に出てチェックしに行った。よく目を凝らし細くなった眼球が移動する。「そうだなーやっぱり左のメニューを外して今持ってきたメニューに替えて」と有香は言われ今の状態と違いは良くわからなかったが素直に従った。「これが終わったら、川嶋さん休憩」と店長が言った。
 休憩室には安物のパイプ椅子とテーブルが置かれていて、多田君が机に突っ伏していた。机の上には照り焼きトマトバーガーの包装紙がくしゃくしゃになって丸めて置かれている。有香はバッグヤードの壁に取り付けられた鏡で化粧直しをしようと化粧ポーチを学校の鞄の中から取り出した。鏡に映る彼女の顔の輪郭は、耳の辺りから顎まできれいに弧を描き、何かを秘めたようにも見える意思の強そうな大きな目が細長い鼻の上に付いている。少し茶色に染めたショートカットの髪の毛をとかし、アイラインを引き直した。対面の椅子に有香が座ろうとしたら多田くんがびっくりして起きた。「それおいしい?新メニューの照り焼きトマト」と有香が聞いた。「うん、まあまあいけるよ。てりやきにトマト乗せるなんて画期的だよ、てりやきのしつこさがトマトが打ち消してる感じ」「へえーこんど食べてみよっかな!」「川嶋さん六時上がりだっけ?俺八時上がりだけどここまで自転車できてるから八時で上がっても九時に家につくんだよ。やんなっちゃうよ田舎の方だから虫が顔にバンバン当たるんだ」「えー虫苦手。私六時上がりなんだけど、お母さんが近くで働いているからお母さんの車で帰るよ」「そうかー、六時上がりなら、あと二時間ってところだね。あっそろそろ時間だ。じゃあそろそろ俺もどるね」と言って多田くんはキッチンに戻った。休憩から戻った有香は今度はキッチンに入ってハンバーガーを作る仕事をした。有香はキッチンリーダーを手伝い、ひやっとするキャベツをちぎったり、ピクルスを裏の冷蔵庫から持ってきたり、バンズをやけどしそうになりながらもオーブンに入れたり、肉を鉄のヘラで裏返したりした。午後にも関わらずオーダーは途絶えずカウンターの方から「ハンバーガー二つ、チーズバーガー四つお願いしまーす!」と注文が入る。佐藤さんが「ちょっと川嶋さん悪いんだけど、ジュースの樽一緒に運ぶの手伝って、もう、腰が痛くって」と言ったので佐藤さんの反対側を持ってドリンクマシンの方運んだ。ようやく六時になったので有香はタイムカードを押した。みんなに挨拶して、高校の制服に着替え、店の入り口のみんなの靴がひしめき合う中、自分の靴を探し出した。店用の黒いローファーから履き替えて、その先にある扉を開けようとすると急に店長がカウンターからバッグヤードまで息を切らして走ってきて「川嶋さん来週のシフト次来る時でいいから持ってきて」と汗を拭きながら店長は言ったので、「はい分かりました」と有香は言った。
 同じモールの中の小さい保険のテナントはこじんまりとし、外に勧誘の赤いのぼりが出ていて、カウンターが一つと、ラックには定期死亡保険、がん保険、終身医療保険など、様々な種類の保険のパンフレットが並んでいて、カウンターに有香の母親が客に熱心に保険の説明をしていた。客は若い夫婦で小さい子供を連れている。有香の母親は黒いスーツでビシッと決め、年々化粧は濃くなっていたが、年のわりに若く見える方だと有香は思っていた。母親が忙しそうにしているのでしばらく店内をうろついていると終身医療保険に目が留まった。そこには女性の7人に1人がかかるという乳がんについて押しつけがましくもないが、しかし確実に淡々と細かい字と色々なデータをもってしきりに勧めていた。有香は明日急に母親が乳がんになったところを想像した。そうなったら父親の収入は期待できないし、私がアルバイトを掛け持ちしたりもっと悪い場合には水商売ではたらくしかなくなるんじゃないかと恐怖に陥った。自分が胸元をあらわにし、深くスリットの入ったピンク色のドレスのような服を着て、店長にドンペリニヨンを笑顔で注ぐ姿を想像してしまった。意地の悪そうな同僚や、体をなめまわすように見る常連、ぎらぎら光る赤、青、白色のライトがやや暗くなった席をぐるぐる照らす。「有香待った?悪いんだけど今から事務仕事があるから30分くらい待っててくれる?」と接客が終わった母親は有香に聞いた。「えーまたあ30分も待つの?行くときはすぐ終わるって言ってたじゃん、これじゃあバイトが7時終わりでも大して変わらないよ」「悪いわね、ちょっと外の空気でも吸って来たら、それか本屋まだ空いてるから」と母親は申し訳なさそうに言った。仕方がないのでいったんモールから出てみると、冬の冷たい風が今まで油の混ざった蒸気にまみれていた有香の体に当たり、有香は新鮮な空気を深く吸い込んだ。改めて自分のバイト先を見上げてみた。ピンクの屋根の真ん中辺りに、夜の暗闇の中、赤と黄色のネオンで縁取られた四角の中に「BH」というロゴがこれまた同じ赤と黄色のネオンで縁取られて煌々とまわりに光を放っている。屋根も同じ赤と黄色のネオンで縁取られ、その光は昨日の雨で濡れた駐車場に色を落としていた。BHというのは「バーガーハウス」の略で県内に数店舗出店している。有香は有名店に負けじと頑張っている涙ぐましい姿に惚れて思わずアルバイトの募集に応募したのだった。外から店内を見ると四人掛けソファに部活帰りの高校生らがおしゃべりに花を咲かせている。ぽつりぽつりと数人のひとり者のサラリーマンがポテトを口に放り込んでいる。カウンターでは多田くんが暇そうに、ストローやマドラーの補充をしている。ドライブスルーの車は今は閑散としていて、駐車場の暗闇の中、車中で恋人たちがこっそりハンバーガーを食べているのが見えた。
 「有香、お待たせー」と母が目の前に車を横付けし窓を開けて言った。有香は「遅いじゃん何分待たせるのよ…」などとぶつくさと言っていいながら車に乗った。20分ほど走ると自宅に着いた。築25年の古アパートで廊下に電灯もない。駐車場の入り口の急な勾配のおかげで駐車場に入るときにがくんと衝撃が来て車は一瞬上へ浮く。停車位置を示す白線も斜めになっていて何度も切り替える必要がある。一段上がるごとに妙な振動がする階段を上り、暗い廊下を抜けると、202号室、川嶋家のドアを開けた。
 「おかえり有香、今料理作っているところだからちょっと待ってて」お父さんがエプロンをつけて料理をしている。今日はとんかつのようで油の匂いが部屋に充満している。「おとうさん、換気扇つけてよ。部屋が油臭いじゃない」先ほどまでいた油の帝国から帰ってくるなりこれだと有香は思った。「油くさいっ」と母が後から入ってきて言った。父はしぶしぶ換気扇をつけた。また髭が伸びたようで頬まで達している。髪の毛はもじゃもじゃと人間に興味がなくなったように頭を覆っている。体は日に日に痩せていくようだった。人を射抜くような目つきだ。「有香もうちょっと人に対する感謝ってものがないとこの先の人生で困ることになるぞ。あとでお父さんの料理の手伝いをしなさい」有香は父の小言を聞きたくなかったので、父の横で洗い物の手伝いをすることにした。「お父さん執筆進んでる?」「ようやく筋が見えてきたところだな。今度はお前が主人公なんだ。これはいい作品が仕上がりそうだぞ。仕上がったら新人賞に応募して優秀賞間違いなしだ。そうなったら、この生活とは決別だ」「私が主人公?なんで勝手にそんなことするの。特に目立ったこともしてないのに小説が面白くなるわけない」母はさして興味もなさそうにテレビドラマを見ながら酎ハイを開けている。長い黒髪がソファにばさっとかかっている。「目立ったところがないからいいんじゃないか。淡々とした生活から何か深遠なものが浮かび上がって来る、そんな小説を目指しているんだ」父にとって「深遠」という言葉ほど似合わないものはない、と有香は思った。「おい、有香もうできるから、皿の準備して、あとお母さんも呼んできて、ご飯できたって」「はい、はい」と言って有香は料理の皿や飲み物のグラス、調味料などをテーブルに並べた。「お母さーんごはーん」何も耳に入らなかったかったように母親が席に着き、二人も席についた。夕飯は質素極まりなく、白飯、豆腐の味噌汁、とんかつとキャベツの千切りが大きな白い皿に乗っている。
父は美味しそうに食べていたが、有香とその母親はあまり食欲がわかず箸が進まない。テーブルの上のライトが母親のほりの深い顔を暗くした。「ちょっと話があるんだけど、その作家の夢とやらはいつあきらめられるのかしら、こんなことは分かりきったことだけどこんな生活はこの先続けることは難しいし、有香のこともちゃんと考えているの?あなたの態度からは微塵も感じられないの」と母親が急に切り出した。父親にとってこの一撃は上空から降って来る槍だった。
「だから言ってるじゃないかいつも。小説を書くことは俺の情熱だしもちろん家族を無下にしているわけじゃない。つまりは人生のバランスなんだ。天秤の重さをちょうど半々にするようにね。俺は家族の犠牲にはならないし、家族を犠牲にしない」
「私たちの生活は学生の頃から全然変わってない。いつも、あなたの理想があってその理想の枠に私が入らないといけないの。あなたが安定したあの会社を捨ててまでやりたいことなら私もついて行こうと思ったのよ。でもそれは間違いだったわ」
「そんなに今深刻になることはないじゃないか、小説が完成したら出版社に送って、それからまたこの話をしよう」
「何回も同じところをぐるぐる回ってばかり。もうこんなことは続けられないわ」「続けられないってなんだよ。それはちょっとひどいな」「ごめんなさい、ちょっといいすぎたわね。でも私の言いたいことはそういうことよ」その話の間、有香はうつむきがちに携帯をいじっていた。有香はとんかつを三分の一は残して、「ごちそうさまでした」と言ってから皿を台所に置き、自分の部屋に入った。 
 有香は部屋に入るなりうつぶせでベッドにした突っ伏した。ベッドの上の子供の頃から部屋にある犬のぬいぐるみは汚くなっていて、そろそろ洗わないとなと有香は思った。お父さんは私を主人公にするつもりらしいが、あることないこと書かれてはたまらないと不安になった。それからバーガーハウスの煌々と光る赤と黄色のネオンが夜空の灰色の雲に反射してその雲がゆっくりと移動している様子を思い浮かべているうちにいつの間にか眠りに落ちていた。

 有香は部屋の白いカーテンの光で目が覚めた。テレビをつけると朝のニュースがやっていて、「こちらは小田原城址公園に来ています。ただいまこちらの松には雪吊りがほどこされ、風情のあるおもむきを感じさせています。まだまだ寒い日が続いています。しかし、よくこちらをよくご覧ください。足元にふきのとうがあるのが見えますでしょうか。こちらにいらっしゃるのは庭師の岡本さんです。よろしくお願いします…」アナウンサーが現場に中継と繋ぎふきのとうを紹介していた。わたしもあんなきれいなアナウンサーみたいに将来なりたいなと、ぐしゃぐしゃになった寝癖を櫛でとかしながら有香は思った。リビングへ行ってみると親の寝室は閉まっていて、父親の寝息が聞こえてくる。台所へ行き夜父が作り置きしておいてくれた、味噌汁と、ごはんを暖め、ごはんの上に卵をかけた。椅子に座り、リビングにあるテレビをつけて先ほどのニュース番組の続きを見た。「こちらは北海道に来ています。連日にわたる寒気の影響で周りは一面雪景色で、こちらの車の上にはこんなに雪が積もっています。あちらの山をご覧ください真っ白な雪化粧を施していて実に美しく…」有香は朝ご飯を食べ終わると、台所へ皿を置き、部屋にいったん戻って制服に着替えると寝ている両親を後にして家を出た。
 イヤホンをして自転車をいったんこぎ出すと木枯らしがハンドルを持つ手やマフラーと首の間に当たり冷える。学校まではほとんど下り坂なので楽と言えば楽だが、路面が所々凍結していて急にブレーキをかけると横滑りするので気をつけて走った。朝の通勤のサラリーマンが両手を上着のポケットにつっこみ、マフラーに顔を埋めながら歩いている。マンションの日陰になったところから太陽が急に出てきて全身を暖め、顔を照らし眩しい。さわやかな朝に似合う曲がイヤホンから流れている。しばらく走ると冷たい風で有香の耳と頬は赤くなっていた。
 坂を下り終えると学校の駐輪場で真希に会った。
「おはよー、真希。今日も寒いねー」
「おはよー有香。もう本当にさむくって今日は下に三枚も着てきちゃった」「テスト勉強してる?私アルバイトが忙しくって全然できないの」
「私も部活が忙しくて全然だよー。なんでこんな時に部活なんかやるかな。しかも先輩の作品の展示の手伝いもやらされたんだよ。ほんとムリゲー」「ムリゲーって何?それはやってるの、聞いたことない」と有香は笑って言った。「それじゃまた教室でね」と真希が言い、真希は美術室へ、有香は教室に向かった。有香は学校の活気に溢れた雰囲気は好きだったが、特に勉強が好きといったわけではなかった。なので授業中は先生の言っていることは漠然とノートに書き留めていたものの、機械的に書き留めているだけでそれは知識欲から来るものではなかった。窓の外から冬の空の柔らかい光が冷たい教室を暖める。黒板の前に黒いストーブが赤々と火を立てて、そのまわりに数人の男子と女子がいて、皆ストーブの方へ両手を出し何か話していた。教室から校庭を見渡すと、駐輪場の裏手や、花壇の横や、体育館の壁のわきに、誰かが雪かきした後の雪の山がいくつか見えた。
 昼休みにパンを買いに学校の購買へ行くときに、廊下で多田くんとその友達とすれ違った。
「おお、川嶋さんじゃん。昨日はお疲れ様。今日もバイト?」
「今日もバイトだよー連勤でやんなっちゃう、またあの店長に合わないといけないんだから。しかも今日から冬メニューのかぼちゃコロッケバーガー始まるんだって。あっこれまだ企業秘密だから内緒ね」多田くんを見上げて言った。
「かぼちゃコロッケバーガーって去年もやってたじゃん。もう客もお客も飽きてきたんじゃない。シフトが多すぎてテストどころじゃないって」
「ほんとわたしも今回はさすがにやばいかも」
「川嶋さんは勉強しなくても出来ちゃうからいいよなー。俺そのままの成績だもんな。じゃあ、そろそろ俺たち行くよ」と言って多田くんは体育館の方へ行った。後で振り返ってみると友人が多田くんの体を押してからかっている様子が分かった。きっとバスケに行くんだろうなと思ったが、有香は恥ずかしくなってきたのでそそくさと教室に戻った。
 午後の時間はゆっくり過ぎた。日本史の授業では先生が黒板に旧石器時代、縄文、弥生と書き、「はーい、この3つの時代いつ頃から始まったかわかる人ー。分かれば、この時代の特徴も教えてくださーい」と言っている。有香は古代の不思議な古墳に思いを馳せ、それが現代のここから数100メートルのところにあり、以前そこに行ったことを思い出した。古墳は緑の草で覆われ、ぐるっと一周回ってみると、まるで親戚の墓にいるような不思議な安心感を覚えたのを思い出した。有香は資料集を開き、不思議な古墳の形や、異様な縄文土器の模様や、ちょっと笑いそうになる土偶の顔を授業そっちのけで見ていた。携帯をそっと出してみると、着信があったので机の下で見てみると父親からだった。件名の欄には「今日の買い出し品目」とあり、本文には食材が羅列している。最後に「安いのあれば安い方買ってきてな。よろしく」と一文添えられていた。有香は「お母さんに頼みなよ」と返信したが、すぐ「お母さんは忙しいんだよ。お父さんはちょっと今日は無理だから頼むぞ」と返って来た。
 今日のバイトは五時からだったので授業が終わったら服を見に行ったりしようかと思ったが、無駄にうろうろ街をぶらつくのもなんなので、買い物をしたあとにバイト先の近くの本屋でファッション誌を眺め、早めに店の休憩室でぼんやりしていた。「おはようございまーす」とスタッフに挨拶した。今日は平日ということもあって、いつもよりスタッフの数は少ない。佐藤さんは今日は休みで、林さんがキッチンを一人で切り盛りしている「おはようございます林さん」と言うと「あら、早いじゃない、まだ十分あるわよ。そんなに早く来てもお金の無駄になっちゃう。もっとぎりぎりでいいんだからね」と言った。
 店長がカウンターの反対側にジュースマシンの扉を開け、清掃をしている。透明な管が何本も出ていてグレープフルーツジュースが透明な管を通って下のバケツに注いでいる。その流れを店長は両手を腰にあてじっと見ていた。「店長おはようございます」というと「おはよう川嶋さん、今日はドライブスルーのカウンターの方担当ね」と言ったので、有香はドライブスルーのカウンターの方へ行きマイクをつけた。しばらく客は来なかったので、特にやることもなかった。しばらくすると車が一台来た。
 「いらしゃいませ、ご注文はお決まりでしょうか」
「ハンバーガーセットひとつと、あー、えーとポテトLサイズにして下さい。あと飲み物はそうだなーメロンソーダあります?やっぱやめた、普通にコーラにしてください」
「かしこまりました。では前に車を進めてください」
「ワンバーガーセット入りましたー。ポテトLの飲み物はコーラでー」
「りょうかいでーす」と新人の男の子が言った。車がカウンターの前に入って来た。あまり街中で見ないやや旧型のクラウンで、ボンネットにすすけた感じの王冠のマークが取り付けられている。窓が開くとグレーの上下のスーツを着て赤いネクタイをした男が有香を探るような目で見ている。年寄りには見えずかといって若いというわけではない。「なんかいやだな」と有香は思った。新人の子から注文の品を受け取った有香は恐る恐る注文の品を差し出した。「730円になります」と有香が言うと、男は手を窓から出し730円を有香に渡した。「ちょうどになりますね。レシートは必要ですか」というと「ええ、下さい」と男は言った。有香はレシートを渡すと男は「ありがとう」と言った。そして忘れていたかのように「それと、これ」といい有香の手に小さくちぎった紙を押しこんだ。男は窓を閉め車を前進させ、そのまま道路の車の流れに乗り去って行った。有香は気が動転し、心臓はどきどきして、手に握らされた紙をもう一度見てから、その紙を二つ折りにし有香はズボンのポケットに入れた。有香は店長に「ちょっとお手洗いに行ってきます」と断りを入れてからトイレへ駆け込んだ。トイレの扉を閉めると、先ほどの紙をゆっくりと開いた。そこにはこう書かれていた。
「おまえの母親は店長と不倫している」
 有香は一瞬母親の顔を頭に思い浮かべた。母親が不倫、しかも、あの店長と。あまりに唐突なメッセージに有香は立ちすくんだ。いや、それにそもそもの話、あの男は誰なんだろう。と有香は思った。有香は急に面白くなってきた。そんなバカげた話なんて信じられないと思った。よりによってあの店長と!でも本当なら一刻も早く父親に伝えないとなと思った。でも、そうなるともしかしたらもっとめんどくさいことになるかもしれない。有香の心は混乱してきた。母親と、あの店長、しかも店長は店にいる!いったいどんな顔をして戻ればいいのか有香にはわからなかった。でも長くトイレにいるのは気がひけてくるので、とりあえず店に戻る事にした。 
 店長は札束を手にキャッシャーで7時までの売り上げを計算していた。恋愛のようなものには縁遠くましてや不倫などというものなどに手を染める男にはまったく見えない。店長は少し鼻歌交じりで次々と別の種類のお金を数えて、それをまた別の透明な袋に入れていた。キャッシャーの金をすべて数え終えると二重のでかい腹でキャッシャー押し、キャッシャーはガシャンという音を立て閉まった。店長はまた機嫌よさそうにマドラーの補充に取り掛かった。店長の近くを通るとき、有香は店長から女の匂いがしないかかいでみたが汗くさい匂いがするだけだった。突然「川嶋さん、トイレから帰ったら、一言いうように!」と言われたので「はい!」とびっくりして言った。そのあとドライブスルーのカウンターで何台も接客していたが、いっときもあのメモのことが頭から離れなれず、客が来ないときは上の空で、たまに店長の方に目をやった。店長は今度はハンバーガーの調理にかかっていた。ケチャップをパンにケチャップマシンで付けていた。上がる時間が来て「おつかれさまでしたー」とよそよそしく店長にいい店をあとにした。
 自宅のアパートの駐輪場でもう一度あのメモを開いた。しかしそこにはさっきと同じ文言が書かれていた。有香はどんな顔をして母親に会えばいいか分からなかったがとにかく自然にふるまうことに決めた。
 玄関を開けると昨日と変わらず父親が料理を作り、母親はテレビをつけていた。有香の位置からは母親の顔は見えなかったが、昨日とは違う印象を受けた。それは大人の、秘密の女の背中に見えた。三人でテーブルに着くと「有香今日学校はどうだったの?」と聞いてきたので、有香はまじまじと母親の顔を観察し「まあまあだったよ」とそっけなく返事をした。
有香にはいつもどおりの母親に見えた。父親は「まあまあとかじゃなくてちゃんと答えなさい。どんな授業をやってこう思ったとか。何かあるんじゃないか」と言うと、「有香はバイトで疲れてるからあまり話したがらないのよ。もうちょっと気を使ってよね」と有香をかばった。
有香はありがたかったが、何か気づまりになってさっさと夕飯を終わらし、部屋へ行った。
 ベッドで仰向けになって、灰色のスーツの男から渡されたメモをじっと部屋のライトに透かして見た。鉛筆で男の字で書かれている。すると母親が「ゆかー先にお風呂入るー?沸いてるよー」と言った。しかし、体が動かず面倒になったので「先に入っていいよー」と言った。「じゃあ先に入るから」と母親の声が聞こえた。母親の裸を想像した。母親の裸は有香が小さい時以来見ていない。今はどんな体になっているのだろう。いまでも男を誘惑するような体つきをしているのだろうか。そして否応なく店長のことを考えた。そしてそれはすぐに失敗だったと思った。有香はヘッドホンをつけて今流行っているアーティストのスローテンポな曲を流した。しばらくすると、何も考えなくなった。そのまま有香は、風呂も入らず眠ってしまった。

 次の日学校へ行くとバスケット部の朝練から帰って来た多田くんとばったり靴箱の前で会った。
「おはよう川嶋さん、昨日はバイトお疲れ様」と部活でかいた汗を拭いながら言った。「おはよう多田君」と有香は言ったとたん、昨日の出来事がまた現実のものとしてあらわれてきた。学校に来るまで昨日のメモの件は頭の片隅に無理やり追いやったばかりだったのだ。
「なにかあった?何か顔色悪い感じだよ」「多分大丈夫だと思う」と言いながら、有香は少しめまいのする体を支えていた。「やっぱり顔色悪いよ。今日は早退した方がいいんじゃないか」有香はしばらく考えたのち言った「多田くん、今話せる?ちょっと店長のことで話があるんだ」
多田くんは体育館へと続く階段で大爆笑した。
「店長と川嶋さんのお母さんが?ありえないよ。そもそもそのメモを渡してきた奴は誰だよ。まるで探偵じゃないか。そんなことするほど暇なやつなんだな。きっと川嶋さんが美人だったから話かっただけじゃないの」
「そういう感じじゃないの。うまく説明できないんだけど、その人は異様な雰囲気があって、そんなふざけたことをやる感じに見えなかった」
多田くんは少し興奮を落ち着かせ「川嶋さんが言うならそのメモは本当かもしれないけれど、あの店長と川嶋さんのお母さんが不倫してるなんてとうてい信じられない」
「それはそうよね。こんな話信じてくれる人なんてこの世にいないよね」「そんなことはないと思うけれど信じるなら何か証拠みたいなものが必要だな」「証拠?」
「そう、よく週刊誌であるような芸能人が恋人や愛人と街中あるいている写真みたいなもの。写真と言わなくても、二人でいるところを見れば川嶋さんも納得できるんじゃない?それにしても今年一番面白い話だよ。川嶋さんには悪いけどね」
「そこまで言うなら、もっと面白いことがあるよ」
「何?」
「一緒にその証拠を見つけてくれない?」
「証拠さがしか。探偵みたいで面白いな。最近毎日が単調で退屈してたんだよ。さっそくどこから手を付ける?まずは店長の足取りでも探そうか」
「そんなに乗り気になってくれると思わなかった。正直わたしもちょっと楽しくなってきちゃった」
「確か今日って店長休みの日だろ」と多田くんは学校の鞄からバイトのシフト表を確認した。
「あ、やっぱりそうだ。店長休みだよ」
「休みだからって何かできる事でもある?」
「その日川嶋さんは出勤になってるけど、川嶋さんは出勤するふりして休んで、お母さんを見張るんだ。その日俺も休みだからあとで合流することにしよう」
有香は机の引き出しの中にしまってきたあの小さいメモを思い出した。
「おまえの母親は店長と不倫している」
さきほどの楽しかった気持ちはすっかり消えていた。階段に座っている間に体は冷え切っていてた。灰色の雲が空を覆っていた。
多田くんと決めた日に、有香は学校が終わるとバイト先に休む電話をした。電話に出たのは林さんだった。
「お疲れ様です川嶋です」
「おー川嶋さんどうしたの?」
「実は今日なんですけど、ちょっと体調が悪くて、さっき熱をはかってみたんですけどいつもより高くって、体もだるいので、今日は休ませてもらえませんか?」
「えーそうなのー?今日はちょっと店長がいないから人足りなかったんだけど、でも体調が悪いんじゃ仕方ないわね。じゃあ今日はゆっくり休んで、美味しいものでも食べてお大事にしてね」
「すみません、ありがとうございます。しつれいします」と言って電話を切った。有香は何かをさぼるのはこれが初めてだったので、林さんに悪い気がした。こんなに罪悪感を感じるなんて自分でも驚いた。「でもしかたがない」と有香は思った。「これからやろうとしていることはハンバーガーを作る事よりももっと重大なことなんだから」
 自宅アパートの反対側にある公園にある祭りのために使う飾りが収められている倉庫の陰に隠れ自宅から母親が出勤するのを待った。多田くんにメールしてみるとあと5分ほどで公園に到着するといういうことだった。自宅をこういう風にまじまじと見ることはなかった。色が薄くなった緑色の屋根、やや黒ずんだ壁。雨樋のプラスチックは今にも割れて、そこから雨水が漏れ出しそうだ。アパートには全部で十戸あり、一階当たり五戸並んでいる。その二階、左からふたつ目の扉に目を凝らしていた。今のところ動きはない。公園では五歳くらいの女の子を連れた母親が来て、砂場で子供を遊ばせている。子供は自ら掘った穴の中にどぼどぼとバケツの水を入れている。子供の母親が時々、怪訝そうな視線を有香の方に投げてくる。確かに女子高生がアパートをずっと覗いているなんて不気味な光景だ。
 ちょうど十分後、多田くんが自転車で現れた。「川嶋さん、どんな調子?」
「動きなし。昨日この時間に家を出るって言ってたんだけどな」
「もう少し待ってみようよ。それとこれ」と言って多田くんは双眼鏡を取り出した。
「双眼鏡なんて本当に探偵みたいだね」有香は笑った。有香は双眼鏡を借りて自宅を見てみると二つの暗い穴の先に玄関の前に置いてある観葉植物や父親手作りの木彫りの表札が廊下の柵の間から拡大されて良く見えた。視線を台所のすりガラスに移すと窓に人影が見えた。すると玄関の扉を開けて母親が出てきたのが見えた。母親は長い髪を巻き、黒いダウンのコートの中にエンジ色の長いワンピースを着て、真珠のネックレスを着け、黒いブーツをはいていた。
「多田君!お母さん出てきた!」と言って双眼鏡を多田くんに渡す「あれがお母さんか。すごく若々しい感じがするな!あっどこかへ行くぞ」
母親は自宅を出るとバス停に向かい時刻ぴったりに来たバスに乗った。
「まずい、多田くん、お母さん見失っちゃう」
「あのタクシーに乗ろう!タクシー!」と多田くんは大きく手を振って無理やりタクシーを止めさせた。
「行先はどちらへ?」と薄茶色いサングラスをかけた中年の運転手は言った。「あのバスを追ってください!」と言った。運転手は笑い声をあげて「あのバスを追うって?映画じゃないんだから冗談だよね」と言った。
「本当です!お願いします!」とふたりは真剣な顔で言った。
「分かった分かった。でも距離がかかればその分料金かかるからね、そのあたりよろしくー」とサングラスを一回白いシャツで拭きなおしタクシーは出発した「じゃあお願いします」と二人は言った。
 バスは有香がいつも使う大きな駅に着いた。
「ここで大丈夫です」と言ってタクシーを降りた。遠くからバスから規則正しく人が降りてくるのを観察し、母親を見逃さないようにした。
「あれ、お母さんじゃない」と多田くんが言った。母親は高架下のバス停から高架へ階段を上り、駅前の大勢が行き交う高架の上をどんどん歩いて行く。ひと波の中に紛れたので、黒いコートの下のエンジのひらりとしたワンピースを目印に見失わないように、二人は距離を一定の間隔に保ち尾行していった。母親は高架からデパートの二階に入った。ふたりもすぐに入り口に入ると、母親の後姿がデパートのアンティークな感じのする喫茶店に入っていくのが目に留まった。この喫茶店はちょうどデパートの角にあり窓が高架の方角に向いていた。だからふたりは一度デパートを出て、高架にある石のベンチに喫茶店の方角を背中に腰を下ろした。
 母親の方を覗き見ると、母親は窓際に座り、ちょうど白いエプロンを腰に回した店員がコーヒーを母親の座っているテーブルに置いているところだった。数分後、母親が入り口の方に笑いかけながら手を振って入り口から男が入ってくるのが見えた。黒っぽいスーツにグレーのシャツ、黄色いネクタイをしている。スーツの上着の腹のあたりは人一倍膨らんでいる。男はわれらが店長だった。
有香は頭が真っ白になった。
「おまえの母親は店長と不倫している」
高架が揺れているのか自分が揺れているのか分からなかった。それからグレーのスーツの男の薄い唇が思い出された。多田くんが「川嶋さん大丈夫?」と聞いたが、有香は軽くうなずいただけで、動揺は隠せなかった。もう一度喫茶店を見た。店長は母親のほっそりした手の上に、自らのグローブのような手を重ねていた。
「もう、ちょっと、見てられない」と言い、有香はコンビニのトイレに駆け込んだ。多田君もあとを追って行った。
「やっぱり本当だったんだな。店長のあんな恰好見たのはじめてだ。まあ店にしかいないからあたりまえなんだけど」と言った。有香は「多田君ちょっと悪いんだけど、わたし先に帰るね。色々ありがと」と言って別れた。
そのあと母親がこの不倫の舞台までやって来たバスに乗って有香は家に帰った。
母親が六時になって帰って来た。服装は黒いスーツで仕事帰りのように見えた。父が「おかえりー今日はわりと早かったな。すぐご飯できるから、ちょっと待ってて」と言った。
「今日は残業がなかったから、早く帰れたの。それにしても今日は暇だったー。新人の子に色々教えていて本当に大変。ごはんありがと。先にシャワーいい?」
「ああいいよ」
「じゃあ先に入るね。有香もいいでしょ先に入って」と言ったので
「いいよ」と言った。母親はシャワーに入った。風呂場とは、のれん一枚で仕切られていて風呂場は湯気で真っ白になっているのが見えた。母親はいつもより長くシャワーを浴びていることに有香は気づき、母親に気づかれないように風呂場をそっと開けると、少しだけ油くさい臭いがした。父親はキャベツの千切りを作っていて、リズミカルにキャベツが切られていく音が聞こえる。父親の体は台所の明かりのせいでこちらからは影になっているように見えた。有香は部屋に戻りひとり泣いた。そして無力な自分が悔しかった。店長は勝ち組だった。私たちが想像もつかないような、あの眼鏡の下の小さい目の中には獣が潜んでいた。有香は震え、次の出勤の日にそんな獣と対峙しなければならないかと思うと絶望的な気持ちになった。
店に入ると店内は慌ただしく、佐藤さんが走って冷蔵庫の扉を開けた「川嶋さん今日すごいよーお客さん、もう目が回っちゃう」
「今着替えてはいります」と暗い声で言った。
「川嶋さん今日は体調大丈夫なの。まだ風邪が治ってなさそうね」
「いえ、だいじょうぶです、すぐ元気になると思います」と言った。洗い場では、多田くんが何か言いたげにこちらを一瞬見た。
隣のカウンターで店長は小さい目をこちらに向けて、機嫌よく「おはよう川嶋さん。風邪でこの前休んだってね。林さんから聞いたよ」と声をかけてきた。店長の顔は血色のいい薄ピンク色でつるつるしていた。有香はぞっとして「おはようございます」というのが精一杯だった。有香は素早くカウンターのレジを開けた。目の前は沢山の客でごった返していてどの客もかぼちゃコロッケバーガーを求めに来ていることはメニューを見る視線から分かった。ふと、有香が客の先を見ると、店の向かい薬局の棚と棚の間からあのグレーのスーツを着た男がサングラスを着けてじっとこちらを見ているのが分かった。男は鞄からメモ帳を取り出し何か書き留めている。男はしばらく店内全体を舐めるように見たのち、むこうの方へ姿を消した。
 ラッシュは閉店間際まで続き、店中、床にはポテトが散乱し、揚げ油はこぼれ、ハンバーガーの肉はぎとぎとで、ジュースは枯渇していた。みなへとへとに疲れ無口だったが、店長だけは精力的にジュースの樽を持ってきたり、ハンズの補充をしたり、洗い物を洗い場に持っていったりしていた。
 閉店の時間が迫り、ショッピングモールでは蛍の光が流れている。林さんは子供の迎えがあるようで先に上がってしまったので、最悪なことにしめ作業は有香と多田くんと店長ですることになった。
「多田くん、今から売上金納めてくるからレジよろしくお願いします」と言い残し、XXLサイズのズボンをしゃかしゃかさせてショッピングモールの事務所へ向かった。
「川嶋さんどんな感じ?」
「最悪な気分。店長がそばにいるだけでこの前のことを思い出すの」
「とんでもないやつだ。どこからあんな発想になるんだろう。そもそもどこで知り合ったんだふたりは」
「きっとショッピングセンターのバックヤードか出入り口かどこかで知り合ったんだ」
「それかもともと同級生だったとか。全然知らないけど」
「店長はしたたかなやつだな。でもこのまま見逃しておくことはできないだろ」
「ほんとにそう。どうにかしなくっちゃ」
「いい考えがあるよ、それに今すぐここで痛めつけられる」
「ここで?」
「そう、この床に揚げ油を撒いておくんだ。そのあとに川嶋さんがまるで強盗にあったように叫ぶ。そうしたらおそらく店長は急いで走ってくるから、油に足を滑らせる」
「でもそんなことで不倫が終わるとも思えない」
「そんなことが何回か起これば、俺たちが何か知ってるってことにあの店長もさすがに気づくはずさ」
 ショッピングモールは閉店間際で照明を落とし暗くなっていった。出入口に定年退職した警備員が来てシャッターを下ろしている。店の前の薬局はもうすでに人が入らないように緑のネットを商品棚にかけていた。多田くんはキャベツを冷やす氷が入った四角い金属の容器を取り出し、中の氷をゴミ箱に捨て、それをまだ熱くなっているフライヤーの中の油の中に入れた。油はバチバチと音をたてた。多田くんはすくった揚げ油を床に撒いた。
 「川嶋さん準備オーケー」と言う多田くんの声が店内に響いた。有香はバックヤードで声をひそめていた。5分ほどそうしていただろうか。フロアにだらしなく歩くようなローファーの音が徐々に近づいて来る。多田くんが「店長来るぞ」と声を落として言ったので身構えた。「よし今だ!」と多田くんが言った。「キャーーー!!」と叫んだ。店長がバタバタと走って来る。次の瞬間ずるっと音がしたかと思ったら、ごんという金属音がしてひとが倒れる音が聞こえた。有香は店長の方へかけつけた。あたりは店長の眼鏡のガラスが散乱し、店長の頭から血がどっと流れて倒れている。血は排水口の中に流れ、水と一緒に洗い場の方へ流れて込んでいた。有香が「店長!」と叫ぶ。しかし店長はピクリともしない。「おい、店長」と多田くんが呼びかけるが動かない。多田くんがしゃがんで店長をさすって見るが、店長の体の肉がゆさゆさと揺れるばかりで、起き上がる気配はない。
「もしかしたら死んでいるかもしれない」と多田くんが言った。有香は小さな目を見て震えていた。目は空虚に床を見つめていた。「死んでる」
多田くんは「死体を隠そう」と言った。
「隠すってどこに」
「二階の冷凍庫だよ。あそこでひと晩店長を凍らせよう」
「川嶋さん早く何か大きな段ボール持ってきて!」有香はショッピングモールの段ボール置き場から大きな段ボールを一番大きな荷台に乗せて駆けつけた。有香は段ボールを死体のそばに置いた。
「くそっ重いな、川嶋さんそっちの足もって」有香は死体の足を持つが床の油に足を滑らせこけた。
「だめか、一度段ボールを床につけて体を転がそう」といいふたりで重い店長のからだを段ボールに押し込んだ。
「よし、あとは台車に乗せるだけだぞ」「うん」必死でふたりで段ボールを台車に乗せた。
 二階の冷凍庫の扉を開けると、ひりひりするような冷気が冷凍庫から吹雪いてくる。ふたりは台車ごと店長を運び込んで一番奥の段ボールの横に置き、念のため上に小さな段ボールも置いた。「これでとりあえず大丈夫だ。さあすぐ逃げよう」と多田くんは言ってふたりは走って店を出た。店の屋根にある赤と黄色のネオンの光がふたりを追いかけるように背中を照らし、行く先の路面にふたりの影をつくった。
 家に帰ってから多田くんからメールが入った。「家の車に積んで死体を運ぼう」有香は「車のなかじゃ氷は…でも方法がないならそれしかない」と返信した。「また朝連絡する。早いうちになんとかしよう」と多田くんから返信がきた。
次の日の朝ふたりはショッピングモールの裏の出入口に集合し中へ入った。ふたりがたばこ臭い警備員室を通ろうとすると「今日は早いですね、何かご用ですか」と言われたので、有香はとっさに「昨日店に上着を忘れてしまって取りに行かないと行けないんです」と言った。警備員は少し疑いの目をふたりに向けながら「そういうことでしたら」と言ったので、自分の名前と入店時間を紙に書き込みふたり中へ入ることが出来た。
 冷凍庫の重厚な扉を開けるとふたりは中へ入った。凍るような寒さだった。店長が入った段ボールはまだそこにあった。段ボールの箱を多田くんは開けた。店長の顔は黄土色で所々凍って白くなっていて、髪の毛は白くつららが出来ていた。
「このまま台車に乗せたまま車まで運んでいこう」と多田くんは言った。
「分かった」と有香が言って、ふたりは台車を押して、裏のゴミ収集車が出入りする段ボール置き場に運び、横付けした多田くんの車の後部座席に、凍った店長を乗せようとした。その時、シルバーのバンが近くに止まっているのにふたりは気づいた。車のドアが開くと中からグレーのスーツの男が現れた。踊るような足取りでふたりに近づいてくる。「この男が例の…」と有香は多田くんに言いかけると「その凍った男は私たちが貰っていく」と言った。「理由は、と当然思うだろうが悪いが企業秘密でね。それにしてもよくやってくれた。わたしの見込んだとおりだ。君には感謝する。さあ、そろそろその男をいただいていく。あまり時間もないもので」と言い、シルバーの車のボンネットを叩くと、後ろのドアが開き、白い冷気と一緒に二人の大男が現れた。ひとりはスキンヘッドで黒っぽい皮の服を来て、もうひとりは白髪で痩せた若い男だった。ふたりは店長の凍った頭と足を軽々と持ち、バンの後ろまで行きそのまま中に入って冷たい扉を閉めた。
「あらためて礼を言う。それじゃあもう会うことはないだろう」とグレーのスーツの男はサングラスを取って一瞬有香の方を見て、目をそらし、車に乗り込んだ。スーツの男が車に乗り込むときにズボンの裾が上がり、そこから白色と赤色のしま模様の靴下がのぞいた。車がターンして去って行くときにシルバーの車の側面に小さく黄色で「M」の文字が描かれていた。ふたりは遠ざかるマフラーからもくもくと排気ガスが出ているバンの後ろ姿を呆然と見送った。
 家に着くと両親は朝ごはんを食べている最中だった。
「有香どこへ行ってたんだ心配したぞ。何度も呼んだんだけど、出てこないから部屋に入ったらもぬけの殻なんだから。まあいいから顔洗って朝ごはん食べなさい」と父親が言った。
「女子校生なりの秘密があるのよ、ねえ有香」と母親が思わしげに言った。「秘密は誰にでもあるんだね、お母さんにも。でもわたしの秘密とは比べ物にならないけれど」と有香は思った。
「そういえば今日お前が主人公の小説が完成したんだよ。ちょっと空想小説みたいになったけどな」と父親は言った。有香は最近の出来事はすべて父親の創り上げた夢であればいいと思った。椅子にぐったりと座ると、父親がパンと卵焼きと豚のソテーが乗っている皿を出してくれた。有香は先ほど死体を運んだ手で箸を持ち、卵焼きを少し食べた。父親が豚のソテーの上にたっぷりケチャップをかけた。有香は吐きそうになって、トイレへかけこんで嗚咽した。
「おーい大丈夫か有香ー」有香は嗚咽しながら、大丈夫じゃない不倫のあらましを披露しようかと思ったが、そもそもその片割れがこの世ににいないのだから今更言ってもしかたないだろう。あのグレーのスーツの男のことも信じるはずがない。急に目の前の父と母が遠い他人になってしまい、有香はひとり孤独の中に閉じ込められてしまった気がした。

 ちらほら梅が咲きだして、暖かくなった。近くの貸し農園は少し前は一面雪に覆われていたが、今日はうねのてっぺんから小さな葉っぱが出てきている。有香は何事もなかったかのように学校へ行った。有香は心の中に掘った穴の奥深くに昨日と今朝の記憶を埋めた。きっと証拠が出ることもないんだろうと楽観的な気持ちになっていた。もしくはあまりにショッキングな出来事で心が麻痺してしまっているのかもしれない。学校では、有香はまるで子供のように、ノートに店長のふざけた絵やグレーのスーツの男やシルバーのバンの絵を描いた。有香は学校が終わると普段と変わらずバイトに行った。遠い昔の出来事が思い出されるように「BH」の看板を見つめ、扉を開けた。更衣室で着替えているとカウンターの方で声が聞こえた。
「この不況にあたってこの店の業績を回復する手立てはわたしたちに経営を任せていただくことなのです。われわれは世界中に店舗を持ち安定的な材料の供給が出来ます。世界中で同品質の高いサービスを提供しています。しかし今回残念なことにこの店はその舵取りを失いました。わたし自身とても心を痛めている次第です。ですからその舵取りを任せて頂ければわれわれにとっても……」有香は着替え終えてキッチンに向かった。
「川嶋さん聞いた?店長が行方不明だって。何度連絡してもつながらないんだってよ」と佐藤さんはレタスの容器を持ちながら言った。有香はこういう時にどんな顔をすれば良いのか分からなかった。「だから今日は新しい店長が来てるんですって」林さんが「川嶋さーん、新しい店長紹介するからちょっとこっち来てー!」と言ったので「はーい」と返事をしてカウンターの方へ行った。キャッシャーの前にグレーのスーツの男が立っていた。
「ああ、またか」と、有香は思った。


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