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ノンストップライティング。

アメブロを2008年6月22日から使いはじめて、11年が経っていました。2008年6/22のもの。一部記事は消したものもあるけれど、自分にとって大切な思い出やきっかけを書いた記事は、私の記憶を助けてると思う。

でなきゃ、記憶を薄くしか保てない私が、少し昔の自分が抱いていた熱さとかくらいしか思い出さないだろうから。

記憶ってなんだろう。あ。
これに今日は話題を割きたくないんだけれど。

こうやって書いているとどんどん「問いかけ」のような「自分が触れたいこと」に道別れしていく。

みんなこんなことは無いだろうか。わたしは小さなころからずっと通信簿のコメント欄のようなところに「授業中ずっと、ぼんやりしています」と書かれてきた。

ひとつの言葉や感覚から、私の頭のなかは雲のように浮かんで空に飛んでいく。時間を忘れ、土地を忘れて。

大人に近づいていって、香りと記憶が関わっていることを知ったとき、これは自分に優位に役立つとも思った。

香りとか自分にとってとても大切なのだ。香りは記憶と繋がっているから。

「さあ、話を戻そう」。
この掛け声を時々自分に与えよう。いまそう決めたけれど、私がそれをわすれて脱線したら教えて。

きっとどこに話を戻さなければならないのか、それすらわすれているかもしれないから。

アメブロの前はfc2というブログベースを2002年6/21から使って書いていた。内容は釣りと仕事とスケジュール。

全国飛び回りすぎて自分が分からなくなっていた時代でもあり。いまも小さなやみだが、私はいまここという住所に住んでいながら、いつも何処にいるんだっけ?と分からなくなる。

ひとつ言えるのは、地球には間違いないということだけだ。

「さあ、話を戻そう」
その前は1年分しか書けないブログソフトを、その前はBBS(掲示板)をブログがわりにしてた。

1年分しかかけないブログソフトに執着して、数か月の記事を削除してしまったのを当時悔やんだが、今そのブログもBBSも消えてしまっているから、その悔やみすらも消えてなくなっている。

その前は釣り専用の自分のホームページをニフティの中に作って、コラムを載せていた。このホームページはいま見ることはできないが、私の住処の押入れで眠っているWindows95の富士通一体型パソコンのなかに、残っている。

これをいつか起き上がらせたいが、いまの時代についていけるのだろうか。

「さぁ、話を戻そう」
その前は、宮城在住ながら九州の釣りクラブサイトにコラムを掲載していた。さかのぼること、1999年。いろいろ、私には分からないことが。

いろいろあったみたいなその団体はその後消失しちゃったんだけれど。その数年後、釣りの全国大会で、九州から参戦している方々とお話しできる機会があって、いろいろってところを教えてもらうことになるんだけれど。


そう。九州を始め、遠く離れたところに住んでいる方々と、そうやって何も自己紹介も殆ど要らないで話もできたのも。インターネットを通じて「書いてきた」からだった。WEBを通じて20年書いてた。

2019年のいま「noteはやってないんですか?」と聞かれることの多さ。私が書くnoteに何が期待されているのだろうと頭をひねってしまう。

関心が高い理由は、私のなかに染み込んではこないが、世間のながれはnoteなのか。noteと聞くと、日産の「ノテ」的CMを思い出すのは、なんと古いわたくし。

更新の止まっているnoteに何を書こうか。と思って、いま書いている。アメブロをそろそろやめて(必要なのだけ移植しといて)、noteメインにしようかと考えるのも、自分にとって「書くこと」に新しい対局を望んでるのかもしれない。

まだ見ぬ自分に会いたいからかもしれない。

ただ、時々。理由は分からないが。昨日のように。そう。昨日のように。

突然ブログのアクセスが異常に伸びてて、誰かがじっくり読んでるような形跡を感じると、書いたものの過ぎた時間自分でも振り替える気分になって、ブログはブログで・noteはnoteで・・・と、分け考えることして、なんかまたふりだし😂😂😂

書くことは、自分の知らない自分に会いにいくことだ。だからWEBで20年書いていたことも、紙に40数年書き続けてきたことも、まだ見ぬ自分に触れてきたことに間違いはない。

だから書くことは面白い。勝手に手がしゃべるように、ペンが動いていくのが、キーボードが動いていくのが面白くて。と、こうやって書き始めると私は止まらないのだ。

これ、楽器の演奏にも似ているし、歌を歌うことにも似ている。


自分を翻訳している。書いているの先は日本語という媒体なのだけれど。これを英語やロシア語とかクメール語とかヒスワリ語とか、表す語体によっても変わってくるのだろう。

それくらい話すように書くということは、面白すぎてたまらない。・・・・・どうせなら、止まらないというところ目指して
Note書いてみればいいのかと思った、4月のあたたかい雪降る今日。

どんどん話題が外れて、雨戸まではずれちゃっても、「さて、話題にもどろう」と掛け声をかけて、戻る路線を見失っても、書ききっていける。目の前の右手にあるストーブのことも、右手の隣に居座っている髪留めのクリップのことも、左手に居座るさまざまなリモコンのことも、目の前の左に置かれている大量のCDとDVDのことも、座る後ろに置きっぱなしの漫画のことも、頭の隅におかれている「今夜ホヤをどうさばこう」かということも、明日向かう北の地のことも。どんどん書ききっていける。

ノンストップライティング。
何かを行っているわたしのひとつの面を知っているひとも、相当見た目とかけ離れた発狂さを持っているわたしの面をしっているひとも。

読むかどうかわからないけれど。ボールペンとハサミが繰り広げるラブロマンスも、書ききっていける。どうあがいても、近いようで離れた存在たちのことを。



さぁ、なにを書こうか?

明日、なにか目についたものから、ストーリーをつなごう。


身体が動かなくなるときまで、書くことが止まらないだろう。何も私のなかに詰まってはいない。どこからやってきたことが通過して過ぎていくようなこと。

ただ分かるのは「何かのため」と思った瞬間から、その時空は閉ざされる。「さあ、話題をもどそう」と思うくらいでいい。

いや、もどることがなくってもその先で、あたらしいことを見たらそこで過ごしてもいいじゃないか。そこから書くことだってきっと、止まらないだろうし。



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