#019 倫理の「なぜ〜してはいけないのか」を追求する
倫理学についての思考ゲームとして考えさせられた本があったので、紹介します!
本のタイトルに怖い印象を受けますが、「ダメなものはダメ。なぜダメなのだろうか」を掘り下げて行く趣旨の書籍で、倫理的にダメとされる行為を推奨する書籍では決してないのでご安心ください。
この本は、古代から問われ続けている10もの難題に力の及ぶ限り答えを与えていく内容となっています。特に面白かった点は、質問そのものではなく、質問の背景に焦点を当てていることです。「なぜこの問いを発するに至ったか」。これらの質問には正解は存在しないですが、質問者がどういう意図で聞いているか、その背景事情は何かあるはずです。なので、質問者の背景事情を察することができれば、自ずと的をいた回答ができるのではないか、という試みです。
ぱっと聞かれた時、答えられるでしょうか。
例えば
YESかNOかでいったら、もちろんNOであることは想像できます。当たり前です。これ以上議論することは通常あまりないですが、本書は一歩踏み込んでいます。当たり前を疑うところから始めています。
そもそも、問いとは?
この本でまず最初に印象に残ったのは、下の文章です。
よくよく考えてみれば爽快な文章です。「問い」を評価するのです。学生からすると、先生が作成した試験に対して点が全く取れなかったのに「先生の問題の作り方が悪い」とつっぱねる図々しさが感じられます。
もう少し読み進めていくと、背景がわかります。
全ての問いには、動機があるということです。
問いが発せられた動機がわかれば、答えるのは比較的容易になります。
義務教育では、先生が出した問題に盲目的に答えることが多いです。「先生、この問題のセンスないですね」などと自分の点数を棚に上げて、先生の出した問題に異論を唱える人はあんまりいなかったように思います。
なぜかというと、義務教育ではほとんど問いの背景に目を向ける必要性が感じられないからです。(国語や現代文などでは出題者の出題意図を把握する必要がある程度)。
倫理学では問いの動機に焦点を当てる必要がある
この本では、もう一つ面白い観点がありました。
何か質問するときとは、どういう状態かに着目しているのである。
この質問が出るのはどういうタイミングでしょうか。少なくとも幸せの絶頂にこう考える人は少ないはずです。日々が希薄で、あまり明るくない状況であることはなんとなく察しがつきます。
つまり、質問者は現状に何か不安かもしくはストレスを感じていて、そのモヤモヤした感情が結晶化した結果、「人は何のために生きるのだろう」という問いになったのです。
問いの質、感情の結晶化の方法が正しいかどうかは分からないです。受け手に想像力を使わせる点、質問力は低いかもしれないです。この手の質問をしても、現状の不安もしくはストレスを解消できるような回答を得るのは難しいです。
仮にもこういう問いを投げられた時は、根本的な動機について想像してみて、もっと良い問い方がないか考えることが重要です。言外の意味をいかに掴んで、問いと相談者の人生の解像度を上げることが鍵となってくるのです。
「この人はどうしてこういう問いを発するに至ったのだろう」
と想像力を働かせ、必要によっては質問を再構築することが効果的です。言外の意味を把握する力は「気が利く」のとニュアンスが近いです。気が利く人は日常の多くの場面で人の思考に目を向け、手を差し伸べます。倫理的な問いには、気を利かせる必要があるのです。
正解はない
さて、この本では言外の意味に想像力を働かせながら以下の問いに答えていっています。
どの質問も、正解はないです。質問者の状況は千差万別なので、それぞれに事情はあります。それら全てに通用する普遍的な答えはないです。
自分が考える答えと、著者が考える答えの照らし合わせはできるでしょう。そう言う意味では、ぜひ書籍の方を読んでください。
おしまい。
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