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そこにあった勢いのようなもの(#3 子ども時代)

「教授」というのが小学生のころのあだ名だった。いつごろからその名で呼ばれ始めたのかは覚えていないけれど、5年生のときにはすっかり定着していたと思う。40人近いクラスメイトと担任の先生は私をそう呼んだし、他のクラスの生徒や、ときには担任ではない先生もその名で呼んだ。廊下ですれ違えば「教授、おはよう」であり、晴れた昼休みには「教授、バスケしようよ」であり、卒業式では「教授、中学でも元気でな」との言葉が贈られた。そのようにして、私は小さな教授としてその数年間を過ごした。

ずいぶんと厳めしいあだ名だと思われるかもしれない。でも実際のところ、誰も本物の教授なんて知らなかった。私にしたってそうだ。正式に教授を名乗る存在に出会うのは大学に入ってからだ。自由な思索の代償として、本来広々としているはずの部屋を古ぼけた書籍で埋め尽くし行動の自由を狭める倒錯的な人種。そんな人たちは横浜市の郊外の公立小学校に籍を置く無邪気なちびっこたちとは無縁だった。教授と呼ぶ者も、そう呼ばれる私も、基本的にはその響きを楽しんでいたに過ぎない。その意味で私のあだ名は「教授」というより「きょうじゅ」と表記されるべきかもしれない(漢字で書くことができたか否かに関わらず)。

楽しんでいたということは、あるいは強調しておいた方がいいかもしれない。その名にはいかなる悪意も込められていなかったし、少なくとも私がそこに悪意を感じとることはなかった。たしかにあだ名はときに排除の機能を担うことがある。ナチス支配下のドイツでユダヤ人が着用させられた腕章のように、秘められた異質性を日常的に顕在化させる仕方で。幸いにして私の場合はそうではなかった。むしろそのあだ名は包摂の機能を担っていたと思う。

異質性という言葉は、もちろん私の場合、だいぶオーバーな表現だ。私はただその学校において他のみんなと比べて勉強が得意だったに過ぎない。ある人はリフティングが得意で、ある人はスマブラが得意だったのと同じように。それがたまたま勉強だったというだけの話だ。大多数の人たちが地元の公立中学に進学する中、中学受験を志していたことも、印象において少なからぬ役割を果たしていたと思う。お高く留まっていたつもりはない。現に私の受験は、元をたどれば、近所に住む先輩(私が小学1年生のときに小学6年生だったと思う。細身で背が高く、サッカーが上手だった)が中学受験をしたという噂をどこかで仕入れて、猿真似を試みたに過ぎない。訊ねられる限りで、九九だって、漢字だって、もう少し厄介なことだって、分かる範囲のことは教えていたと思う。

なつかしく思いだすのは「二分の一成人式」のことだ。10歳、小学4年生のころに行われたイベントで、私たちは体育館に集められ、先生や親の前で将来の夢とやらを発表させられた。だいたい全国平均といったところだと思うが、男子の4割はサッカー選手か野球選手を目指し、女子の4割はパティシエを目指していた。私にはこれという夢などなかった。でもほんの一時期、宇宙飛行士なんてのも面白そうじゃないかと思っていたことがある。小さきメジャーリーガーにほだされてしまったのだ。「俺が宇宙までかっ飛ばすから、教授は宇宙飛行士になってキャッチしてくれよ」と。先ほど包摂の機能といったのはこのような文脈においてである。それにしても10歳とはなんて尊い時代なんだろう。あれから16年が経ってしまった。いまでは私も、そしておそらく彼も、地に足つけてせっせと生きている。

小学校を卒業すると同時に、私は教授ではなくなった。受験の末に通うことになった東京の中学は、いってしまえば元・小さき教授たちしかいなかったからだ。でもほどなくして私は「男爵」という新たなあだ名を拝することとなる。いまとなっては由来はよく分からない。誰が言い出したものか、当時ですらよく分からなかったのだ。いずれにしてもそこから6年間(中高一貫校だった)、私は爵位を持ち続けることとなる。他にもいくつか珍奇な名前を得た。直感と偏見にまみれているものばかりだが、そこにあった勢いのようなものを私はそれなりに好意的になつかしく思う。

大学生になり、社会人になり、新たなコミュニティに属す機会は幾度となくあり、そういうときは決まってあだ名を考える時間が存在した。いつしか与えられるあだ名は、名字をリズミカルにもじったものばかりになっていった。こう言っては何だけれども、あまりおもしろくはない。そもそもの目的が違うわけだから比べても仕方ないのだが。これが大人になるということの一側面なのかもしれない。

その意味で、先日は久しぶりに心が躍った。子どもに名前を名乗り、数時間後に名前を覚えているか尋ねたらさっぱり忘れられていた。さて、そこで再び正しい名前を教え込むことに何の意味があるだろうか。私はたしかにサエキだが、その子にとってもサエキである必要などどこにもないではないか。「僕を見て思いつく名前をつけて」と私は言った。数秒の思案顔の末、その子は元気いっぱい、名前を発表してくれた。「ウミさん!」そういうわけで私はウミさんになった。

かわねの生きモノ6000分の1 サエキ

サエキの生態(プロフィール)
1997年神奈川県横浜市にて、何も考えず、生まれる。2023年5月川根本町へ、何も考えていないふりをして、移住。現在、町内にて、何か考えているふりをしている。散らかった日常をいくつか切り分けるならば、本を売ったり、学校で教えたり、話を聴いて文章を書いたり、畑や木工に挑戦したりしている。好きな給食は揚げパン、苦手な給食はあったはずですがいまとなっては覚えていません。よろしくお願いいたします。