道祖神と構造① ─道頓堀九郎右衛門町
道頓堀九郎右衛門町は、道頓堀南側の町であり、東は道頓堀吉左衛門町、西側は入堀川を挟んで道頓堀湊町である。道頓堀吉左衛門町との境から道頓堀川を北に渡り道頓堀久左衛門町と道頓堀宗右衛門町との間に至るのは戎橋である。道頓堀湊町は延宝七年まで木津組町と檜屋敷町であったが、とくに町場という感じではなくOCATが建つような場所といえば知れるところだろう。ところで道頓堀九郎右衛門町は単に九郎右衛門町ともいう。同じように頭に道頓堀と付くほかの町名も道頓堀を外して呼ぶことがある。むしろそっちのほうが普通である。
*
成安道頓らが慶長一七年に掘削を開始した道頓堀は、工事の途中で豊臣が滅ぼされるという出来事もあったが、三年後に完成するとその側に芝居小屋がいくつも建ち始める。
都から下ってきた塩屋九郎右衛門が開発を担った町は道頓堀九郎右衛門町という名前になった。そして塩屋九郎右衛門もその町に芝居小屋を建てた。
まず彼は町の裏側の難波村から遊女を呼び寄せて女歌舞伎を始めた。女歌舞伎とは何か。『国史大辞典』を見てみよう。
歌舞伎の舞台には女性は立てないというのは伝統的な規範のように思えるがそんなことはないようだし、普通にストリップまがいの内容だっただろうということは容易に想像できる。女歌舞伎が禁止されると今度は若衆歌舞伎という未成年の男の子たちが踊るのが流行する。九郎右衛門もそれを始めたが、これも二三年後承応元年に禁止される。理由はいうまでもない。
女歌舞伎も若衆歌舞伎も好き勝手にやってよかったが、このように風紀を乱されると困る。そこで幕府は歌舞伎の興行権を許可制にした。この興行権を所有する者の事を上方では「名代」という。九郎右衛門は興行許可を願い出、名代になった。名代はそれ以前から道頓堀の地に定着しており有名な劇場数に対応して設定されたという。その数は六である。
このようにして、一七世紀中ごろ道頓堀に現れた五つの格式高い大劇場を「五座」と呼ぶ。西から、竹本義太夫が開いた「竹本座」(一番西にある故に「大西座」ともいう)、塩屋九郎右衛門が開いた「中座」、大坂太左衛門が開いた「角座」、豊竹若太夫が開いた「豊竹座」、竹田近江が開いた「竹田座」である。「六座」ではないのか。実は角座と豊竹座の間に「角丸座」があったがいつごろか燃えてなくなったのだと『摂津名所図会』に書いてある。しかし「朝日座」の前身はどうやら角丸座らしく、豊竹座が明治一〇年に燃えると五座のひとつになったようである。
五座は道頓堀立慶町と道頓堀吉左衛門町に建った。そのころにはこの二つの町に芝居小屋が集中するようになっていたらしく、二つの町を合わせて「道頓堀芝居側」という。ところで、道頓堀九郎右衛門町には大正一二年「松竹座」が建つ。関西初の洋式劇場である。
*
日本舞踊上方舞の山村流は山村友五郎によって創始されたが、その二代目は新町に住んだため「新町山村」と呼ばれた。一方で初代の養女の登久は島之内に住んだため「島山村」である。そしてもう一人の養女れんの山村流は、九郎右衛門町の「九山村」である。れん以降、後継者はおらず明治一四年に途絶えた。
谷崎潤一郎『細雪』に登場する山村さくは九山村の二代目、ということになっている。
妙子が踊る山村流の「雪」。白く滑らかで美しい雪がはかなく溶けて、格調ある麗しい商人文化、女性の暮らし、高らかな芸能文化が綻びていく。道頓堀九郎右衛門町はどうか?
「道頓堀九郎右衛門町」『日本歴史地名大系』平凡社
「道頓堀芝居側」『日本歴史地名大系』平凡社
「道頓堀湊町」『日本歴史地名大系』平凡社
「わが町にも歴史あり・知られざる大阪:/223 続・道頓堀五座 /大阪」毎日新聞2011年9月15日版
木上由梨佳(2014)「近世大坂芝居地の社会構造」『都市文化研究』
服部幸雄「女歌舞伎」『国史大辞典』
関西・大阪21世紀協会「なにわ大坂をつくった100人 | 第96話 山村友五郎(初代)」(https://www.osaka21.or.jp/web_magazine/osaka100/096.html)
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?