コロナで学んだことのひとつ。

自分は、そんなにアウトドアな人間ではない、と思っていた。

週末はキャンプにいかなきゃ気が済まないようなタイプではないし、
いつだって遠出の計画を練ってワクワクしているほど、外出に対してパワフルな人間ではない。
なので、コロナで外に出れなくなっても、生活や仕事に関することを除けば、家にこもること自体はそんなに苦ではないと思っていた。

だけど実際に長い自粛期間を過ごすうち、それは間違いだったと気づいた。
脚本を書こうとアイデアを練り始めた時、びっくりするほど何も思いつかなかった。

本を読んだりネットを見たり、家にいても色々な情報には触れていた。
だけど、それって、ある一つの方向性の情報ばかりに偏っていて、すこぶるバランスの悪い状態になっていたということに、アウトプットをしようとした段階でようやく気がついた。

自分の創作は「普通の日々の中の、ちょっとした事件」からスタートする。
なんてことない日常があって、その中にある些細な凸凹。
その、小さな突起を見つけては、「これは一体なんだろう?」「この後ろには何があるんだろう?」と勝手に妄想を膨らませるところからアイデアを生んでいる。

そしてそれは、自分の生活フィールドから程よく離れているものであればなお良質なタネになる。
自分のことだと、妄想する余地はない。当たり前だけど。

家にこもり、ネットや映像作品にたくさん触れた。知識も色々増えたし、映像を楽しみ、勉強になることもあった。
だけど、これは創作の源泉を満たす材料には、驚くほどなっていなかった。
この期間に得た知識ももちろん無駄じゃない。きっと、物語を膨らまして行く過程においては役立つこともたくさんあると思う。

だけど、創作の一番最初の部分、いわゆる「0→1」において必要なのは、もっと広い範囲の、何気ない出来事だ、ということを身に沁みて感じている。

カフェで、何かの本を読みながら号泣している女の人を見た時、
コンビニで、誰かの資料がコピー機に置き忘れられている時、
道で、地面に落ちたハンカチをじっと見つめている女性がいた時、何かが起こりそうな気がする。

その出っ張りに手をかけると、少し体を持ち上げてみると、次の出っ張りが見えてくることがある。
それが、うまいことつながっていくと、思いもつかなかった景色が見えてくることがある。

今までそんなこと考えたこともなかったけど、コロナの野郎のせいで普通の生活から隔離されて気づいた。

何気ない日々のありがたみ。
当たり前のことが当たり前にあることのありがたみ。
劇団とか、友達とか家族とか、人によっては恋人とか、ペットとか、そういう普通。日常に溶け込んでいる普通は、特別で代え難いものなのだなあとしみじみ。

自分の外に、全部があって、それはとても大事なので、自粛という言葉に振り回されて外との関係性を閉じちゃダメだと。

それはこのコロナな日々で学んだ大事なことの一つかもしれない。

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