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源氏物語を読みたい80代母のために 39 (源氏物語アカデミー2023レポ⑤)

(タイトル画像は内容と関係ないですが、大滝神社・里宮の屋根です)

 相変わらず密度の濃い講義、去年より数が増えた聴衆の熱気も半端ない。
 しかし、私たちはなんだかんだ二回目である(フフン←)。休み時間に慣れた手つきでチョコを口に放り込みつつ、
「朝送ってもらう時にそうだ!って思い出して『コンビニ寄って!』って言ったの」
 と得意げな母。そうよ水分と甘味は必須なのよ!私も昨日平和堂で買っておきましたもの(ドヤ)。
 母子ともに十分頭に糖分を巡らせて後、程なく始まる本日二つ目の講義。

「天皇をめぐる女サバイバル ~後宮空間論~」栗本賀世子氏
 のっけから
「最初に言っておきますが、この(刺激的な)タイトルは朧谷先生が考えたんですよ!私じゃないんです!」
 との主張。どっと沸く会場。講師の先生方とボス・朧谷先生との温かい関係性が察せられてほっこり。(とはいいつつ内容へのツッコミは誰より厳しい気もする。優しい笑顔で的確に核心をついて抉り抜きそう。勘だけど!)

 以下レジメ(9p)&メモより。※は私見。
〇後宮とは:
①構成員そのもの(皇妃と皇子女たち、彼らに仕える女官たち)
②建物(後宮殿舎)、構成員の生活空間
→平安京内裏では内裏後方に位置する五舎七殿をいう
・五舎(五間四面の広さ→母屋もやが五間×二間で四方に廂あり):
凝華ぎょうか舎(梅壺)、飛香ひぎょう舎(藤壺)、襲芳しゅうほう舎(雷鳴かみなりの壺→庭に落雷があったという)、淑景しげい舎(桐壺)、昭陽しょうよう舎(梨壺)→基本は壺庭に何が植えてあるか、による
・七殿(七間四面の広さ→母屋が七間×二間で四方に廂):
弘徽こき殿、承香じょうきょう殿、麗景れいけい殿、宣耀せんよう殿、常寧じょうねい殿、登花とうか殿、貞観じょうがん殿
〇「舎」は「殿」より簡略で小さな建物を意味する。舎と殿は明らかに区別されていた。格付けとしては第一位が弘徽殿、その下に承香殿、麗景殿が続く。一条朝・中宮彰子以降は藤壺も弘徽殿なみに重んじられた。
〇後宮は男子禁制ではなく、后のサロンに貴族が出入り可能(よって不義密通も可能?!)
〇天皇・后妃の住まいの変遷:
・当初は「仁寿殿」が帝の住居だったが、遷都しなくなった代わりに宮内遷宮を行っており、「清涼殿」と交互に使用していた。
・宇多朝~醍醐朝(9世紀後半)に清涼殿に固定。それ以降は「動かざる遷宮」(床板を張り替える等)という形で踏襲。忌事などあれば一時的に移動。
・平安初期の皇后住居の記録は残っていないが、仁寿殿(初期の帝の住まい)に直結し後宮の中心に位置する「常寧殿」が、当初の皇后の正殿だったと考えられる。仁寿殿と作りも類似。后町とも呼ばれた。
・帝の住まいが清涼殿に固定されると、皇后・母后は弘徽殿に居住。常寧殿はその後も皇后や母后の儀式の場(=特別な人しか使えない空間)として使用された。
〇天皇・后妃の夫婦生活:
・「夜御殿よるのおとど」が帝と后妃の就寝場所。その隣に「弘徽殿上御局こきでんのうえのみつぼね」「藤壺上御局ふじつぼのうえのみつぼね」という控室がある。足りない場合は他の部屋を使うことも(花山天皇が一晩に三人の女御を伺候させ!一人は大盤所に控えた)
・二つの控え場所は隣り合っているため揉め事もあり(帝の寵愛深い女御の容貌が気になった中宮が壁に穴を開けて覗き、そのあまりの美しさに嫉妬にかられ土器を割り投げつけた。悪いことにその場には村上天皇もいて、中宮の兄弟は参内差し止めに。中宮は兄弟を許すよう帝にお願いした……という話も)
〇内裏後宮の后妃同士の争い:フィクション・史実織り交ぜ
【源氏物語】桐壺更衣への嫌がらせ→清涼殿から最も離れた場所である「桐壺」という設定は意図的。遠いからこそ素通りされる女たちに妬まれ、様々な嫌がらせをされることになった。見かねた帝が後涼殿に桐壺更衣を移すも、追い出された者の恨みをかってますますひどいことに。
【うつほ物語】あて宮、他の東宮妃に誹謗中傷される
【歌集】夫を亡くした登子が夫の兄弟である村上天皇に見初められる。しかし登子の継子・徽子もまた天皇の后だった。
「いったいどうして(継母は)浮気な春の霞にかかってしまったのか」
(春の霞=どの山にもかかるということで浮気者の例え)
 と継母を責め、
 登子方の女房達が藤の花を荒らす嫌がらせをしたことを受け
「藤の花はむしりとると前より濃く咲くといいますわよ」
 と窘める(?)歌を詠んでいる。
※その程度で此方が凹むとでも?という意味じゃあないんだろか(怖)本人同士というより女房達のバトルか。
【真偽不明だが】円融朝の女御詮子と皇后遵子の対立
藤原公任の妹・遵子が皇后になって初めての入内の折、浮かれた公任が詮子に対し「そちらはいつ后になられるのかね?」などと言った。ところがその後詮子の産んだ皇子が即位。皇太后として入内する詮子のおつきの女房が公任に「妹御の素腹の后はどちらにおいでですの?」とやり返した。このエピソード自体は真偽不明なものの、遵子が「素腹の后」(=子供を産んだことのない后)と呼ばれていたのは事実らしい。
※割とどちらも直球ストレートな嫌味でヤバい。
【尊子内親王、火の宮と呼ばれる】女御として入内した直後に内裏が焼けて「火の宮」と噂された。
【水を生んだ一条天皇女御・元子】妊娠して里下がりする女御・元子の行列を御簾からこぼれ出るように見物していた弘徽殿の女房達が、
「簾の身だけは膨らんでいますのね」(そちらはお子様マダー?)
 と嫌味を言われた。ところが元子はいつまでたっても出産せず、結局水のみ流れ出て終わった(想像妊娠?)。弘徽殿での出来事も恥ずかしく思い出されて、とても内裏に戻ることができない。
※元子さん気の毒すぎる。本人何も悪くないのに要らんこと言いの身内のせいで恥の上塗り。
【東宮居貞親王妃・原子の急死】淑景舎の女御・原子が鼻や口から血を流して急死。宣耀殿女御の乳母の呪いでは?という噂が立った。
〇帝の渡御について:
・草薙剣などの宝物が置いてある清涼殿を帝が夜空けることはタブーだった、后妃の部屋を訪れても必ず戻っていた、という説があるが、禁忌とまではいえない。ゆるやかな慣習として、時に天皇がそれを逸脱しても許されたのではないか。
〇結局のところ、同じ後宮空間にひしめいているからこそ、直接の嫌がらせやいじめに繋がったのではないか?
〇上皇の后妃の居所:
天皇が譲位または死去すると、その后妃は内裏を去ることが慣例。死亡の場合は実家に、存命であれば夫の上皇に従い後院に入る。息子が即位した場合は内裏に留まることも。
→代が変わるごとに殿舎の顔ぶれも一新。
【宇多上皇の后妃たちの嘆き】宇多上皇が亭子院に住まう后妃たちをおいて、河原院(褒子のみ部屋がある)へと去ってしまった。
【源氏物語・竹河】玉鬘の長女・大君が弘徽殿女御方に疎まれる
二人目の子を産んだことで冷泉院の寵愛がますます深くなり、女御方の人々は面白くない。関係は冷え切るばかりで大君は里下がりがちに。
【うつほ物語】譲位した帝が院に移る。仁寿殿の女御はついていくが、后の宮は内裏に残留。
【源氏物語・葵】弘徽殿大后、桐壺院と別居(藤壺宮は同居)
→円融上皇がモデル?堀河院に皇后遵子と同居、女御詮子は実家の東三条邸に住んだ。
〇当時は宮中を除き「最も上位の妻」とのみ同居、それ以外は別居していた。
 以上。

 いやもうイケズすごいですね。女同士だから、とも限らず男も。やはり栗本先生仰るように、一定の空間で長時間一緒に過ごす、というのが最大のトラブル要因なんでしょうね。精神衛生上何もいいことない。
 源氏物語でよくみるフレーズ
「世間の人に何を言われるか不安」
 ってこういうことなんですね。何でそこまで怖がるかなって思ってたけど、令和の今と同じ。ネットを介してでも、有象無象に好き勝手噂されて罵詈雑言やられたら心病みますもの。まして御簾や几帳という障壁ともいえない、気持ちばかりの境目しかない、しかも政治の世界とも直結する生活空間でそんなことになったら……怖い怖い。
 というわけでまさにタイトル通りのオソロシイ、サバイバル合戦でした。くわばらくわばら。
 さてお昼。
 去年はそのまま会場で食べたけど、今年はお部屋♡ 

ちゃんと食べる前に撮った私エライ☆

 母によると、地元で有名なお店のお弁当だそうです(名前忘れた、後で聞くね→魚善でした)。実際すごく美味しかった!量もちょうどいいかんじで大満足。
 母、
「なんやろ……私、夏に風邪引いてから食欲無くて、お料理とか食べれんかもーって心配やったんやけど」
 あっさりペロリと完食。
「頭使こたせいかな?!こんなにちゃんと食べたの久しぶりやわ!」
 よかったよかった。
 今夏はもう暑すぎて何もしたくない・できない状態だったもんね。
 やっと秋が来たってことよ、食欲の秋よ!そしてお勉強にも最適!
「それにしても楽ね……」
 食べるのも楽トイレも楽。TVも観られるしあったかいお茶も飲める。
 最☆高☆
 しみじみホテル泊の有難さを噛み締める私たち。
 さあ午後は講義あと一つ!
<つづく>

「文字として何かを残していくこと」の意味を考えつつ日々書いています。