見出し画像

自縄自縛からの解放1--人間性とは何か?

人間性とは人間の本質とされている気配が強いようです。人種や民族を超えてすべての人間に共通する性質とされることもありましょう。人間性とは、人間と動物を区別するものとされがちなところです。人間と申しましても人間に共通する絶対的な要因を見出すことは現時点で確定はしていないわけです。確かに印象としましては人間は誰しも同じ性質を持っていると思うのもわかる。人間には絶対的な共通項があるのだ!と短慮な発言がまかり通っているのが現実でありましょう。共通すると思いたいのは理解できる。またそう思い込むこともあるとしたものです。すべての人間に共通するものなどありはしない。人間は受精卵から誕生するわけです。そして出産によって母胎から離脱することになる。どの時点を以って人間とするかを考えてみるといいでしょう。法律では堕胎を認めている国が多いですが、出産前日に健康な胎児を堕胎してしまうと殺人罪になる国家がほとんどでしょう。法律上、胎児も人間としている。個々の人間には特性があります。実に多様です。あまりにも多様すぎるという印象ではないでしょうか。同一の人間など一人もいないわけですから当然です。相当に似通っている人どおしでも微妙に異なるところがありましょう。当たり前です。人間として生を受けますと、一人の人間として存在できるわけで、人間と認識されますね。日本人でもアメリカ人でも「あなたは人間です」と認識されます。その「人間だ」とされる点では同じです。ここでは胎児だとややこしいので生まれ落ちた人間は人間にされるよ、とする説明としたい。胎児は胎児で、卵細胞は卵細胞、胚は胚として別の議論がありましょうから、それはその機会にいたします。人は実に様々です。全ての人間に共通することは人間と認識されるかどうかという点のみとしたものでありましょう。全人類に絶対に共通する「何か」があるといろいろとわかりやすいでしょう。ただ、無根拠に「理想的な何か」などというものを勝手に設定してしまってはならないでしょう。こうした勝手な発想で思い込んでしまったり、断定してしまう傾向は人間の性向としてあるとしたところだと思います。この自動的に生じてしまう「理想的な何か」を求めてしまうのは遺伝子に組み込まれているからやむを得ないのかもしれませんが、留意すべき思考形態であろうと申し上げておきたい。古代ギリシャ以来、人間の本質は理性であると考えられてきているという説明がなされています。人間は言葉や道具を使いまして社会的な生活を営むという点で動物と異なってはおります。人類全体を観察した場合はそういう理解が無理のないものです。なにしろ社会が堂々とあるのですからそうでしょう。社会の全てが理性に基づくと考えるのもまた短慮です。人間には欲望もあれば感情もあるし本能もあります。これを無視して「理想」だけを論じるのはまずかろうというものです。人間も動物なのです。様々な動物的な性質を持っていますから理想でない影もあります。「理想」を打ち出して、的外れなことを信じたり、信じたかったり、悪くするとその「理想」で自らを縛ることもありましょう。全く欠点だらけの「理想」がつくられるのもまたも本能から生じているでしょう。そうでないならギリシア時代から連綿と「理想」を考え続けたりはしないとしたところです。古代から人間はくだらんことを考えてそれがあたかも「真実です!」という議論や思考を重ねてきた。どうした根拠があってそうしたやら、そこつ費やされた労力を考えるとバカバカしくなるように思います。勝手な理想を作り上げることそのものが人間の遺伝子に組み込まれていて、結局のところ人間性などを考えていたことそのものが遺伝子の作用による本能でした!などいうことになりますと、人間はギリシア時代から本能で考えてましたということになります。ずっと本能でやっていたわけですから今頃気づいてアホらしくなる人もいるでしょう。理性だと思っていたことが本能だったなんて皮肉でありましょう。哲学者がなんやかんやと人間性とは何か?を考えていたとして、おかしいんじゃねえかな?と思った人も相当な人数いたことでしょう。ところが偉そうに堂々と説明している人がいますと、つっこみにくい雰囲気もあったことでしょう。バカにはバカと指摘してあげないとわからないのと同様に、偉そうな説明をしている人にもつっこまないとならなかったわけです。「おい、あなた本能で考えているでしょ」というように言ってあげないとならないシーンがどれだけ生じていたか想像するだけで笑える部分があります。全然違うことをやっていたなら諦めることも必要です。そこからまた新しい考えを展開すればいいのです。より正しい方向性を持つ考えがまとまっていきますので、建設的とされて良いでしょう。西洋思想の源流のひとつであるユダヤーキリスト教でも人間には神の似姿たとして理性が与えられ、地上を支配する権利を授けられているとされています。これは宗教上そういうことになっているのですから信じたい場合は支持すればよい。また、近代以降では科学や技術の発展にともなって社会全体の合理化と人間中心主義が徹底されていったという考えが流布しています。しかしその反面として、組織の巨大化や複雑化によって人間は自己喪失感を抱くようになって社会的な関係や実存といった観点からしてみますと、人間性の回復が求められることにもなっているとも言われる機会が多いでしょう。しかしそれは本当でしょうか?情報は吟味しないと違うことをまるまる記憶してしまうことがある。情報そのものを解釈したものが文章として流れます。情報には方向性があるのです。解釈する人が勝手な定義によって、例えば「自己喪失感を抱く人が多い」などと主張している可能性もありましょう。まるごと信じてしまっては盲目というものでありましょう。ぜひ配慮しながら情報には接したいものです。さらに現代では、人間以外の生命、環境に対する意識も高まり.いきすぎた理性信仰や人間中心主義に対する反省が促されているというようにも論じられがちでしょう。「いきすぎた理性信仰や人間主義の反省が促されている」という情報そのものが人間の特性から生じた本能から生じているものを含んでいるとしたらいい。そうでないかもしれないでしょう?言説そのものが本能を含んだ人間性を発揮しているのです。バカと言うやつがバカなんだという論法はわかりやすい。これと同じことで「この情報は正しい」とする情報が間違いの場合もあります。「いきすぎた理性信仰や人間主義の反省が促されている」というのは違います。何しろ理性だと思っていたことや人間主義だと思っていたことなどの多くは本能によって作動しているわけですから、人間性が何なのかなどほとんどわかっていない発展途上段階だとするといいかとされたものでしょう。

第一原稿 推敲前

川俣英久


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?