見出し画像

最近の音楽がまるで冴えない小泉な構造改革的理由

「最近の若いもんは、どうにもイカン」

老人の妬みを許してやってください

古代エジプトの粘土板に書き記されたフレーズは連綿と受け継がれて令和の御世に至っている。
だが、どうにもイカンのは若いものだけではない。
最近の音楽は、どうにもイカンのだ。

しかし、最近の音楽がイカンのには明確な理由がある。
2000年代に始まった小泉構造改革。
これが最近の音楽すらも・・・イカンものにしたのだ。
今日は「最近の音楽がイカン」ことと、
小泉構造改革の密接な関係について掘り下げてみよう。

日本のアメリカ化成就

2000年代に鳴り物入りで始まった構造改革とは「日本社会をアメリカ社会のようにする構造改革」の略称であった。

構造改革とは
「日本社会をアメリカ社会のようにする構造改革」

構造改革の正体

アメリカといえば貧富の格差が激しく、
多くの人々が英語を話し、
何かあれば訴訟沙汰になる。

まさに今の日本社会がこれである。
つまり、
00年代に始まった小泉構造改革はものの見事に奏功し、日本のアメリカ化、アメリカ社会への構造改革はいまや大成就しているのだ。




弁護士数20年で「3倍!」

日本が訴訟社会になったと言われてもピンとこない世代もいるだろう。

昔の日本には、町や村それぞれにヤクザがいて、彼らが社会の均衡装置となり、結局当事者は・・・・どちらも得をしない訴訟沙汰というものを事前に防いでいた。

この均衡装置たるヤクザを徹底的に弾圧し、日本社会の均衡を壊すことから小泉構造改革は始まる。
わかりやすい悪者から叩いて人気を維持しながら、日本のアメリカ化は進行したのだ。
「必要悪」という概念を忘れた狂乱の00年代だった。

この日本のアメリカ化に対して警鐘を鳴らしたのが、北野武監督によるヤクザ映画全般だった。
だったのだが、あまりそのメッセージは市井には伝わらなかったようである。

さて、00年代序盤に日本社会からスタビライザーたるヤクザが消えた。
すると、当然訴訟が増える。
この事象と同時並行で弁護士規制が大緩和され、言葉は悪いが、誰だって弁護士になれるようになった。
弁護士が選ばれし者の職業ではなくなったのだ。
結果、弁護士数は瞬く間に2倍になり、今や00年から比較して3倍に近付かんとしている。

年度      弁護士数
2000年 17,126人
        ・
   ・
   ・
2024年  45,826人

日本の弁護士数 筆者調べ



食い詰め弁護士への生活保護


00年代、日本政府はアメリカからの年次改革要望書に基づき構造改革を進めた。
だが、
弁護士の数をアメリカの言いなりに急増させたはいいが、それに比例して事件が急増するわけではない。
仕事がないのに弁護士の数が急増。
結果、多くの弁護士が食い詰め寸前になってしまった。
少し言葉は悪いが、弁護士資格をむやみに規制緩和したため、出来の悪い弁護士率が高まったのだ。
だが日本政府としてはなんとかして弁護士の失業を救済しなければ、アメリカの希望する弁護士数を維持担保できない。
そこでまず金融業における二重金利に対し「トンデモ判決」を出し、出来の悪い弁護士でも出来るグレーゾーンビジネスをプレゼントした。
この金融グレーゾーンビジネスは、死に体だった弁護士に仕事を施し、現在も食い詰め弁護士を救済し続けている。
他にも後見人制度改変など、食い詰め弁護士救済の策は数え切れない。




松本vs槇原 訴訟社会の号砲

このように、00年代の弁護士急増と彼らを救済するための措置は密かに、だが堂々と行われた。
この弁護士救済策はこれだけではない。

ようやくここで音楽に話が戻ってくる。

この記事のテーマを念のため確認すると、
「最近の音楽がどうにも冴えない理由」であった。


2008年に人口を膾炙した松本零士氏と槇原敬之氏の訴訟沙汰は衝撃だった。
漫画の中のフレーズをパクられた、として松本零士氏が槇原さんを訴えたのだ。

それまでは「そんなんええがな」で片付けられていたことが訴訟沙汰になった。
訴訟にするという発想すらなかった案件だった。
結果はともかくとして、訴訟というものが身近なものになったことを痛感させられた出来事だ。
そして、それは一般の反応であって、
音楽業界はもっともっと凄まじきことになったのだ。



音楽業界カバーブームの真相

「これじゃあ、何やってもアカンのちゃう」
「それされたら、かないませんわ」

松本零士・槇原敬之訴訟が音楽業界に与えた衝撃はデカい。
それまで普通にみんながやっていたことを、問題だとして訴訟に持ち込む御仁が現れたのだ。

「訴えてやる」

ダチョウ倶楽部の言霊が、速攻で現実のものになったわけだ。

音楽というのは、先達の作ってきたものにアレンジを加えて、より上質なものに仕立てていくのが本筋であり王道。
一曲がまるっきりのオリジナル作品というものはまずもってお目にかかれない。
少し語弊があるかもしれないが、音楽とは節度を心得たパクリあいなのだ。

それが松本訴訟によって封じられしまった。

節度あるパクリあいができなくなったのだ。

するとどうなったか?


史上空前のカバーブームである。



覚えている人も多いのではないだろうか。
00年代末に徳永英明さんがこれでもかとカバー曲を連発して、ヒットを飛ばしていたことを。



2010年代〜 オリジナル名曲不在の時代

00年代後半に始まったカバー曲ブームは現在も続いている。
多くの歌い手が他人様の過去曲を歌い直す。

これならば、パクってると訴えられることはない。
パクっているのがカバー曲の存在証明だからだ。

00年代後半に唐突にやってきた空前のカバーブームは、音楽訴訟を避けるための知恵だった。
それと同時に、オリジナルで曲を出すのが難しい時代の裏返しだったのだ。

音楽を出すのは売って儲けるためだ。
だが訴訟リスクを抱えた曲では、
出したはいいが、訴訟で損失を出すことが十分に考えられる。
それに目を光らせている御仁がいることが松本零士訴訟で判明した。
だからアーティストサイドとしては、訴訟リスクを避けるため、パクリと言われるかもしれないオリジナル曲をさけるようになったのだ。
先ほど述べたように、音楽というのは先達のミュージックを本家取りして、少しづつ少しづつ進歩させていくのが本筋であり王道。
99%の節度あるパクリと1%のヒラメキこそが音楽を進歩させてきたのだ。
ところが、
松本零士訴訟によって、
「1%のひらめきだけで音楽を創れ」という暗黙の啓示が業界に轟いた。


そんなものは無理筋だ。

いきなり、
「火は原始人の専売特許だから、
 火を使わないで生活しなさい」

と言われたようなものである。

そんなものは無理筋だ。

だが、そんな無理筋がバンバン通ったのが00年代・小泉構造改革の時代だった。




悪戦苦闘する 令和の音楽家たち
最近の音楽がどうにも冴えない理由


現代日本においては、
少し似通った音楽を出すば、訴訟にうったえられるリスクがある。

この十字架クビキはあまりに深く、あまりに大きい。

真似したつもりはなくとも、似通っているだけで訴えられてしまう。

だから、
完全オリジナルで製作した曲であっても、
製作後に「似通ってる曲が存在しないかどうかチェックして、訴訟リスクを回避する」手間が必要になる。

従来の作詞作業・作曲作業。
そこに膨大な訴訟回避作業が加わったのだ。

しかも、「過去に似通った曲がないかチェックする」という作業は、過去にあったすべての膨大な音楽に当たらねばならず、作詞・作曲作業よりも手間がかかる代物だ。

だから、
そんな馬鹿げた作業を回避する意味において、
00年代後半からカバー曲ブームが起きたわけである。

だが、そんな苦境にあっても、
現代日本に、
オリジナルの楽曲はしっかりと誕生している。

とはいえ、
過去の先達の名曲を堂々とモチーフにすることはもはや許されない。

ここに最近の音楽がどうにも冴えない理由がある。

令和の音楽家は、過去からの遺産たる名曲の数々を胸を張って参考にすることが出来ない。
手枷足枷をはめられた状況で令和の音楽家は日夜音楽と格闘している。

だから、現下日本においてオリジナルで名曲が誕生しづらくなっているのだ。



巨人の肩に乗れない時代 〜封建社会への回帰〜

音楽も文明も、
巨人の肩に乗ってより高みを目指すのが要諦となる。
先達の到達点の上からスタートできるから、より高みを目指せるのだ。
だが、その基本原理を訴訟社会というものは阻んでしまう。

つまり、
訴訟社会というものは、世の中の発展を阻む社会なのだ。
訴訟社会とは極論ではなく文明の否定である。
他人のアイデアを使ってはいけない。
それは傲慢だ。
他人のアイデアを使いあって、我々は悠久の時の中で文明水準を高めてきた。
それを訴訟社会はやめろと言っているのだ。


自分だけの利益のために、文明をぶち壊す。
それはやってはならないことだ。
自民党はぶっ壊してもいいが、文明はぶち壊してはならない。

どうしようもない社会だと思うし、
この流れに竿さし小銭を稼ごうとする御仁やからにはつける薬がない。
そう思うのが私だけでなければいいが…

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?