保育園の頃から通園通学をできなかった理由を考えてみた。


結論を先に言ってしまうと、離れてる間に、ままが死んでるかもしれないと思うと怖かった。
 怖くて不安で仕方なくて,いっそ早く死んでくれたらいいのにと思うことさえたびたびあった。


 今でもあの頃の気持ちや景色をはっきりと思い出せる。
 教室の一番目立つところに立って、先生が何か話している。面白いことを言って、教室の雰囲気が華やぎ私も思わず笑ってしまう。
 それから少しして、窓から爽やかな風が入り込んで首元をくすぐると、梳いてばかりの長さの揃わない髪が顔全体に散らばって、すごく邪魔なのに、私はそれよりも、一瞬でも母のことを忘れてしまっていたことに罪悪感と恐怖を覚えた。
 母は今も苦しんでるかも知れないし、もしかしたら事故に遭って病院に運ばれているかも知れない。
 何かのテロ被害に遭って、人質に取られているかも知れないし、何かの病気の発作が出て誰も気づかない場所で倒れているかも知れない。
 常にそうして母が死ぬかも知れない可能性をたくさん頭の中に思い浮かべてないと、その時が来た時自分がどのくらい苦しむかわからなくて、怖かった。
 馬鹿な想像は全て母が死ぬかも知れない恐怖から来ていたのだろう。

1 五歳くらいの頃

 団地の人しか入ってこれないような、入り口はその場所のためだけにあるような、上り坂となっている細い小道を上がって行った先にある駐車場で、母が急に蹲って泣き出したことがあった。
 私はなんとなくその理由を察していて、祖母からまた傷つくようなことを言われたか、或いは暮らしていくためのお金が無いのか、だった。
 メガネを無理やり押し上げて、顔を片手で隠して、「先帰ってて。ママもすぐ行くから」と鍵を私の手に押し付けた。
 駐車場は、上り坂の上にあるから、少し高台になっていて、子供の頃の私にはそれがとても高いように感じて、駐車場の少し奥にある崖は、少しでも足を踏み外してしまうと、死んじゃうと思ってた。
 太陽は落ちかかっていて、雑草と一緒に生えてる蛇苺が目に入って、部屋に戻ってしまったら、救急車が来て、それから母はここで死んでしまうと思った。
 想像力が頗るあった私は、たくさん泣いてしまって、それから母を動揺させた。
 母はすぐに泣き止んで、私を抱きしめて、ちゃんと一緒に家に帰ってくれた。当時の私はあれが正しい行動だったと思っていたが、今思うとこんな私の行動一つが母を思い詰めさせていたのだと思う。
 私はあの時母が一人で泣ける場所を奪ってしまったし、それどころか泣くほど気を病む原因である(母にとっての)母親との関係をどうにか解決しなくてはいけないと無理をしたことだろう。

 母はこの時、泣いた理由を心の病気なのだと説明した。
 当時の私は、病気の人に、病気の説明をさせることは酷いことだと思っていて、なにも聞かないことにした。
 それどころか、私以外の人間は母が病気なことを知らなくて、ひどいことを言うばかりだった。
 私は、母が病気なことを知られたら、それを弱みに取られて、周りの大人から母が殺されちゃうんだ!と思った。
 そう思うと誰にも言えなくて、そのまま小学校五年生の頃まで信じていた。



2 保育園・学校での様子

 それからは、上述の通り、母と一緒にいない時は母が死ぬ想像をしていた。
 担任の先生が急いで教室にかけてきて、「お母さんが!」と私に声をかける。不安な気持ちで見上げると、気まずそうに口を動かして、それから荷物をまとめて職員室に行くよう促される。
 そんなことばかり考えていて、もちろん平気でいられるわけがない。
 のどがくるしくなって、息がうまくできなくて、涙が止まらなくて、あたまがあつくて、ぼうっとして、倒れ込みたくなって、横に座ってた同級生の子が驚いて先生を呼ぶ。
 先生は私がどうして泣いてるのかわからないから、何度も私に聞いてくる。
 私は呼吸がうまくできなくて、そうなるとなにか話そうとしても絶え絶えになるばかりで、言葉にならなかった。ほとんどなにかを叫んでいる状態で、静かになってなんでもなかったのだと笑い話にしたいと思ってた。
 部屋の中は静まり返って、子供みたいに泣いてる私をみんな気味がった。
 先生は多分、そんな空気を変えたくて、「お腹すいちゃった?」「また〇〇くんが変なこと言ったんでしょー」と笑いを誘ったけど、私はそれにもうまく返せなくて、端的に言葉を繋ぐことにした。
「ままがいい」「ままにあいたい」「いえにかえりたい」「ままがいい」
 ずっとそればかり口にした。先生は、それを聞くと(たぶん、私の言い方が悪くて、ははでないと泣き止ませれないと意味を取ったのだろう)傷ついたような顔を見せてから、怒ったように私を無理やり立ち上がらせた。
「お腹が痛くなっちゃったのかな。お熱測りに行くね」
 手首の辺りを強い力で握られて、階段を降りる間「そんなんじゃ小学生になれないよ」「もう赤ちゃんじゃないよね?そうやって泣いちゃダメなんだよ」「みんな赤ちゃんみたいって思ってたよ」と叱った。
 恥ずかしくなったし、先生に泣き止ませてあげられなくて申し訳なかったし、みんなのところに戻るのがいやで余計泣いた。
 でも、それからは人前で涙が止まらなくなっても『情緒不安定』と言う言葉を教えてもらってから、怖く無くなって、平気になってしまった。
 それどころか、「ままがいい」と伝えれば、簡単に泣きやめるような状態でないことが先生にすぐ伝わることや、母に電話をしてもらえることを覚えたので、そればかりになった。
 そうなると、当たり前に毎日通うことはできなくなって、それからは車で回る営業の仕事をしていた母についていって、いつも車の中で待っていた。


3 まとめ

 それから私は不登園・不登校になった。
 なんで学校に行けないんだろうとふと考えて、ようやく最近気づけたのでまとめてみた。

 同じように学校に行けない人や、そう言う人の親御さんの参考になったら、と思う。

 どうか、したいことやその能力があるのに、学校に行けないという理由だけで、したいことどころか、将来の可能性まで奪われそうになっている人たちが、少しでも自分らしくいられますように。

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