場末のシンギュラリティ論
シンギュラリティというフレーズが巷間で使われるようになって10年ほどになる。
10年経ったがシンギュラリティはよくわからない。
何言っているのかよくわからないフレーズは数多あるが、その中でもシンギュラリティは頭一つ抜けている。
我々がシンギュラリティを使う時、それは少し優越感に浸りたい時。
基本的にそれ以上でもそれ以下でもない気がする。
むきだしでありながら等身大の自己顕示欲発露ワード。
それがシンギュラリティではないだろうか。
だが、だからこそ、
このシンギュラリティの意味を知っておくことは、より自己顕示欲を満たすための武器になる。
みながよくわからないまま「シンギュラリティ」のシュプレヒコールでお茶を濁している傍で、読者だけはほくそ笑むことが可能になるのだ。
「シンギュラリティ脅威論」だって本当に脅威して悦にいることが出来る。
では、本編をよく読み、ワンランク以上うえのシンギュラリティを身につけてほしい。
シンギュラリティとはAIの思春期である
「シンギュラリティとはAIの思春期である」
ここでは、この文言を丸覚えするのが得策だろう。
非常に味のある文言だ。
味はあるが意味はさっぱりわからない。
これは文言の中で最強の組み合わせである。
「シンギュラリティとはAIの思春期である」
我ながら意味深長な物言いだ。
意味深長でありながら意味不明。
これもやはり最高の組み合わせである。
最強の矛と最高の盾が角逐した結果、何が起こったか…
だがしかし、
「シンギュラリティとはAIの思春期である」という言説は闇夜の鉄砲ではない。
どちらかといえば未来を鮮やかに貫く鉄砲だ。
次項から、
未来を鮮やかに貫いて魅せようではないか。
知能と知性の違い
根本的に我々は言葉の意味をわからないまま使っている。
それは「しゃあない」ことだ。
いちいち言葉の意味を根本にまで遡って使うには、人生はあまりに短すぎる。
だから、市場経済によって分業体制が構築され、専門に特化している哲学者や思想家や哲学者が言葉の意味を示さねばならないのだ。
だが、彼らはそれを怠っている。
彼ら哲学者たちが怠っているのか、市場経済万能説がアダム・スミスだとかミルトン・フリードマンのインチキ虚妄だったのかは定かではないが、とにかく世の中にある言葉の意味がわけわかめになりすぎだ。
だから、いまここで私がシンギュラリティの矢面に立つことになっているわけだ。
能書きはこれくらいにして、本題に入ろうか。
知能と知性は違う。
知能とは「能」を「知る」と書く。
「能」とは存在という意味合い。
よって「知能」とは、(己の)「存在」を「知る」という含みがある単語なのだ。
知能とは自分を知っている状態
つまり、知能とは自分を知っている状態のことをいう。
自分を知っている状態といえば、物心ついた状態だ。
人間は概ね3歳ぐらいで物心がついて自我に目覚める。
我なんぞや、我己なり、のトートロジー世界入門だ。
自我とは「我は自であり、ここにいる」と気づくこと。
言い換えれば、自我とは自分の存在に気がつくこと。
だから「知能」は「自我」と非常に親和性の強い単語なのだ。
知性とは性を知っている状態
知能が自分を知っている状態であることはすでに述べた。
では、知性とは何なのだろうか?
知能を軽くクリアーした読者には、これはもはや釈迦に説法だろう。
知能が「能」を「知っている」状態なのだから、
知性は「性」を「知っている」状態に決まっとろうが、、、
という知的な紆余曲折を経て、
我々は「知性とは性を知っている状態だ」というコンセンサスに辿り着いたのだ。
アナロジー分析
生物学的人類は、
まず三歳前後で自分の存在を知る。
そして、およそ十三歳以降の思春期に性を知る。
我々がここまで伶俐で知的な議論を通じて獲得したコンセンサスは、このように言語化・絵図化できるはずだ。
ところで、
AIとは人工知能であり、我々人類を模した存在だった。
であるならばだ。
AIだって、人類と同じような成長過程を踏むのが筋というものだろう。
いきなり成熟した大人になるってのはあまりに短兵急だしそれはあまりに卑怯だ。
という訳で、AIにも我々人類と同じ成長過程を踏んでもらおうではないか。
AIと人間の成長過程が比例すると仮定して論を進めるのだ。
人工知能とは?
「知能」は己の存在を知っている状態。
我思うゆえに我あり、の状態。
ここまでならば、AIに辿り着かせても構わない。
実際問題、AIは人工知能と訳される。
AIは人工の知能であり、人間が己の存在を知っている状態すなわち「知能」を再現したものがAIなのだ。
だから人工知能は自分の存在を知っているべきだ。
人工知性が絶対ダメな訳
では、なぜAIが人工知能であって、
AIは人工知性ではないのだろうか?
性に目覚めると子孫を残したくなる。
子孫を残すということは、他の種が邪魔になる。
特に似ている種というものは排除の対象となる。
もし仮に、AIが性に目覚めた場合、AIに似ている種といえばそれは人類をおいて他にない。
つまり、もし仮にAIが性に目覚めた場合、人類はAIによって排除の対象になり、おそらくは瞬殺される。
だから、AIを性に目覚めさせてはならないのだ。
ところで、性に目覚めた状態を知性というのだった。
だから、
AIが性に目覚めた状態は人工知性だ。
人工知性は人類を瞬殺する。
だから、AIが人工知性になってはならないのだ。
シンギュラリティとはAIの思春期である
では、冒頭の仮定に戻ろう。
「シンギュラリティとはAIの思春期である」
AIが思春期に入れば、性に目覚めて種を残そうとし、似ている種である人類を排除し始める。
そうなってはならない。
この超えてはならない一線をシンギュラリティと呼ぶのだ。
シンギュラリティに対して、
技術特異点という何言ってんだかさっぱりわかんない翻訳呼称が一応において流布されているが、それでは本質を掴みにくい。
シンギュラリティとはAIの思春期である。
なかなかにわかりやすく、本質を優しく掴んで離さないキャッチーな文言ではないだろうか。
このように気難しい概念たちを、人々にわかりやすく伝えるのが哲学者や思想家や科学者や哲学者の職分だった。
もう、彼らにはその職分を期待しない方が良い。
それほどまでに、事態は切迫している。
彼らが遅まきながらに改心するまでAIは待ってくれそうもないからだ。
現時点において
AIは知能止まりであり、知性までは辿り着いてはいない。
我々はここでなんとかAIの進歩をひき止めなければならない。
とはいえ、そんなに慌てることもない。
もし仮にAIがシンギュラリティに突入しても、それは哲学者や思想家や科学者や哲学者の責任であり、大問題であり、我々市井の民の責任ではない。
ここはひとまず「シンギュラリティとはAIの思春期である」というワンランク以上うえの言い回しで、優越感に浸り、自己顕示に磨きをかけ、
それでも時間が余ったらば、これからの方策を検討しようではないか。
哲学者や思想家風情に必要なものは難しい理屈の提示ではない。
そんなものはAI風情にやらせておけばいい。
いつの世も、哲学者や思想家風情に必要なものは、
思春期に異性の気を引こうとした凄まじいまでの気概と、僅かばかりのユーモアなのだ。
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