フェミニズムとSNSと

11年くらい使っていたTwitterアカウントを削除した。きっかけは、あんなさんというフェミニストの方と、そのフォロワーの方達とのやりとりに疲れてしまったからだ。ただ、それはきっかけに過ぎず、もともとそろそろやめ時だなと感じていた。TwitterというSNSが、社会の分断を加速する方向にしか作用しなくなってきたとの思いを、この数年で強めてきたからだ。

なんとなく、自分の記録用でこれを書き始めた。

あんなさんと、主にマイナスイオンさんという方とのやり取りの中で、「家父長制において男性差別は存在しない」という言葉が出てきた。わたしは、本当にそうなのかなと感じて、対話を試みようとしたのだけど、うまくいかなかった。「男性差別」という言葉、「差別」という言葉の、定義とまではいかなくても、指し示す範囲が異なっていたのかなと思う。

なぜ、この言葉にわたしが反応したのか。それをきちんと説明するためには、わたし個人の経験からきている実感を語る必要があったが、それを実名の仕事でも使っているアカウントで開示することにはためらいがあり、別の例などを示しながら書いたが、やはりそれらは理解されなかった。

差別は構造的にしか存在しないという議論は、差別論を20年前くらいから学んできているので基本的には理解できていたが、フェミニズムの文脈にかぎらないで言うと、差別の定義は学問の世界においても多種多様で、厳密には困難だという議論も知っていた。制度や構造の外にある差別も、あるのではないかなーというのが現状、わたしが「差別」という言葉を用いる時の身体的感覚だ。それは「差別」とは言わないと思っても、否定に焦らず読んで頂きたい。これは論文ではないので。

個人的な話を書く。これ以降は、性加害?に関連した話になるので、辛い人は読まないで下さい。

わたしにはまだ声変わりがしていないくらいの時期に、少し歳上の彼女がいた。その人は片親で、平日は家で一人で過ごすことが多く、そのうち遊びに行くようになった。わたしはその方と初めてのセックスをした。そのセックスには明確な同意はなく、彼女の求めるままに始まり、わたしは女性経験がなかったため、うまく出来ず、途中で終わった。当時のわたしのセックスの知識と言えば、悪い先輩から回ってきたいわゆるエロ本と、友達の家で見たアダルトビデオだけだった。

わたしは彼女に対して、性的な欲求を抱いていなかった。というか、本とビデオで見ていたセックスと、生身の女性との行為が結びついていなかったのだと思う。

行為が始まる前、終わった後、彼女からは、「男子なんだからやりたいでしょ?」「ほんとは好きでしょ?」「気持ちよかったでしょ?」というようなことを言われた。その言葉にとても嫌な感じがした。だけど、何も分からない、自分の感情もよく分かっていないような、ただ、なんかどす黒い、嫌な気持ちになったのだけは覚えている。

なんとなく、その後少しずつ関係は離れていって、関係は自然消滅した。ネットもSNSもない時代だ。その後の彼女のことは何も知らない。

とても単純に書くと、こういうことがあった。当時親しかった友人数人には、初体験をしたという話をしたと思う。羨ましがられた。なんとなく、周りより大人になった気もした。が、嫌な、どす黒い感じも胸の奥に残り続けた(それは、大人になるにつれて、少しずつは解消していったように思うが、思い出すと今でもやはり少しどす黒い気持ちにはなる)

これがわたしの個人的な体験。Twitterには書けなかったこと。

わたしは、その彼女が男性嫌悪だったとは思わない。でも、「男子は性欲があふれているもの」「いつだってセックスしたいもの」とは、ナチュラルに思っていたんじゃないかなと思う。

6年前くらいから、ドキュメンタリーの仕事で性暴力被害者の方達と接するようになって、色々とサバイバーの方の本を読んだり、学者の本を読んだり、実際にお話を聞かせてもらったりした。その中で、自分の経験も少しずつ蘇ってきた。あれがいわゆる「性加害」だったとは、自分は思っていないけど、なにかしら自分はあの時、「男はこう」という価値観から行われた行為によって、けっこう傷ついたのは確かだなと思っている。でも、彼女が「加害者」だとは全然思えず、ようはお互いに未熟な子どもであった。フェミニズムなんて言葉にはまだ触れたこともない、片田舎の10代の男女であった。つまりは、そういうことだ、というくらいに気持ちが落ち着いている。

「家父長制において男性差別は存在しない」
「ミサンドリーはトラウマから生まれるもの」

と、フェミニストの方達から言われたけど、自分のこの体験はなんだったのかと、考え続けてきた身体的な感覚と、その断言が、結びつかなかった。「個別の加害」と差別は別の話とも書かれた方があったが、身体感覚的に、別の話と素直に受け入れられない。

彼女の「男性」に対する性的な偏見は、「家父長制」が作り上げたものだったのか。よく分からない。彼女の内面には男性蔑視があって、それは彼女自身のトラウマから生まれたものなのか。当時も今も、わたしには知り得ない。

でも、わたし個人の中では、あれは「男性はいつでもやりたい」という偏見が、具体的行為に繋がって、私に影響を及ぼした出来事と理解していて、偏見が彼女の内面には留まらず、具体的な行為に置き換わった時、それは、わたしの言語感覚では「差別」と表現され、わたしが男だったからこの行為があったとしか思えないから、「男性差別」と表現されたのだ。

さて、たぶん、この話を書いても、「家父長制において男性差別は存在しない」という議論の文脈と、その立論に「間違い」はないのだろうと思う。でもね、簡単に一笑にふされたくも、ないの。

少しだけ考えて欲しかった。

家父長制や男性特権、ミソジニーによる女性差別、性暴力、性加害により、何かしらの深い傷負った女性が、「冷静」で「客観的」でいられるものではないというのを、フェミニストの方達は知っているはず。

私も知っている。

それに対して上からマンスプし、ヒステリックだと嘲ったり、言い方が良くないとトーンポリシングしてきたりする男性が沸き上がってくるほど多いことを。たくさん見てる。次から次と、その対応に追われて、フェミニストが強く怒ることも、当然だと思ってる。言葉が強くなっても、当然だと思う。

でも、でもですよ、怒らないで読んで欲しい。

誰もがフェミニズムについて、幅広く、その歴史から用語の定義、変遷を知ることは難しい。たくさん本を買うお金がない人もいれば、忙しくて休日はネトフリ見たり友達と遊んで終わる人もたくさんいるだろう。単に自分が作った情報環境がフェミニズムに全く触れない人だっているだろう。

私は工学部出身で元々機械開発者だったが、エンジニアが使う、世間一般で使われている用語の感覚とは異なる「専門的な定義」に基づく文章を、「ユーザー」用のマニュアルには書かない。伝わらないから。伝わらないと、意味がないから。

「勉強不足」と書かれてしまったら、それまでだ。男性はもっとフェミニズムについて知って、本を読み、学ぶべきと思っている。自分もなんとか、時間の空いた時に少しずつ本で学んできた。映画界や演劇界という自分が関係している業界での性暴力に対しても、無力ながらも録音・川上拓也と、実名を出して批判してきた。

「わきまえろ」という言葉や、「こんな事も知らないで語るな」という態度を、学生という立場の方から言われて、わたしにとっては、とてもやるせない気持ちにもなった(別に歳上だから偉いとかどうとかじゃなくてね)。フェミニズムの知識も勉強も、あなた達に比べて足りないのは分かってる。でも、自分なりには、結構頑張ってきたんすけどね…頑張ってるんすけどね…って、正直、思ってしまった。

(もちろん、フェミニストの方達にも色んな人がいることは知っている。Twitterやめますと書いたら、十数人かの、わたしをフォローしてくれていたフェミニストの方達や、たぶん何かしらのサバイバーの方達から、やめないで下さい、これからも発信を続けて欲しいと書いて頂き、ありがたいと同時に申し訳ない気持ちになった)

ロクサーヌゲイとベルフックスから入った男なんです。いつかは男でも、え?おれ、フェミニストっすよ?と、堂々と言えるようになれたらいいなぁと、まだまだ勉強の過程なんですよ。次に本をまとめて読めるのは、夏かな…夏は少し仕事離れられるかな…くらいのスピードなんです。たぶん、特に男性は、フェミニストに自分もなりたいと思ってるけど、やっぱ公には間違った事書いたら危ないから、何も書かないでおこうかな…って人も実際多いと思うのですよ。でも、そうなると、やっぱり理解は進まなくなるだろうし、ますます溝は広がるばかりではないだろうかなぁと。

わたし世代の男性の大半が、きっと初めてTVタックルで触れたフェミニスト。田嶋陽子先生の言葉が、好きなんですよ。なんとか、こうはならんもんでしょうか。フェミニズム。SNSも。

「フェミニズムなんて言葉を知らない人でも、フェミニズムの生き方をしている人もいる。勉強した長さじゃないの。その人がどうありたいかなの。だからフェミニズムで人を差別しちゃいけないし、されてもいけない。」

長くなりまして。推敲なしで失礼します。


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