会話は孤独を救うのか

職場で週に1回、朝礼を行っている。その週の主なトピックを整理するのが多な目的のものだが、アイスブレイクついでに1分間スピーチという枠がある。年に二度ほど順番が回ってきて、何かしら発信しなければならない。テーマは自由だ。私は人前で話をするのは苦手ではないので、苦に思ったことはないが、苦手ではないがゆえに、「もっとおもしろいことを話さなければいけないのでは」と勝手に自分自身にプレッシャーを課してしまう。自由テーマというのがなかなか曲者で、余計に悩ましい。

さて、当番だった今週は、ミルクティーをテーマにスピーチをした。ロイヤルミルクティーとは何なのか、ミルクティーのおいしい入れ方は、など、ミルクティー好きの自分の知識を総動員してプレゼンする。
私がミルクティーを意識しはじめたのは、おそらく小学生頃かと思うが、今思うと母の影響があったかもしれない。母がミルクティー好きで、よくペットボトルの紅茶花伝を飲んでいた。私もそれを美味しいと思っていたし、中高生の頃はリプトンの紙パックで、ミルクティーをよく飲んだ。
本格的なミルクティーへの憧れは、6年ほど前から読んでる『宝石商リチャード氏の謎鑑定』がきっかけで、読んだことがある人には共感していただけると思うが、おいしそうで、温かくて、愛情深いミルクティーが出てくる。鍋に沸かしたミルクと、そこに沁み出す紅茶の香りを楽しんでみたくて、茶葉からこだわってミルクティーを作るようになった。
鍋に沸かして、マグカップに注ぐときの豊かさといったら。

とにかく、ミルクティーが好きな訳だが、今回の主旨はミルクティーのスピーチではなく、会話することの喜びにある。
スピーチした日の昼休みに、後輩の1人が「スピーチ、とってもためになりました。ミルクティー飲みたくなりました」とはにかんだ笑顔で教えてくれた。私はこの時、ミルクティーに興味を持ってくれたことよりも、スピーチで聞いたことをもとに私に話しかけてくれたことがとても嬉しかった。ちゃんと聞いてくれてるんだな、届いてるんだ、と実感すること。そのことが何よりも嬉しかった。
さらに嬉しかったのは、3日ほどたって、また別の後輩が「オススメの作り方で、ミルクティー飲んでみました」と教えてくれたことだった。
社交辞令でも何でもなくて、はっきりとした私に対するレスポンスが貰えたのが、本当に嬉しい。
スピーチは、ともすると、一方的な発話になりがちである。言いたいことだけ言って、ふーん、そうなんだ、で終わってしまうようなことがよくあるし、私もよくそうしてしまう。それが悪いことだ、とまでは言わないけど、中には人前で話すことが苦手な人もいる中で、いろいろと悩んで用意してくれた話を右から左に流しているのだとすれば、なんて勿体ないのだろう、と思った。

寺山修司の『あゝ、荒野』に、主人公・バリカンの父親が、会話をしたくてたまらない描写と、会話が出来ずに養老院で自殺した人の描写が出てくる。自殺した人はいったい何が苦だったのか。
会話は、当たり前だが、1人では成立しない。無関心でもダメだし、あまりに価値観が異なりすぎても成り立たない。
それでは言語の違いはどうか?
日本語がそれほど得意では無い海外の方と話したこともあるし、逆にカタコトの英語で話しかけたこともある。
単なる道案内の時は、得られるものは達成感と疲労感だけだが、日本語が読めずに苦労しているゼミ生を皆で一所懸命手伝った時は、大きな満足感があった。
この満たされる、というか、お互いに熱心でいることこそが会話が孤独を救うカギになり得るのだろう、と思う。
だから、いくら会話のきっかけを雑学に求めても、表面をなぞるだけのつまらない発話になってしまうし、通じているのか通じていないのか分からないカタコトの会話でも、自分の内側から苦労して出した言葉であれば、その熱心さが、相手の心を救うことがある。

耳の聞こえない方が同じ職場で働いているが、最近覚えた手話で話しかけると、なんとも嬉しそうな笑顔になる。私はそれが大好きだ。
私の熱心さが彼女の心を救うのなら、私はこれからも子どものように、覚えたばかりの言語で、沢山話しかけたいと思う。

つまらない説教みたいになってしまったので、ここまで。
とにかく私は、返してくれたことが嬉しかった。

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