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フォローしたならスキをくれ

 

フォローしたのにスキをしない、という暴虐が猛威をふるって久しい。
フォローは自由であり、それに従属するスキもまた自由である。

だがちょっと待って欲しい。

確かにそれは、理屈において正論の範疇スパンにしっかりと地歩を乗せた論ではある。
しかし感情において、一抹の違和感が残るはずだ。
それを人は良心といったりもする。
理屈では割りきれない、「何か」が生物学的人類にはある。
この「何か」こそが、我々を霊長類の長たらしめているのではないか。

承転

本当に、フォローしながらもスキをしない、という暴虐が許されるのだろうか。
いや敢えて問い直そう、スキなきフォローはnote屋への侵略戦争ではないかと。



おめえ、
ただ単に、スキが欲しいだけではないか???



ああん、おんど
ここでは聡明叡知な読者からこのような質問が予想される。
確かに、スキは喉から手が出るほど欲しい。
だが、どうだろうか。
本当にスキという結果のために、我々は言の葉をウェブに散らしているのだろうか。
いや、それは違うと断言できる。
あくまでスキは手段であり、その向こう側にある「何か」を実現するための足にすぎない。
よしんばスキを目的にしてしまうならば、何を況んやそれこそ手段の目的化に他ならない。

とはいえ、人には今云う承認願望なるものがある。
これこそ、人の、業であり、エゴであり、性であり、煩悩であり、人の枢軸たるものだ。
スキなきフォローとは、この、人の枢軸たるものに対する侵略戦争である。
だから、だからこそ、

スキなきフォローといふものは問題なのだ。

今こそ、冷静なフォローと、熱いスキが求められている。

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