科学を信じたらそれは科学ではない

学校で習ったことがあとで間違いだったとわかって教科書の内容が修正されたことはありませんか?例えば死火山と活火山。昔は死火山という活動をやめた火山と、活動を続けている活火山があると考えられていましたがのちの学説で否定されて教科書に載ることはなくなりました。火山の寿命は長く、歴史時代の噴火活動の有無だけで分類することは意味がないので、近年は休火山や死火山という分類はなされていません。死火山が完全に活動をやめたことを検証することができないからです。ほかにも、植物の葉に含まれる光合成をおこなう細胞質に葉緑体がありますが、昔の人は葉緑素と呼んでいました。このように学説は日々検証され、新しくなっていきます。

ではあなたは科学を信じますか?

え?信じる?うそでしょ。確かに人類の文明の発達は科学技術によって裏打ちされていますが、それは、利用方法がわかっただけのこと。技術的には応用できたとしても、実際にそれがどんな科学的なメカニズムによって実現できているのかについては研究段階であることがあります。原爆や水爆は作れるけど原子の中がどうなってるのかよくわかってないのが現状なのです。わかっていないからこそ、いろんな科学者が研究していろんな論文が発表され、日々その内容が正しいのかどうかを査読したり検証しています。

「宗教を信じるのも科学を信じるのもその人の自由じゃん?」なんて言う人がいます。

それは違います。科学を信じてしまったらそれは宗教にはまったのと同じこと。科学的な態度とは言えないんです。だから、

宗教を信じているひとも科学を信じている人も同じように宗教を信じている人

なのです。宗教を信じるのも自由だし、科学を宗教にしてしまうのも自由ってわけなんです。

歴史をみれば、もともと、科学と宗教ははっきりとはわかれていませんでした。古代ギリシアに始まる自然哲学は一見、科学っぽくはありますが、アリストテレスの独断や偏見が混じっていたり、ピタゴラスのように教団を形成して宗教のようなことをやっていたりしました。オウム真理教のような危険な新興宗教も多数存在したのです。

名前に騙されないでください。例えば幸〇の科学は科学はありませんし、創〇学会は学会ではありません。科学者の中にもオカルト的な人々は今も多くいてテレビや新聞、あらゆるところに彼らの思想を喧伝しています。彼らは思想家であり宗教家であり扇動家です。科学という名の宗教に、今も多くの人がはまってしまっています。

考えてもみてください。本を書いたりテレビにばっかり出ていたら、研究するひまなんてないはずでしょう?そして「わかっていない」が前提の科学の分野にありながらきわめて断定口調でこの世のすべてをわかっているかのようにしゃべる人々はみな、科学者ではなく思想家です。マスコミの人にとっても思想家は魅力的です。だからそういうひとばかりが取り上げられるんです。絵になるから。

科学的な態度の中に絶対はありません。何かを信じたり断定したり期待したり、そういう人間らしい感情をできるだけ排して、機械的に、論理的に考えていかないと間違えてしまうからです。科学者たちはきちんとした考え方とやり方と段取りで研究をすすめています。「現時点での研究に基づけばそれはあり得ない」とかそういう言い方をするのは、現時点での研究が絶対的に正しくなかった場合をも想定してしゃべっています。まどろっこしい言い方でかっこつけているわけではありません。白黒はっきりせいやー!って思う人もいるかもしれないけど、はっきりしたら正確な表現ではなくなってしまいます。

さて、昔の研究は間違いが多くて最近の研究が正しいかというと必ずしもそうではありません。昔から研究されている分野は正しいことが多く、あまり研究が進んでいない分野はこれから注意してみていく必要があるってことです。「最新の研究」とはつまりまだ十分に検証されていないということですから。

だから、もしもあなたが現代の科学技術に感銘をうけ、科学が積み上げてきた知識の偉大さを思うなら、科学的な態度の重要性を意識するべきではないでしょうか?

それとも科学を宗教にしてしまうのか、宗教を科学といつわって売り込むのか、それもその人の自由ですね。


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