ASKII文字とアルファベット、漢字や日本語の違いとメリット


近年、学校教育の場でプログラミングや英語の導入が「議論」と称して押し切られている。文字と言語について、合理的な観点、歴史的な観点で考えてみよう。

世界にはたくさんの言語があり、文字がある。日常で使う言語は、言葉だけではない。私たちは数字やコンピュータのプログラムなども知ってか知らずか、使いこなしている。今あなたが見ているWebページも、HTMLやCSSなど、決められたルールに則ってコーディングされている。(そしてそのルールは年々変わる)

日本語や韓国語、青森弁など、地域に根ざした言葉とは違って、数字やプログラムは世界共通である。アラビア数字を知らない人はほとんどいない。JavaScript は日本人にとっても中国人にとっても、同じプログラム言語である。だからこそ便利に使うことが出来る。今や、インターネットはワールドワイドに張り巡らされ、自作のゲームやホームページを作るためにプログラムにふれる機会は多い。

では、極端な話、世界中の言語もたった1つに統一された方が便利なのではないか、難しい漢字を覚えるよりは、英語で統一した方がいいのではないだろうか?

そのような見方をする人は昔からいる。例えば、エスペラント語と言って世界共通語を新たに作った人までいる。だがそれは、ほとんど広まらなかった。外国人同士会話するには英語と中国語が一般的になりつつある。日本では、最近になって小学校でも英語教育が導入されたらしい。しかし中には日本語をなくして英語だけにしようと考える極端な人までいるようだ。

それには反対意見もある。私は反対だ。英語教育がどこまで効果があるのかわからないが、言語の「合理的」側面ばかりを強調するような極論がうまくいくとは思えない。その「合理的」は、ある一面から見た合理性であって、ほかの合理性を損なうものであると主張するのが本文の趣旨だ。

英語は確かに素晴らしい。アルファベットという構造は、インターネットの普及には欠かせないものであった。まずはその合理的な側面から見ていく。

アルファベットの起源は、古代のフェニキア人にまで遡る。フェニキア人は地中海沿岸部全域をその活動領域とし、貿易によって富を築いた。ペルシャやアッシリアなど、大帝国が勢力を拡大しても、彼らは制海権を握り続けた。海を制する者は世界を制する。陸地に帝国を築き、支配するよりも、交易によって富を蓄えた方が長続きするということをこの歴史的事実は示している。

さて、国際的に活動したフェニキア人であるが、言葉の方にも工夫が存在した。それがアルファベットである。皆さんは外国語を学ぶ際に、まずはその国のアルファベットを覚えると思う。日本語なら「あいうえお」あるいは「いろはにほへと」。で、厳密に言うと「あいうえお」と「いろはにほへと」は違う。「いろはにほへと」は歌のようで意味ありげで気持ちが良いが、母音と子音の分類が存在しない。

とにかく、アルファベットは、知らない外国の言葉を習得するのに非常に便利だ。まず、学ぼうとする外国語にはどんな「音」が存在するのかを把握するところから始まる。フェニキア人は様々な言語を話す人々の間を行ったり来たりしていたのでこのような工夫が発達したのは想像に難くない。めぐり巡って「ABCD」を生むきっかけになったのがフェニキア文字ということだ。

ギリシャ文字や英語のアルファベットの画期的なところは、少ない文字数でよりたくさんの「音」を表せる点にある。ABCDはなんと26文字しかない。ロシア語は33文字。日本語は五十音なので、その約半分である。「か」という音を表すのには“K”と“A”を使うといった具合である。

英語の合理的なところは、少ない文字数で音を表せる点にある。現代において、コンピューターのプログラムには決められた文字が使われる。それがASKII文字だ。アスキー文字と読む。しかしアスキー文字だけではプログラムは働かない。それはコンピューターのような機械には人間の言葉は理解できないからだ。当たり前だろ、と言われるかも知れないが、機械には2つしかない。電流が流れるか、それとも流れないか。流れたら、1。流れなければ0。1と0の組み合わせがバリエーションのある指令を作り、コンピューターを動かす。このような言語をマシン語と呼ぶ。マシン語は人間には解読し難いので、まずは人間が作ったプログラミング言語をマシン語に翻訳する機械が存在し、そのおかげで私たちはコンピューターを操作できる。

このように、英語からコンピューター言語に至るまで共通することがある。それはいかに少ない文字数で言葉を表すか、ということだ。コンピューターに至ってはゼロと1にしか反応しないのだから、極限である。

でもなんだか、無機質じゃありませんか?味気ないというか。

一方、世界にはまた違った言葉も存在する。皆さんお待ちかねの漢字。マイナーなものも含まれるが、およそ10万文字もあると言われている。もしもそんなものがコンピューターのキーボードに存在したら大変なことになる。しかし、漢字にも覚え方というものがあって、部首や辺、つくりなど、漢字を構成する部品に、ある一定の法則性があるのだ。部首や辺、つくりの組み合わせによってたくさんの漢字を覚えることが可能だ。

だから、漢字からキーボードを作ることも、夢ではないかも知れない。その場合、やっぱりキーボードはデカくなってしまいそうだが。

さて、部首や辺、つくりは、ある種の単純な形の漢字なのであるが、単純な漢字ほど、ある特徴を持つようになる。それが象形文字だ。形が絵のように、意味を表す。漢字はたくさんの文字数があるにもかかわらず覚えやすいのはこのためである。漢字の意味は1度覚えてしまうとかなり便利だ。

例えば、ラフレシアという花がある。初めて知るものだったとしよう。もしもそれを知らない人が、例えば英語圏の人がこの単語、“Rafflesia”を始めて目にしたとする。それが花だと説明されるまで花だとはわからない。ラテン語の翻訳にかけるとRafflesiaは「顔のない」だった。これではなんのことかわからない。中国語でRafflesiaは「大王花」。花のことであると一発でわかる。

英語はその単純さゆえ、致命的な不便を生んでしまっているのである。

長い文章を読む際、私は漢字に大変助けられている。速読というものが流行っているが、読書体験としてはよくないにせよ、速読する際には漢字の働きは大きい。

私の場合であるが、速度する時、こうしている。文は、始まりから終わりの「。」までが一つの単位だ。そしてその単位の中に含まれる漢字を起点にして、文一つを一瞥しただけである程度の内容を把握する。漢字のおかげで、1秒もしないうちに内容が把握できる。下手をすると段落ごとに速読できる。

試しにやってみよう。次の文を比べて欲しい。



•まいしゅうしゅうまつになるとしゅうまいがたべたくなる。

•毎週週末になると焼売が食べたくなる。

•毎週週末になるとシュウマイが食べたくなる。

•毎週週末来時、我食欲焼売也。




4番目は漢文としては間違っているかも知れないが、さてどれが先に頭に内容が入ってきやすかっただろうか?

速読は英語を読むときには可能だろうか?こればかりは英語圏の人に聞いてみないとわからないのであるが。

このように、英語に負けず、漢字もなかなか合理的である。覚えるのは大変かも知れないが、1度覚えてしまうと漢字はかなりの威力を発揮する。表現力においても、漢字はアルファベットに勝っている。

日本語のすごいところは、漢字、ひらがな、カタカナなど、数種類の文字を使っているため、可読性に優れている。この多様性を失って、英語のような平板で無機質な言語一色にしてしまうことは果てして「合理的」なのだろうか?

「合理性」とは常に同じではない。コンピューターに入力する時の合理性と、日常で話す時、感情を表現するとき、読書をする時、それぞれ合理性は違う。そういうことも踏まえると、日本から日本語を無くし、英語一色にすることは合理的とは言えないのである。

さて、合理性について、異なる側面があることは述べた。次は、文化について。

言葉には様々な歴史的経緯がある。日本語には標準語と方言、方言と標準語をミックスした〇〇なまり、がある。標準語と方言の違いには政治的な意図が絡んでいる。かつて、日本語は皆、バラバラだった。お互いの意思疎通が難しかったため、西欧化を進める明治政府が考えたのが標準語である。それを考えるに当たって、近代化とは何か、開国とは何か、を問い直そう。

そもそも明治より前の時代、江戸時代は武士の時代だった。商人は幕府が決めるルールに則って商売活動を行なっていた。現代でいうところの独占禁止法だったり、いろいろな規制である。人の出入りにも様々な条件がつくことがあった。だから人々は生まれた土地で育ち、死んだ。そして経済的に余裕のある人はたまに条件付きで神社仏閣へのお参りという名目で旅行を楽しんだ。地方によって話す言葉が違っても、ある程度意思疎通ができればそれで充分だったのである。それに、話し言葉が少し違っても、書き言葉はだいたい同じであった。日本全国の識字率は非常に高いものであった。

しかし、日本が開国し、1つの国として認められ、外国人がやってくるようになると問題は複雑化した。外国人がせっかく日本語を覚えても、地方では通じなかったりする。また、軍隊を編成するときも不便である。軍隊の中で地方から来た人が皆違う言葉を喋っていては、大規模な侵略戦争はやりにくい。それで、学校教育の中で標準語を教え始めたのだった。

標準語は何も、政府だけの都合ではない。地方から都会へ出稼ぎに行く若者たちにも必須であった。そのため先生たちは心を鬼にして、教え子たちが食いっぱぐれないように方言札を使って教育したのだった。

しかし、地方にいては食っていけない状況を作り出したのは重い税金だ。そもそも地方にいては食っていけないから都会に出て働かなくてはいけないのだ。食えなくしたのは誰だ?明治以降の日本は日清戦争、日露戦争と勝ち進んだのに税金は減るどころか上がる始末。これが意味するのは、戦争は国益にならないということである。侵略戦争は国民を幸せにしないのだ。では誰の利益か?それは商人だ。それも普通の商人ではない。

江戸の日本から比べると、グローバル化し、日本全国どこでも自由な商売ができるようになった。しかし、自由というのは厄介なもので、巨大な財閥や大型資本を助長してしまうのである。このような巨大財閥は様々な企業を買収して飲み込んでゆく。ようやく、第二次世界大戦を終える頃、大型財閥の見直しが図られるのだが、あくまでもそれは表面上のもので、再びそのような大財閥は復活している。いや、解体したように見せかけたに過ぎない。

話がそれた。とにかくグローバル化と商業の「自由」、そして言葉の変化には密接な関わるがあると言うことだ。世界共通語が存在すれば便利になるのかも知れないが、その「便利」が悪用されたもの、それが経済侵略であると言うこともできやしないか?極論、英語というのはある種、侵略的な言葉なのである。

方言のような有機的な土着の言葉は、人々がそこで暮らし、互いの気持ちを伝え合う中で生まれる言葉である。ある意味、民主的だ。

それに対して標準語や共通語は、ある一定の立場にある者が、自分側の都合で一方的に定めてしまう。そのため、共感力や表現力に欠ける。独裁的だ。

言葉は人の思考や考え方、気持ちを表すものである。愛を伝えたり、難しいニュアンスを伝えたり、あらゆるところで活躍する。使う人ありきなのだから、使う人がその言葉の歴史を積み重ねてゆく。それこそが正しい言葉のあり方ではないかと思う。

さて、教育の現場において、英語を持ち込もうという動き、それからプログラミングを教えて、プログラマー脳を育てようという動きもある。それらが正しい、正しくないを論じる前に、言葉、言語の裏に隠れた「都合」を無視してはならない。それが誰のための「都合」なのか、よくよく吟味されることを願う。

賛成なら賛成、反対なら反対ではなく、教育現場への導入を語る際には必ず、誰の都合を尊重して、誰の都合を「切り捨てる」のか、その立場を明確にしない限り、あまりにも不誠実な態度ではなかろうか?単に「メリットがあります!」「便利になります!」だけではなんの説得力にもならないのである。

反対の人は賛成の人に質問してみよう。

「あなたは今から、誰の都合を切り捨てようとしているのですか?」

最後までありがとうございました。

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