「帰りたい」というポジティブワード

 たびたび申しているように、私は大学時代を暗闇の中で過ごした。気持ちがずいぶんと落ち込んでいて、とにかく自信がなくて、周りから嫌われていない自覚はあった一方、自分のやること成すことすべてが気に入らなかった。誰よりも自分自身が嫌いで、嫌いで、早くいなくなってしまえばいいと思っているのに、命を捨てる覚悟はなくて、うすぼんやりとした霧の中でうずくまりながら、どうしたら今、「生きる」ことをやめられるだろう、とばかり考えていた。

 積極的に死にたいわけではなかった。しかし、生きる力(活力のようなもの)はなんにもなかった。大学生としてやるべきだろうと思われること、例えば授業、バイト、適度な遊びを、まるでノルマのように消化しながら、どうしたらこの生活に終止符が打てるだろうと思っていた。ノルマをこなしていたのも、決して自分がやりたいと思っていたのではなく、ただの意地だったように思う。あとは、学費と下宿費を親に支払ってもらっている身で、いつまでもうじうじと下を向き続けているのがあまりにも申し訳なくて、罪悪感を薄めるために品行方正でい続けた。
 そうした生活の四年間、私はいつもいつも「死にたい」とつぶやいていた。繰り返しになるが、積極的に死にたいわけではなかった。電車に飛び込もうとか、ビルから飛び降りようなどと考えたことは一度もなかった。だって、痛そうだし、それを片付ける駅員や、警察や、親の気持ちを思うと、自殺なんてばかばかしいとすら思っていた。しかし、そんなことは絶対にすまい、と思いながらも、シャワーを浴びる時、寝る前、朝起きて自転車に跨った時に、口癖のように「死にたい」と言い続けた。とにかく「生きること」をやめたかった。私を動かす意地と、人間の意志とは関係なく進み続ける世界の動きを一度止めてほしかった。勝手に進む時計の針を止めたいと祈るような気持ちで、「死にたい」と言っていた。

 そこから五年ほど経ち、様々なことをきっかけにして、ようやく少しずつ立ち直って、それでもふとした時に苦しくて涙が出る夜を繰り返したものの、今は「死にたい」を言わなくなってきた。代わりに「帰りたい」とよく言うようになった。
 残業が多く、理不尽な要求が多く、転職したいと漠然と思いつつ転職活動をする時間がないジレンマと戦いながら、寝ぼけた頭とむくみきった足を引きずって電車に乗る毎日の中で、口をついて出る言葉が「帰りたい」だった。
 帰って布団でゆっくり寝たい。この言葉に自分の気持ちが帰結したとき、ようやく、自分の心がほぐれていたのを実感した。
 ほんの数年前まで、死以外に自分を解放するものはないと思っていたのに、今は睡眠を欲している。人間の三大欲求の中におさまっている。社会を営む人間として、当たり前の欲望の中で、自分が息をしている。
 わかりにくい感動であろうが、自分には驚くべき成長だった。死にたい、と口にしたあとの罪悪感と戦う日々に、ようやく別れを告げられたのかもしれない、と思った。「帰りたい」という言葉は、決して明るい言葉ではないが、私にとってはポジティブな言葉なのである。
 今、自分が置かれている状況がかなり深刻で、かなり心身に影響を及ぼす段階にあるけれども、「死にたい」と思うことはほぼない。ようやくここまで来た。ようやくここまで来れた。辛いことがあった時の選択肢に「死」が浮かばない日々とは、こんなにも明るくてこんなにもすがすがしいのかと、喜びをかみしめている。どんなに辛くても「死にたくならない」ことが、大きな私の励みとなって、私の心を救っている。

  いつか、少しずつ、私の心が弱く脆くなってしまった経緯と、そこから立ち直ったきっかけを言葉にしていけたらと思う。万が一また、自分の心が折れてしまった時のために。そして、今挫けそうになっている人のためになればいいとも思う。辛くて、しんどくて、大変な日々だったし、簡単な道ではなかったけれど、確かに私は生きている。

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