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自縄自縛からの解放

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自分で作り上げるなどした決まりごとなどから解放されるように利用していただきたい
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自縄自縛からの解放1--人間性とは何か?

人間性とは人間の本質とされている気配が強いようです。人種や民族を超えてすべての人間に共通する性質とされることもありましょう。人間性とは、人間と動物を区別するものとされがちなところです。人間と申しましても人間に共通する絶対的な要因を見出すことは現時点で確定はしていないわけです。確かに印象としましては人間は誰しも同じ性質を持っていると思うのもわかる。人間には絶対的な共通項があるのだ!と短慮な発言がまかり通っているのが現実でありましょう。共通すると思いたいのは理解できる。またそう思

自縄自縛からの解放2--儒教とは?A

儒教というのは、五世紀ころに朝鮮半島経由で日本に伝来した。当初においては、一部の貴族だとか僧侶だとかに学ばれておりましたので趣味だったのでしょうか。人間は趣味となりますとやたらと活き活きとなる。それが社会の広い層に受け入れられて、 本格的に定着したのは江戸時代です。林羅山や山崎闇斎が代表的な朱子学が幕府や諸藩の公式の学問となってしまった。当時の高名な学者はなにやら荘厳な名前でやたら先生!先生!師匠!師匠!とかまあ持ち上げれまくったように思ってしまう。勉強となると楽しむ人が恐ろ

自縄自縛からの解放3ーーpremodernsociety からの変遷

近代社会以前の社会や近代社会以外の社会型を考えてみる。血縁や地縁にもとづく少数の人員によって集団が構成されたのは相当に昔の話となる。自給自足的な生活が営まれていたことを思い浮かべていただきたい。人々が集団内で生産・消費や教育など人間生活におけるともかく非常に多様な機能が充足されていた。伝統社会が長い時間をかけて形成された。また蓄積されてきた風俗、習慣、規範、思想なども人々に共有されていた。伝統が集団社会を成して、だいたいでいうと近代社会に先立つ社会とはおおむねそういう社会がメ

自縄自縛からの解放4ーー善と悪とは?A

行為や判断についての法、道徳、宗教的な基準が規範とされて社会が営まれます。従うべきルールのほかに、個別的な判断や決定も規範とされましょう。規範への遵守は称賛やら褒められるということが生じる。逆に違反は罰や制裁が報いられる。法や道徳、戒律などは守るのがまともな人とされるところです。自然法則が客観的で必ずなになにであるのだということを表すのに対し、規範は主観的でして、こうしたらいいぞ、それはやるな、ということになっている。価値判断が含まれるのがミソとされましょう。科学的に示します

自縄自縛からの解放5--芸術序論A

 芸術は学問の中でもかなり親しまれる率の高いものとされるでしょう。嫌な予感がしてなりません。ちょっと馴染んでいると「どこまでもわかっているのだ!」という態度で話し始める人がいる。私は辟易している。そんなバカは山のようにみてきているが、まともに話がかみ合った試しがまずないと思われたらわかりやすい。私ごとながら、私は強い不眠症だ。すい臓炎などとなると素人は何か言うこともないとしたものだ。ところが対象が睡眠だと「わかるのだ!」と思う迷惑な人が散見される。「眠れないと思うから眠れない

自縄自縛からの解放6--善と悪とは?B

法は人々の行動に関して、善悪や是非を定めた規範の体系で法治国家である以上善悪の基準として機能する。他面、法は社会秩序を維持し統治するために運用されるものである。また全体としての規範となることは翻ってして個々人の権利を保障するために用いられるともされよう。道徳は人の内面に訴える。法は外面的な行為を規制する効力を持つわけで、人が持つ本性に基づいた普遍的な法を自然法と呼ぶ。個別的で具体的な法を実定法とされる。西洋的解釈においては、ストア派の自然の理法とされるロゴス、ユダヤ教の律法で

自縄自縛からの解放7ーー世界観人生観とは?

おもいっきり書いている途中 推敲など全くしていない 人生のあり方に対する姿勢、考え方は人生観と呼ばれます。人は何のために生きるのか、人生の意味とは何か、どのように生きるべきか。・・そんなこといくら考えたところで答えなど出て来るわけもないのに「自分にとってやたら納得できること」をあたかも人類全体が何のために生きているかの理由にこじつけてしまうのが関の山とするとわかりがいい。他人の決定した人生観を押し付けられた場合など、冗談じゃない。しょうもない人間ほど、その無根拠で無効性の高