結果が出ていない人の味方でいること。
起業家は、結果がすべてだ。
そんなこと、言われなくたってわかってる。
それどころか、「結果がすべて」が起業家に限らないことだって知ってる。
誰もが、結果しか見ない。
誰もが、結果しか評価しない。
過程は、結果の是非から逆算して、後知恵で「良い」か「悪い」か評価される。
結果を出した過程は「善」。
結果を出せない過程は「悪」というわけだ。
こうした信念は、「勝てば官軍、負ければ賊軍」の世界をつくりだす。
そして、それが人間の世界なのだ。
これは「あと知恵バイアス」「信念バイアス」、「公正世界信念」と呼ばれる人間の本能によるもので、容易には覆されない。
あなたで検証してみよう。
どちらの推論過程が正しいだろうか?
① ツバメは昆虫ではない。ツバメは鳥である。したがって鳥は昆虫ではない。
② 昆虫は鳥ではない。ツバメは昆虫である。したがってツバメは鳥ではない。
約80%の人間は、①の推論を正しいと答える。
しかし、本当に論理的に正しいのは、②だ。
人間は①の推論のように、「結果が正しければ、過程まで正しい」と思い込む。
そして一方で②の推論のように、「結果が間違っていれば、その過程まで間違っている」と思い込む。
残酷だが、人の世は「結果がすべて」なのだ。
ふざけてる。
勝者はすべてを正当化され、敗者はすべてを否定される。
ほとんどの成功者は、失敗から這い上がっている。
彼らのストーリーは成功譚としてもてはやされるが、それをもてはやす多くの人々は、過去、彼らが失敗の淵にあり、結果が出ていない状態で、もてはやすことはなかったということを忘れてはならない。
彼らが偉大なのは、周りに落伍者として蔑みと哀れみを受けながら、それでもなお、諦めなかったことだ。
結果が出ていないとき、すべてを否定された気になる。
すべてが間違っているように思える。
自分が世界で一番、惨めでマヌケな人間に思える。
どこからともなく、嘲笑の声が聞こえる。
そんなときこそ僕は、「結果がすべてだ」と自分に言い聞かす。
世の中、結果がすべてだから、結果さえ出せば、みんなが手のひらを返す。
結果だけを見て離れた人は、結果だけを見てまた近づいてくることを知ってる。
少なくとも、『結果がすべて』と考えている人間は、恥ずかしげもなく手のひらを返す。
だから、それまでの辛抱だ。と。
世界中に蔑まれようと哀れまれようと、最後に結果さえ出せば、この惨めな過去さえ正当化される。
それが「結果がすべて」の世界のルールだ。
結果を出そう。
結果を出そう。
結果を出そう。
そのために今できることをやろう。
だって、みんな僕の結果しか見ないんだから。
クソ。
残酷な世界を受け入れない。
だけど僕は、そんな残酷な世界を受け入れたいとも思わない。
実際、僕は、「結果がすべてだ」と公然と言ってのける人は、好きじゃない。
「あんたが認知バイアスと動物的本能に忠実な、理性の働かない人間だということはよくわかった。だからなんだ?」
そう言いたくなる。言わないけどね。
「結果がすべてだ」という言葉は、「白鳥は白い」という言葉と同じだ。
単なる当然な、そして残酷な人の世の事実である。
だけれどたまに、結果のいかんに問わず、応援してくれたり、優しい言葉をかけてくれる人たちがいる。
彼らのような黒い白鳥に出会うと、世界はまだ捨てたもんじゃないなと思う。
僕もそういうブラックスワンになれたら、と思う。
だから僕は、結果を出せていない人にも優しさをもって接せる人間でありたい。
その人を、結果だけで値踏みしたくはない。
結果を出していない人の意見にもきちんと耳を傾けたい。
思うように結果が出ず、何もかもが惨めに思えて、どこからか嘲笑の声が聞こえる自分にも、最後まで信じて味方でいたい。
それはとても難しいことだけれど、成功の蜜にたかるハエや、失敗の腐肉をついばむハゲタカよりも、はるかに倫理的で知的に誠実な生き方だ。
成功に少しでも「運」が関係することを認める人間なら、正しい過程で失敗することもあれば、誤った過程で成功することもあるという確率的な事実を知っている。
その真実に気を配れるだけの繊細さは持ちたい。
青くさい理想主義だと、あなたは思うだろうか?
どうせ僕の哲学も、その正しさは、その哲学自体の正しさによってではなく、結果によって後知恵で決まってしまう。
なら、僕の考えが正しかろうが間違っていようが、その正しさを人々に信じさせる方法はただ一つだ。
『誰もが認める結果を出すこと。』
ふざけた世界だが、僕は僕の正しさを人々に説得するために、仕事に戻ろう。
でも僕は、思うように結果が出ずに、誰もが僕の正しさを疑っていた惨めな日々にあっても、僕は僕を諦めなかった。
本当に大事な真実は、それだけだ。
あなたの貴重なお時間をいただき、ありがとうございました!