お笑いの危機?表現の自由?

 今の時代は冗談が通じにくくなっていると感じませんか?その理由を私なりに考えてみました。心の底から笑いたい、笑わせたい、そうは思いませんか?冗談が通じない理由は世の中がせせこましくなったから?私は単純にそうは思いません。差別発言の禁止、言葉狩り、そういうもので表現の幅が狭められている、そういう要因はあります。ですがそれだけでは説明仕切れていません。

冗談が通じるためには常識がわかってなきゃいけない。

 笑いというのは難しく、あえて説明するのは困難を極めます。私は笑いのセンスはなくともそれなりの鑑賞眼があると思うのでやってみます。ギャグとかお笑いの中では、普通はこうだと思ったのにそうじゃなかった時、私たちは笑います。それは良い意味で意表を突かれるから。私たちが持つストレートな思考、その横腹をくすぐられるような感じです。そもそもその前提となる事柄がわかっていなければそのギャグを理解するのは難しいでしょう。

マニュアルと常識は全く別のもの

 皆さんは常識がこの世にあって良かったとホッとしたことはありますか?例えばしばらく常識の無い無頼漢ばかりにに囲まれて過ごしたあと、普通の人と過ごす場合、常識のありがたみを感じます。それは常識というものが役に立っていて人間にとって必要なものだからです。ところが最近、ニューノーマル、つまり「新しい常識」という言葉があちこちの広告ニュースで散見されます。それが必要な常識かどうかも考える暇もなく、世の中の流行、新しい常識として押し付けられるのです。周りの人はやっていますよ、あなたもやりなさい、と。息苦しいタイプの「常識」です。定着しなければそれまでなのですが。あとは例えば自己啓発本には人の生き方とか立ち居振る舞いにまでマニュアルがあるかのように主張するものがあります。「厳しい時代を耐える生き方マニュアル」とか。

自分探し?生き方さえマニュアル化する社会

 このように、世の中にはマニュアルが溢れています。学校に入ったとたんそれはは始まります。中学生、高校生のうちから校則や反省文、感想文、報告書など、マニュアル漬けで過ごします。特に、今の中高生は昭和、平成と比べて内申点や提出書類に縛られる傾向が強くなります。一時期、「自分探し」という言葉が世の中を騒がせました。自分というものは自分の中には無いのか?そう突っ込みたくもなります。外界からあなたはこういう人です、こう生きなさいと、お墨付きをもらいたくてたまらない人もいるようです。私は成功体験とか、人からのお墨付きとか、何かしらそういうものがなくても自分は自分であり続けられると思います。話がそれました。本当に納得して受け入れているタイプの常識、それとは別にみんながやってるから、言ってるから常識だと思っていることがあります。

本質をついているから面白い

 本題に戻ります。本当に納得しないで受け入れている常識があったとして、それを覆すようなギャグって面白いですか?やり方もあるでしょうけど、やっぱり一番、心から笑えるのは本質をついている笑いです。表層をなぞるようなどうでもいい笑いは時代と共に忘れられていきます。妙チキリンなマナー講師と一緒で、枝葉末節をいじくりまわしても本質的には何も動かないのです。
狂言の中に、漁師がタヌキを捕まえようとする話があります。タヌキは殺されまいと抵抗して、僧侶の姿に化けて漁師に「殺生は良くない」と諭しにいくのです。この物語の魅力は公平な視点にあります。漁師側の主張も、タヌキ側の主張も、どちらにも共感できるのです。そこのやりとりはとても面白いのでぜひ見てみてください。
ただし、本質をつく笑いばかりでは疲れてしまいます。哲学してしまうから。どうでもいいことで笑わせるタイプもあります。それは観客に安心感を与えることでどうでもいいことで笑えるような空気を作るのです。私はこのタイプの笑いも好きです。それは、人と人のつながり、暖かさ、という本質をついているからです。

一番本質をついているのは赤ちゃんである

 奥が深く、言葉で説明しきれない笑いの世界ですが、こんなつまらない世の中になっても、唯一面白い存在があります。それは生まれて何ヶ月か数年も経っていない人達です。裸の王様の中で王様が裸だよ!と叫んだのは子どもです。私は赤ちゃんが出てくるYouTubeはついついみてしまいます。安心して笑えるからです。この子が大きくなったら動画は削除した方がいいのでは、と思いながらも、赤ちゃんが作り出す笑いは鉄壁だと思います。
しかし私たちはいきなり子どもに戻るわけにはいきません。そこで必要なことは、大人になる過程で身につけた常識、俗説、思い込みと言ったものを少しづつ解体して、本質を理解していかなければならないのです。私が某、美術大学に入って初めて言われたことは忘れられません。デッサンを学び、着彩、立体造形など様々な課題をクリアして入った美大ではっきりこう言われました。「今までの受験勉強のことは全て忘れてリセットしてください。」と。受験というマニュアルの先に大学があるのではなく、これからは自分で組み立てていくのだと私は解釈しました。

赤ちゃんには戻れない

 笑うためには笑いの前提である常識と本質を理解していなければなりません。ところが私たちは知らず知らずのうちに、まるで根拠の無いものをみんなが言ってるからやっているからだという理由で常識だと思ったしまいます。例えばその人のいないところで悪口を言い過ぎてはいけないとか、そういう常識はそれなりの根拠があります。その集団の空気が悪くなるのも1つ、その人の支持者を傷つけるのも1つ、他ならぬ自分の印象を損ねることも1つ。常識は本来、人間の社会には欠かせません。
その一方で、根拠がないままに常識だと思って生きていると本質とか根拠をまるで考えなくなります。そう言ったものは常識ではなく、常識モドキです。根拠のないものの上に大きな城を築くことなど出来はしない。緩んだ地盤から目を背け、上部を褒め合うだけの人間関係がせいぜいでしょう。メンタルが弱くちょっと指摘されたらすぐに逆上する、現実から目を背けて進歩しようとしない、他人の考え方に合わせることが進歩だと思っている。
まあ、何も考えずに生きていてそれで人生うまくいっているならそれだけ世の中が平和な証拠なのでしょう。しかし、常識モドキで頭をいっぱいにして右見て左みて生きているだけでは心の底から笑うことも笑わせることもできはしません。

だったらどうすればいいのさ!

 人生が楽しくない、世の中がつまらない、冗談が通じない、開けっぴろげに心の底から笑えない、そういったことはある意味チャンスです。あなたが真の常識人である証なのですから。それは属性ではありません。そういう一面もあるってことです。誰でも持ってるはずです。あとはそれをどれだけ強化していけるか。赤ちゃんに戻ることは出来ませんが、物事に対する視点を変えたり勉強し直したりすることはできます。ここでの勉強とはまる暗記や鵜呑みではなく、疑問を持って物事に対面するのです。
 ここで注意点。勉強はめんどくさいですが、せせこましい世の中、やらされている感でいっぱいで生きていくのがしんどい時、「好きなことをして生きていく」という甘言に惑わされてはいけません。好きなことを始めたらその分嫌なこともたくさんついてくる、それが真理です。どんな趣味でも歯を食いしばらないと本当の喜びは得られません。都合の悪いものを直視する、自分のやりたいことを極める、一見相反することですがどちらも本質に迫る行為だと私は思います。

 以上のように理屈をこねくり回していた私ですが、今日、一つミスをしました。予定を1時間勘違いしていました。俺はやるぞ!と張り切って出かけていったらすでに終わったあとでした。この日のために1週間バイトを頑張ってきたのに。秋になるといつもこんなんです。北海道民だけど寒さにはめっぽう弱い。じぶん、変温動物なので。ああ、眠い、冬眠したい。
自分のうっかりを季節のせいにして溜飲を下げたところでこの文章を締めくくります。

む!?今何か思いましたか?笑いのセンスはゼロだけど鑑賞眼だけは確かなんです!!

最後までありがとうございました。

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