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凡夫から須陀洹へ:身見、疑惑、戒取とは

まず、身見、疑惑、戒取に関し、分かり易い下記WEBをご紹介しましょう。

「身見」とは「我が身第一」と見て 心を動かすことで、欲念すなわち「我(が)]となってあらわれます。「我(が)]がなくなれば身見はなくなっています。 欲念が滅すれば、悪い心癖、恚念・害念が生じることが無くなる、この解脱システムに疑いがなくなれば、疑惑がなくなっています。 

欲念から離れないで、恚念・害念を無くそうとする、すなわち、強引に戒を護ろうとする執着が戒取です。 欲念が無くなれば戒取ははなくなっています。 須陀洹の境涯になれば三結は滅して、世間に反応して動いていた表面意識は寂静になります。

WEB ひの出版室HOME 『六内処経』 ひの出版室 (metta-maitori.com)

身見

「身見」は「我見」であり「我執」であり、「動物の行動原理、無明」から生ずるという。釈尊ご在世当時、バラモン教では「我」はアートマン(Ātman)と言われていて、不滅であり果てしなく輪廻転生させる主体であると考えられていました。今から2600年以上まえに、すでに輪廻転生をとらえていて、そこからの解脱を試みていたということは、驚くべきことです。現代人よりもはるかに霊性に目覚めていたと言えましょう。

しかし、釈尊は、この輪廻転生とアートマンを否定されたと伝わっています。現代人のわたくし達はどうでしょうか。来世を信じないという人が多いのではないでしょうか。あるいは、バラモンと同じく未来永劫輪廻転生を繰り返すと信じている人もいるやもしれません。前者を「断見」と言い、後者を「常見」と言います。

釈尊は断見でもなく、常見でもないとして、「中道」を説き、輪廻転生に対し答えないで「無記」とされました。このため、輪廻転生は無いんだという一部の大乗仏教の主張が出てまいりました。しかし、釈尊は輪廻転生はある、しかし解脱した阿羅漢・仏陀になると輪廻は止むと説かれていたのでした。この為、輪廻転生はあるかとの問いには答えず、また無いかとの質問にもお答えを示されなかったのです。

つまり、慢(我慢・掉慢無明)を断じなければ、その因と縁により転生し、これを断じ解脱すれば輪廻は止み、「我が生すでに尽き、梵行已ぼんぎょう すでに立ち、所作已しょさ すでに為し、自ら後有を受けざるを知る」という境涯となりますが、これは阿羅漢・仏陀の定型句です。

「我が生已に尽き」とは、今生に生まれてきた原因である「有結」と「タンハー・渇愛」が尽きたことを知ること。「梵行已に立ち」とは、いつも周囲のお幸せを願っていて、溢れるような慈愛の心で満たされており、いわゆる利他心をもって、行住坐臥ぎょうじゅうざが過ごしていることをいいます。「所作已に為し」とは五受陰(五蘊)は「無常、苦、空、非我」であるとして厭い、我欲を離れ、解脱に向かい、脳と心が反応(三事和合)しなくなることをいいます。「後有を受けざる」とは、輪廻転生の原因である有結とタンハー・渇愛を滅し、我慢・掉慢無明を解脱したので、再びこの世に生を受けないことです。

釈尊は、
① 我・アートマンは輪廻転生の主体であるという当時のバラモンの主張を否定
② 五受陰は「無常、苦、空、非我」で脳と心の動きは、我に非ずとし
・須陀洹に向かう段階では、動物の行動原理の欲念からくる「我欲」の我から離れ、断じることで、身見から離れ須陀洹の境涯となる
・阿羅漢・仏陀に向かう課程では、輪廻転生させる「我慢・掉慢無明」の我から離れ、断じることになる

とされたのでした。

疑惑

疑惑とは疑い、惑うことですが、何に対してなのでしょうか。

まず、輪廻転生って本当にあるのか、という疑いと惑いから離れ、その正しい理解を深めることが、あげられます。これにより輪廻転生への誤りから離れ、正しい信を確立します。

さらに、雑阿含経『四不壊浄経』に「仏、法、僧への不壊浄、聖戒成就」すると須陀洹であるとされています。「仏、法、僧への不壊浄」というのは、仏、法、僧への「信」を確立することです。これは「五根法」の「信根」の事です。

① 仏への信
仏陀・阿羅漢という存在があり、わたくし達もこの修行で須陀洹、斯陀含、阿那含、しゅだおん しだごん あなごん阿羅漢・仏陀という存在になれると信ずることです。下記をご参照ください。

お釈迦様は何を説かれたのか。
苦を滅して解脱に向かう心の使い方を説かれたのです。解脱の修行は、お釈迦様が説かれた解脱への道を知り信じることから始まります。 解脱のシステムは如来の十号に示された力を持たれたお釈迦様がお説きになったのです。阿含経を読んでさっぱり分からなくても、お釈迦様の解脱法を説いた解説が頭に入ってこなくても、お釈迦様に親しみ信じる心が強ければ解脱に向かって動き出します。
 修行の出発点ではお釈迦様への親愛のエネルギーと信の力によって、自分の心を観察し制御します。ここに解脱へ向かう力があることを知って実践し、解脱に向かっている心を観察し知って歓喜を生じます。 

WEBひの出版室 雑阿含経12633 『難提経より①』  ひの出版室 (metta-maitori.com)

② 法への信
法への信の説明は下記WEBが分かり易いでしょう。なお、「法」という言葉は阿含経では「心癖こころぐせ」あるいは「プログラム」と読み替えると理解し易いとされています。

お釈迦様が説かれた正しい心の成り立ちと、正しい心の使い方についての智慧に心を向けるのです。(略)
 お釈迦様が説かれる心の動かし方の智慧を知れば、私たちでも解脱に向かうことができるのです。

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具体的には、「在家の解脱法により修行を開始し、七科三十七道品の四正断法、四念処法、四神足法、五根法、五力法、七覚支法、八正道の修行法により修行を進めて参ります。

③ 僧への信
解脱の修行をしているサンガ(僧伽)にいることが解脱に不可欠です。解脱を志し、解脱の進め方について理解している修行者を善知識と言いますが、そのグループに入って修行を進めることが大切です。下記WEBが分かり易いでしょう。

 僧、すなわちお釈迦様の解脱への道を実践しているグループ(修行者の集団)に所属していると解脱に進む力が得られます。

 力が得られると言うよりも、このグループに所属していないと解脱に向かうことが出来ないと言うべきでしょう。自分の戒となすべきことは、僧の中で見つかることが多いのです。
僧のグループに参加して大切にすると 、心が解脱に向かう力を得られることを知って歓喜を生じます。

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戒取

戒取とは戒に執着(阿含経で「取」は執着のこと)しているということですが、一体どういうことなのでしょうか。

わたくし達は、「貪瞋痴」を出してはいけない、として表面意識で抑え込もうと致しますが、いくら頑張ってみても、どうにもならなくて、挫折感を感じて行き詰まっている方が多いのではないでしょうか。これは貪瞋癡を発生させる根本原因を知らずにいる為で、「貪瞋痴」を生じてしまう脳と心の仕組みを知って、生じる原因となっている心の動きを消すのだ」というのです。原因がわかれば、これを取り除けばよいのです。下記をご覧ください。

 仏陀の原初経典阿含経には「貪瞋痴」というフレーズが存在していません。少なくとも時代の古い原初経典には見つかりません。阿含経では「貪瞋痴」の代わりに「欲恚痴」または「欲念 ・恚念・害念」というフレーズが使われています。この阿含経のフレーズは「貪瞋痴」とはかなり概念が違うのです。この発見によって仏陀の解脱法は今までよりずっと明解で易しくなりました。貪瞋痴から離れられないで困っている人にも明解な指針が説かれています。
「貪瞋痴」のフレーズは、アビダルマや大乗仏教の時代になると登場してきます。「欲恚痴」または「欲念 ・恚念・・害念」はどうして「貪瞋痴」となってしまったのでしょう。
 お釈迦様の時代の「欲」のフレーズは、アビダルマの時代になるとイメージを様々に膨らませて拡大展開され、その中で最も強いイメージである「貪」が採用されて生き残りました。お釈迦様の時代の「欲」のイメージは忘れられてしまったのです。
 大乗仏教における「貪瞋痴」のイメージは、煩悩、すなわち悪い心癖を示す代表的なものです。修行者は「貪瞋痴」から離れようと懸命に取り組んでいます。格闘するように煩悩にたち向かってゆきますが、心はなかなかいうことを聞いてくれません。何年も何年も取り組んでいてもやっぱり離れられない。何故でしょう。
お釈迦様のお答えを聞いて下さい。
「貪瞋痴」を直接消そうと思っても消えません。「貪瞋痴」が生じてくる脳と心の仕組みを知って、この仕組みを消すようにしなさい。
このようにおっしゃっています。
 「貪瞋痴」を直接強引に消そうとすることを、お釈迦様は「戒取」と名づけて下さっています、すなわち、「貪瞋痴」を出してはいけない、このことを「戒」としていて、この戒に執着しているというのです。 
 執着だけでは離れられない、「貪瞋痴」が生じてしまう脳と心の仕組みを知って、生じる原因となっている心の動きを消すのだ、とおっしゃっています。
 原初経典阿含経に説かれた「欲恚痴」または「欲念 ・恚念・害念」がそれです。脳の仕組みを合わせて説いているのです。

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今回は、引用をできるだけ少なくして記事を書いてみました。これで須陀洹の三結(身見、疑惑、戒取)を断じて、天人界を七度往復し、阿羅漢・仏陀になれると説かれてましたが、いかがでしたでしょうか。

皆様方が、難しいとされていた須陀洹の身見、疑惑、戒取についての理解を深められ、ご修行が進みますよう、心よりお祈り申し上げます。合掌

サポート有難うございます。 願はくばこの功徳をもって普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに仏道を成ぜんことを。合掌