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私の読書に意味はあるか? 読んだそばから、内容をほとんど忘れてしまう読書について。

日常的に読書をしている。1日平均して2時間くらい。
哲学、社会学、文化人類学、芸術、仏教の本が多い。
そして、毎日読んでいる割にちっとも内容が記憶に残っていない。
読んだそばからほとんど忘れている。

「今読んでるその本てさ、どんな本なの?」と人に聞かれても、
「ええと、なんつーかな、まあなんかこう、一言で言うのは難しいけどさ。みんなで助け合ってやってこうぜ、みたいな内容だよ。まあ、気になるなら読んでみたらいいよ」とか、

「カントって、つまりどういうこと言ってんの?」と聞かれても、
「なんか、われわれ人間は物自体に到達できないとかなんとか言ってたわ。あとは、自分で読んでくれ」くらいしか話ができない私がいる。

読んでる意味マジでなくないこれ?と、ふと自問が起こる瞬間がある。

私は、なぜ本を読むのだろう。

まず、さまざまな分野に知識が豊富で洞察が鋭い人に対しての、単純な憧れがある。
また、読んで得た知見を自分の生き方やものの見方に還元したいとも思う。

そして、これまでの経験やその時の自分の判断、心情を著者である「どエライ先生達」の視点を借りて、分析したりおさらいしたり、そういうことをしたい。

要は自分を「漠然と、かつ軽薄にアップデートしたい」みたいな強い欲求、知的好奇心がある。
「人間は生まれながらにして知ることを欲する」ってどっかのエライおっさんが言ってたやつやね。
だから、本を読む。

ところが、である。
読んだ本の内容をぜんっぜん、覚えていない。
マジで、引くくらい覚えていない。
「著者、さーせん」、って感じ。

とは言え、相変わらず今日も本を開いていた。
昨日、ちくま学芸文庫の「民族という虚構」を読み終わり、今日から同文庫から出ている「歎異抄」講義を読んでいる。

頼むから、どんな本かは聞かないでくれ。
「ええと、なんか、民族って深いよね〜って感じしたわ」とか、「なんか法然親鸞あるあるが書いてるっぽい」くらいしか言えないから。

ところでこんなにも読んだ内容が記憶にのこらないなら、「読んでる意味、マジでなくない?」と先に書いたが、実際はそんなことはないと信じている。
(というか、読む意味はあってもなくても正直どちらでも構わない)

われわれの思惟とは、意識に上るものだけに支えられているわけではない。
記憶していて、はっきりと言語化できることだけが自分の意識を形づくっているわけではない。

ちょっとしたアイデアや、瞬間のひらめきやユーモア、そういうものはむしろ言語化不要(不能)の無意識下層からフワッと湧き起こるものじゃないだろうか。まるで、暗い土の中から緑が芽吹くように。

そしてその、無意識下層は普段の読書によっても、自分でも気が付かないうちにそろーりそろーり、ゆっくりゆっくりと変容していることだろう。

別に頑張って読んだ内容を覚えようとしたり、言語化を急ごうとしなくても、だ。
無意識下で必要な熟成期間を終えたらいつの間にか自分の血肉になってくれている。自分でも気づかないうちに。きっとそういうものだろう。

ところで余談だが
この頃は本当によく「言語化」というワードを見かけるようになった。
そして、言語化が神輿のようにかつがれているムードを感じる。

言語化できることは、自分の考えをまとめてアウトプットしたり、人にわかりやすくものを伝えたり、現実的で有益な技術なのは間違いない。

だけども、神輿のように担ぐようなものでもないだろう。
なんでもかんでも言語化しないといけないわけじゃないし、すればいいってものでもない。
どこかの絵描きが「私は自分の作品を言語化できるようにしている」と話しているのを聞いたけど、だったらもう絵を描かなくていいだろう。

言語化なんて自分の生活にとって必要なだけできたら、そこから先はもう「フェチ」でしかない。趣味と言ってもいい。
言語化が苦手だったり、そもそもやりたいとも思わない人に「言語化できないなんて思考停止じゃん」とか謎の言語化マウントも巷では発生しているようだ。しょうもな。

話が脱線したから戻そう。

今日は、「読んだそばから内容をさっぱり忘れてしまう私の読書に意味はあるのか」という話をしてきた。
多分、同じように自分に対して思ってる人、決して少なくないんじゃないだろうか。

別にいいんだよな、意味なんてあってもなくてもどっちでも。
読んだ内容いちいち覚えてなくても、誰かに正確に伝えられなくても。

言語化を急がなくても。
自分の「身の丈」ならぬ「知の丈」に合った形で必要なものは必ず残る。
それと知ってこの先も、読み続けよう。

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