遡及する倫理と、過去を葬りかけた話
刑法には、『新しくできた法律で、過去の法律違反を裁いてはならない』という原則がある。
これを『法の不遡及』という。
一方、倫理という法においては、この法の不遡及は適応されないようだ。
昨今、ある人の過去の発言や行動を取り上げて糾弾し、公的な立場から追いやるなどする『キャンセルカルチャー』が流行っている。
現代の倫理によって過去を裁くことは、正当であると多くの人々に考えられている。
刑法は遡及しないが、倫理は遡及する。
刑事罰は執行されないが、私刑は執行される。
その是非について、私はここで語るつもりはない。
個人的な態度でいえば、私はキャンセルカルチャーに参加はしない。
価値観や倫理は、時代や環境や立場といった文脈によって変動するし、その激動の中にあっては、私たちは誰もが無罪ではいられない。
戦争という文脈にあっては、人殺しさえ倫理の内側におかれ、そしてときにその倫理を強いられることすらある。
私たちは皆、過ちを犯す。
そして、ときにその過ちに気づかないことすらある。
過ちを犯した人間を、1人残らず地球から排除していくなら、地球から人類は消えてなくなるだろう。
ならば、せめて私個人としては、罪人として、より善い罪人でありたい。
罪人同士で断罪し合い、万人による万人に対する残酷な闘争を生きるよりも、できうる限り罪を赦しあい、今とこれからをより善く生きるために手を差し伸べ合える罪人でありたい。
そしてそのために必要なのは、苛烈な私刑ではなく、穏やかな対話であると、私は考えるのである。
だから私は、たとえそれが真っ当な正義や倫理から起こったものであったとしても、苛烈な私刑には参加しない。
しかし、それをもって私は、キャンセルカルチャーが間違っているとも考えてはいない。
私は自分の考えに、絶対的な正しさを認めていない。
法の支配が完璧であるとも思っていないし、法に救われなかった人々からすれば、キャンセルカルチャーのような私刑が唯一の救いだったのだとすれば、私も批判より前に同情が先立ってしまう。
あらゆる法治国家において、いかなるテロリズムも悪ではあるが、もしそれが本当に絶対悪なのだとすれば、歴史を通じてテロリズムがここまで人々に支持されることもなかっただろう。
炎上に参加する人々と同様に、テロリストもまた、自身の正義を固く信じている。
そしてその行動によって社会が良くなると信じている。
実際、世の中のあらゆる物事は、メリットとデメリットを半ばにする。
だから、私のような批判者があげつらう影だけでなく、彼らが見据える光も実際にあるのだろう。
私の個人的な信条では、キャンセルカルチャーもテロリズムも支持はしない。
それは正しいだろうが、一方で、私と同じくらい、彼らもまた、正しいのだろうと思う。
だから私は、ここでキャンセルカルチャーの是非を論じるつもりはない。
私がこんな陰鬱な文章を書かなくてはならなくなったのは、もっと個人的な問題が原因であり、そして私がここで論じることもまた、どこまでも個人的な問題だ。
過去を葬り去るべきか。
キャンセルカルチャーが善であれ悪であれ、この文化はこれからも続くだろう。
なぜならこの文化は、私たちが愛するインターネットの光の側面が生み出す、影にすぎないからだ。
インターネットは、個人の力を強めてくれた。
かつては無視されるだけだった声を拾い上げ、埋もれてしまった才能を見つけ出してくれた。
私は、このインターネットのもたらした現実を、素晴らしいものであると信じたい。
そして、これが続けばいいとも。
だとすれば、私はキャンセルカルチャーを受け入れるべきだろう。
この現象は、かつて無視されるだけだった人々が力をもった証でもあるのだから。
キャンセルカルチャーと新しい名前がつくから新しく思えるが、なんてことはない。
それは名付けられる前にも「炎上」として存在していたし、突き詰めればこの文化は、匿名の私たちが力をもったというだけのことだ。
インターネットは、結局のところ、ダイナマイトと同じ道具にすぎない。
ダイナマイトは、土木工事で安全な掘削のために使うこともできるし、戦争で人を殺すために使うこともできる。
ネットも同じだ。
ネットワークを通じて、人を励ますか、罵倒するか。
それを決めるのは道具ではなく、道具を扱う人間たちだ。
励ましを受け取りたいなら、罵倒されるリスクも受け入れるべきなのかもしれない。
その現実に差し当たっては、私が考えるべきことは、キャンセルカルチャーの是非ではなく、キャンセルカルチャーとどう付き合っていくべきかということだった。
Webの利便性の裏側に、クラッカーから攻撃を受ける脆弱性があったとしても、今更この便利なWebの仕組みを捨てるわけにはいかない。
私たち現実に生きる人間が努めるべきは、こうした攻撃に対処するためのセキュリティを強めることだ。
そして、そのセキュリティの観点からいえば、もっとも効果的な対策は「黙る。公に発言しない。」であり、次善の対策は「当世の価値観でのみ発言する」だ。
後者は、「黙る」よりも少々リスクがある。
当世の価値観が、必ずしも将来においても受け入れられるとは限らないからだ。
人権の概念が普及し、人種間・性別間の能力差が有意に存在しないことが科学的にも明らかになっている現代と異なり、「優生学」のような分野が科学として認められていた時代では、
当世の価値観でも、差別は合理的であると認められていた。
現代の価値観ではゾッとするし、その当時の価値観に迎合していた人々を批判したい気持ちもあるが、私だって、もし当時に生きていたら何を言っていたかわからない。
福沢諭吉のような、先駆けて身分に囚われない万人に認められる平等たる権理を提唱し、その普及に努めた進歩的な知識人でさえ、優生学の視点から「アイヌ民族は慶應義塾の教員にはなれない」と考えていたのだから。
この手の話を聞くと、私はとても恐ろしくなる。
私が善良だと信じている人種や性別や性的少数者への態度も、それは私自身の良心から生まれたものではなく、単に時代にそう刷り込まれただけなのではないかと。
私の中の、時代に刷り込まれた価値観の中には、22世紀の人間に非難されるものも含まれているのではないかと。
もし私の価値観が、時代に刷り込まれたものでしかないなら、時代が変わり当世の価値観も変われば、私もそれまでに抱いていた正義を捨てて、当世の価値観に正義の味方として迎合するのではないかと。
当世の価値観が、人殺しも許容するなら、私もたやすく人を殺すのではないかと。
しかし、たとえ21世紀の価値観が、22世紀の人々に非難されるとしても、21世紀に生きる人々にとっては、21世紀の価値観に従って言動しておくことは賢明だ。
22世紀にはキャンセルされるかもしれないが、少なくとも、21世紀は生き残れる。
当世の価値観に従わない人間は、「踏み絵を踏まなかった隠れキリシタン」と同じ末路を迎える。
当世の人々の倫理に基づく私刑によって、悪い境遇に立たされるだろう。
たとえ、自分の信条に反していたとしても、時代や社会が突きつける踏み絵は、「沈黙」のキチジローのように踏んでおくのが賢明だ。
それが「賢く生きる」ということなのだろう。
では、もし自分の過去の言動や作品が当世の価値観に反していた場合、どうするのが処世術として賢明なのだろうか?
もしまだその過去が公に知られていないなら、隠し通すか、消せるなら、その過去を消し去ってしまうことだろう。
人に知られる前に、当世の価値観に合わない過去を葬り去り、なかったことにするのが賢明だ。
戦時中、戦争遂行を支持する寄稿文を書いた著述家たちが、戦後その一切を自らの作品群から葬ったのと同様に。
簡単に答えが出てしまった。
だからこそ、私は長らく悩まされていた。
私は、『自分が青春を賭けてきた過去の作品を消すべきである』という答えを出してしまったからだ。
私にとって、『当世の価値観に合わない過去を葬り去る』という合理的で賢明な判断は、まさしくそれを意味した。
「世界樹」を葬るべき理由
私は、18歳から25歳までの7年間、世界樹というファンタジー作品を執筆していた。
笑ってくれてもいい。商業的にはまったく成功しなかったのだから。
しかし、世界樹を描いているときほど私は、世界というスケールで真剣に物事を考えたことはなかった。
また他人の目を気にせずに、自分の正直な疑問や情動を突き詰めて考えたこともなかった。
そして今後おそらく、そんな機会もないだろう。
実際のところ、最近、自分の思考や態度に膜がかかっている感覚がある。
嘘をついている感覚ではないが、かつてよりもタブーを恐れずに本質的な深みまで考え抜こうという気概が薄れてきた気がする。
それはきっと「社会性」という社会人にとって必要不可欠な機能によって、私自身の思考がフィルタリングされているからだろう。
18歳から25歳の間、他人の目を気にせず、まったく孤独に世界樹を創り続けていた私は、明らかに狂っていた。
そして起業家として3年の月日を経て、人々と接していくにつれ、私はついに社会性を獲得し、いくらか「まともな社会人」に成長した。
あるいは、「まともな社会人」をうまく演じられるようになった。
そしてそのうち演技は内面化し、かつての、正直で、純粋で、真剣な狂気を、いくらか失ってしまった。
それはビジネスマンとしては正しい進化だろう。
私が世界樹を「狂気」と呼んだのは、それが当世の価値観に反しているからに他ならない。
私は、道徳の教科書を7年間も書いてきたわけではなかった。
だから、もしこれから社会人としてキャリアを積みたいと思うなら、私はこの狂気を闇に葬ったほうが賢明なのだろうと思う。
「まともな社会人」を演じる気なら、なおさらだ。
経済合理性の観点からいえば、ソフトウェア会社の経営者が過去のファンタジー作品を残すことで発生する利益は見込めない上に、作品の狂気を切り取られて批判され、会社の評判に傷をつけるリスクがあるなら、作品を闇に葬るのはまったく賢明で合理的だ。
それに客観的に評価するなら、世界樹は誰からも評価されなかった駄作なのだから、闇に葬ったって誰も困らないじゃないか。
だから、世界樹を葬るべきだ。
そんな声が頭の中で鳴り響く。
そして私は、その声が「正しい」ことも、頭ではわかっているのだ。
「世界樹」を葬らなかった理由
しかし、ご覧のとおり、私は世界樹を葬らなかった。
その理由は、まずもって、我が社の企業文化のためだ。
最近、偉大な企業をつくるために重要な『企業文化』について書かれた本を立て続けに読んだ。
この2つの本は、同じことを言っていた。
つまり、企業文化(あるいはコアバリュー)とは、「リーダーの嘘偽りのない価値観であり、リーダーの言葉ではなく、実際の行動によって決まる指針である」ということだ。
企業文化は結局、「私が本心からどういう会社をつくりたいか」によって決まり、「そのために私が実際にどう行動したか」によって決まるのだ。
対外的な答えをいうと、私は、『途方もない富を生み出す事業』よりも、『世界文明に貢献する事業』をつくりたい。
世界文明を半歩でも前進させる事業が生み出し、世界に普及させることができたならば、私は人類として最高の栄誉にあずかり、安らかに死ねる。
一方で、内部的な答えをいうと、私は、『信頼し合える人々と仕事ができる会社』をつくりたい。
それは私自身が、隣の仲間を詐欺師や盗賊だと疑い続けなくてはならない環境で仕事なんてしたくはないからだ。
金のためとはいえ、自分の人生の大半の時間を、そんな殺伐とした狼の巣で過ごすことなど考えたくもない。
そんな非人間的な組織をつくるために、私はBooQsを立ち上げたわけじゃないし、そんなケダモノの巣窟のために、私はこれから多大な苦労を背負っていくつもりもない。
信頼し合える組織をつくるためには、私自身がまず、他人を信頼する人間であり、そして他人から信頼されるに足る人間でなくてはならない。
企業文化は、言葉ではなく、人の行動によってのみ形づくられる。
企業文化を語る言葉は、言行一致してはじめて効果を発揮する。
実行の伴わない美辞麗句に、意味なんてない。
そして思うに、信頼とは、その人の能力によっては決定づけられない。
能力は足りないが信頼できる人間はいるし、有能だが信頼できない人間もいる。
信頼を決定づけるのは、もっと人間的な要素だと思う。
『偽らないこと』そして『隠蔽しないこと』、すなわち『他人を欺こうと試みないこと』だ。
その信頼という観点からは、世界樹を執筆してきた過去を葬り去ることは、どのような意味をもつだろうか?
それは、たとえ経済合理性にかなっていたとしても、「隠蔽」であり、「欺き」であり、「信頼を損なう行為」だ。
私は、世界樹から大きな影響を受けてきた。
世間からしてみれば、世界樹は、取るに足らない駄作にすぎないだろう。
しかし、私にとって世界樹は、紛れもなく、傑作だったのだ。
私が今に至るまで世界樹から得てきたものは、限りなく多い。
そもそも世界樹を描かなかったら、私はプログラミングを学ぶこともなかったし、当然BooQsを開発することもなかったし、ましてや自分のつくったソフトウェアで起業しようとも考えなかった。
noteで書くと何かと評判の良い心理学だって、すべて世界樹を創る中で学んだことだ。
私の人生を、世界樹なしで語ることはできない。
世界樹を葬って私の人生を語ることは、限りなく嘘に近くなる。
お互いを信頼し合える誠実な組織をつくりたいなら、まずその長たる自分自身が、欺瞞や隠蔽を排除しなくてはならない。
だからこそ、私は世界樹を葬らなかった。
7年間も売れない作家であった過去を葬らなかったことは、無能の烙印を押されるだけの、愚かな決定かもしれない。
それでも私は、有能だが信頼に値しない人間であるより、無能だが信頼に値する人間であることを選んだ。
賢明だが信頼に値しない人間であるよりも、愚かだが信頼に値する人間であることを選んだ。
狂気に溢れた過去の作品を葬らなかったことで、私の狂気が非難され、私は悪人と名指しされるかもしれない。
それでも私は、信頼に値しない善人であるよりも、信頼に値する悪人であることを選んだ。
不快で恐怖のともなう決定ではあるが、私が目指す企業文化のためには、重要な決定だろう。
私たちは皆、生涯をとおして、罪を犯す。
その罪は、悪意や誘惑によってだけでなく、善意や能力不足によって引き起こされることすらある。
プログラマーは、「クソコードを書いてやろう」と悪意をもってクソコードを書くわけじゃない。
その罪を犯してしまう原因は、たいがいは「能力不足」にすぎない。
誰だって、できることなら善良でいたいし、良い仕事をしたいのだ。
それはプログラマーに限らず、どんな職種でも同じことだろう。
そうした無能の罪から逃れられない私たちにとって重要なのは、罪を犯したあとに、どのように振る舞うかだ。
もし、その罪を隠蔽したり、偽ったりするなら、私たちは『信頼に値しない不誠実な罪人』だ。
しかし、その罪を隠蔽せず、正直に向き合うなら、私たちは『信頼に値する誠実な罪人』だ。
私たちの企業文化にとって重要なのは、『信頼に値する誠実な罪人』であることだ。
だから私は、世界樹を葬らなかった。
まだちっぽけな会社で、自分のほかに誰も従業員がいないのに、何を言っているのだと思われるかもしれない。
しかし、もしも本当に、企業文化がリーダーの価値観の反映であり、リーダーの行動によって定義されるものなのだとしたら、人を雇ってから『自分を変える』のでは遅いと思うのだ。
だから私は、世界樹を葬らなかった。
決して後悔しない。
私がこれを書いたのは、私自身が後悔しないためだ。
私は、過去を葬り去らないことによるリスクを承知の上で、あえて葬らなかったということを、未来の自分のために証明しておかなくてはならなかった。
もしかしたら私は、将来、世界樹のせいで不利な立場に立たされるかもしれない。
未来の倫理は、世界樹の一部を取り上げて、私を糾弾するかもしれない。
それによって、私がそれまでに積み上げてきた経営者としてのキャリアは、再起不能になるまで粉砕されるかもしれない。
それでも私は、世界樹を葬らなかった。
私は悪人かもしれないが、せめて罪を隠し立てしない誠実な悪人でありたかったからだ。
私は、自ら死を選んでいるのかもしれない。
私は、愚かな間違いを犯しているのかもしれない。
それでも私は、この決定を後悔しないことを、ここに誓う。
私の人生が、敗北の果ての、墓すら立たない犬死に終わるとしても、安らかに死ぬために。
2022/09/07, 相川真司。