見出し画像

自己紹介

上司と話していて、

「面談前に河本くんについても知ってもらったらいいんじゃない」

となったので、長々と自己開示を。
文章としてまとめるつもりはあまりないのでつらつらと書き綴って行きます。

幼少期〜幼稚園くらい

出生地は神奈川県川崎市麻生区。一度別の場所に移っているが、今も実家は同区内にある。4000gOverで生まれてきたらしい。母親に感謝しかない(「出産しんどっ」ってなったため、弟妹はいない)。
幼稚園のときとかは割とやんちゃで落ち着きがないタイプだったと思う。

小学生時代

小1の2月から訳も分からずSAPIXに入れられた。
小数点をでかく書いて周りに笑われたことだけやたら覚えている。
小6までだいたい一番上のクラスかその1個下あたりにいた。特に好きな科目も嫌いな科目もなかったが、サピシ(SAPIXシール:集めたらなんかと交換できるやつ)もらうためにとりあえずそれなりに勉強はしていた。
小4からは野球を始めた。それまでもサッカーや体操などやっていたが、野球は割と好きだった。身体は大きかったが、なぜかセカンドをやっていた(必然的に横浜のローズが憧れの選手になった)。ちなみに自チームのキャッチャーもサードもびっくりするくらい細身だった。

中学生時代

中学受験の末、第三志望の鎌倉市の栄光学園に入った。
キリスト教カソリックの完全中高一貫校。県内でトップの東大合格者を誇る進学校でもある(今は2位だったりすることもあるらしい)。当然勉強好きなやつは一定いたのだが、僕はほぼ勉強しなくなった。受験という目標がなくなったからなのか、周りのレベルが高すぎて心が折れたからなのかはわからない。
部活は野球部に入った。最初は先輩の「おまえ良い体型だな(笑)」の一言でキャッチャーになった。ずっとベンチを温めていたが、中2の中頃からピッチャーに抜擢された。監督が完投・連投を嫌う人だったので試合の後半を良く投げていた。またまた体型に見合わず、コントロールと変化球で抑えるタイプのピッチャーだった。投げていたのは、ツーシーム・カットボール・カーブ・ドロップ・縦スライダー・ナックルとか。利き手方向の変化球を覚えられなかったのは心残りだ。

高校時代

高校に入って野球はやめた。すごくシンプルにいえば「めんどくさくなった」からだ。「なんでみんな丸坊主なんだろう」「なんでそんなに泥だらけで頑張っているんだろう」「なんで早起きしてランニングできるんだろう」と思ってしまった。いわゆる間違った高校デビュー的なものかもしれない。
野球をやめる少し前からバンド活動を始めていた。高校生活の中で唯一それなりに精を出していたものがバンド活動かもしれない。選曲は高校生バンドとして極めて当たり障りのない、GreenDayやらSUM41やらラルクやらやっていた。ちなみに個人の音楽の趣味としてはGLAY・Gacktあたりから入り、X JAPANに流れ、Dir en GreyやムックあたりのジャパニーズハードコアとBullet for My Valentine・Triviumあたりの当時のニューメタル、Dream TheaterやOpethといったプログレッシブメタルあたりに行き着いた。本や映画の趣味も割とそこから派生しているかもしれない。

高校2年からは東進に通っていた。相変わらず勉強はあまりしなかった。
今はどうか知らぬが、当時は授業ビデオの再生スピードが1倍か1.4倍の二択しかなかった。1.4倍で流していた。薄青いテーブルのうえに買ったばかりの紙パックのいちごミルクをぶちまけ、薄ピンクに染まっていく光景を今でもよく覚えている。

そんな状態ながら、周りに合わせて「東大受ける」とか言っていたあんぽんたんは当然どこにも受かるわけもなく、当たり前のように浪人生活に突入。以前とは違いサピシはもらえなかったものの、それなりに勉強した。まったく運動せず予備校の目の前の一風堂ばかり食べていたので18年前4000gだったはずの僕の身体は90000gを超えていた。結局東大には20点差くらいで受からなかった。

そして、不合格通知を受け取った翌日、震災が起きた。

東日本大震災〜大学生活

揺れが起こった瞬間、僕は自宅にいた。
母は近くのスーパーに買い物に行っていた。

そして、父親は福島にいた。

丸3日間くらい連絡が取れなかったと記憶している。生きた心地がしなかった。正直父親は好きか嫌いかでいえば嫌いだったが、その時ばかりは携帯を肌身離さず、いつ来るかわからない着信を待ち続けていた。
ちなみに今は好きか嫌いかでいえば好きだ。

僕がソーシャルな世界へ足を踏み入れたのはやはり震災の影響が大きかったかもしれない。
1年生から途上国の住環境改善に取り組むNPOの学生支部に入った。1年生の夏には実際にマレーシアの農村地域に行き、家を建てた。それはそれで面白い経験だったし、支援先の住民には感謝されたが、それ以上に「モヤモヤ」が広がった。

「僕はこの家族やこの農村の本質的な課題をなにもわかっちゃいない」
「これ、僕じゃなくてもよくないか?」

2年生の初夏、発起人倉田 拓人を中心にUYIC(全国国際協力学生団体連盟)を設立。僕も創業から関わって理事兼渉外の責任者として動いていた。グローバルフェスタの学生ブースをJICAから委任されたり、TICADの学生事務局として動いたり、NPO法人化に向けて朝日が登るまで定款の文面をこねくり回したり、資金獲得に動いたり、とにかく慌ただしく動いていた。学生による国際協力の形を少しでも変えたかった。もっとそれぞれの熱量が形になる世界を作りたかった。その一心で活動する日々は、純粋に楽しかった。
一方で別のモヤモヤが広がった。

「僕はこの組織を正しい方向に導けているのだろうか」

「組織」というのは僕にとって形のないバケモノだった。そもそも形がないから切り込むべき弱点がわからない。ライブラ(※)の効かないラスボスみたいなものだ。だから倒したくなった。だから僕は「人事」になることを決めた。そして就職活動へと向かっていく。

(※)ファイナルファンタジーで敵の弱点とか知るための魔法的なやつ

今日は疲れたからこの辺にしよう。
続きは週末に。

後編はこちら

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?