手を動かして参加する まさに「お祭り騒ぎ」が川越まつりの醍醐味
川越城下町の中核となった、旧十ヵ町のひとつである高沢町を支えてきた井上家。井上医院の院長を務める井上誠一郎さんは、代々続く井上家の13代目であり、2018年(平成30年)4月からは川越市山車保有町内協議会会長を務める。幼い頃から身近だった「川越まつり」とのかかわり方や、現在における山車の修理などについて伺った。
「除夜の鐘がなり終わってからお参りにいきなさい!」
川越に生まれ育ち、川越まつりの運営にも携わる井上さんは、元町二丁目の山車「山王の山車」の管理を預かる身だ。幼い頃から「川越まつり」に慣れ親しみ、3人の息子さんも町方の曳手や囃子方として、祭りを大いに盛り上げてきた。
井上さん:私の古い記憶として残っている川越まつりは、第二次世界大戦後に復活した子どもの頃のこと。町全体がまだ砂利道で見物客もおらず、町中の人だけでやっていました。
道路は空いているしどこまでも好き勝手に山車を引っ張っていってよかったものだから、ある時などは元町からまっすぐ南下した烏頭坂あたりまで、気づけば約4kmも引っ張っていました(笑)。ついていったはいいが疲れ果ててしまい・・。帰りは山車にぶら下がって、途中歩いてはまたぶら下がって・・と、なんとか戻れてホッとした記憶があります。
喜多町の共和木材株式会社社長である馬場弘さん(川越氷川祭の山車行事保存会会長)、私はその弘さんのお兄さん(次男)と同級生なんです。高校時代はよく、馬場さん宅の製材所の2階にたむろしていました。大晦日、除夜の鐘がなりだすと氷川神社や喜多院へ皆でお参りに回りに行くんです。馬場さんのお母さんに、「お前たち、除夜の鐘と一緒に出ていっちゃダメ。『金が出る』からね。だから鐘がなり終わってからいきなさい!」と言われたのを覚えていますね。
観光客が激増するなか安全な山車の運行に気を配る
大学入試を目指す頃には、いったん祭りから離れることになる井上さんだが、結婚して子どもができたことで、再び祭りとの関わりが強くなり始めた。2002年からは川越まつり協賛会会員として、祭りの運営にも深く携わるようになった。川越まつりは、一年を通してどのように計画され、進められるのだろうか。
井上さん:祭りの準備が本格的に始まるのは、4月の町内総会。「今年は山車を出すか否か」といった大きな決めごとのほか、たとえば壊れている提灯を何個修理するか、などの細かいことまでを決めていきます。
山車は、毎年祭りに出すわけではありません。現在、各町内や市が保有する山車は29台ありますが、その年に山車を巡行するかどうかは、町内での積立や市からの補助金などを鑑みて決定します。たとえば2019年(令和元年)に運行した山車は18台。すべての山車が勢揃いするのは、10年に1度ですね。
曳手の確保や職方、お囃子などを頼む際には、町内会とは別に実行委員会をつくります。自治会長さんがトップを務めることが多いですが、人員を集める担当、会計担当、お礼の品づくり担当などを決める。たとえば、人員担当は祭りの日程が決まったら町内を回って日にちごとの参加人数を把握し、その人数によって警護方、手古舞、子供衆、祭礼役員といった役割を振っていくのです。
運営側としては「参加者も来場者も安全に楽しんでもらう」が一番の目的であり、大きな課題ですね。特に来場者は近年急増し、100万人近くにのぼっています。山車は大きくて重量があるので万が一倒れたら大惨事になりますし、山車を傷つけられても困ってしまいますからね。
川越市山車保有町内協議会ではその点を重視し、山車を安全に運行する「安全運行委員会」を作ろうという話になりました。山車の運行責任者は「宰領」なので、安全運行委員会の名称を「宰領会」と改め、今年宰領になる人、あるいは宰領を目指す人で集まってもらいます。山車の曳き方や避け方を皆で勉強する会です。
色が違ってしまえば、それはもう川越の山車ではない
元町二丁目の「山王の山車」は1871年(明治4年)に造られた三ツ車で、埼玉県の有形民俗文化財に指定されている。人形は日吉神社の祭神である山王権現をかたどったもので、江戸の名工・仲秀英(都梁斎)作。井上さんは山車保有町内会協議会会長という立場からも、伝統ある山車を守り続けることに注力している。
井上さん:山車を巡行させれば山車はきしみ、車輪はすり減る。100年経てば中の骨組みも緩んでくる。山車を造る職人は飛騨高山に多いため、修理はそちらに出します。修理の際には前もって木材を確保してもらわねばなりません。山車をトラックで運送するにも莫大な費用がかかります。
ある時京都の職人に修理を頼んだら、車が黒く塗られ、匂欄(こうらん:欄干)などの色味が京都の祇園祭の山車の鉾と同じになってしまったことがありました。こうなってしまったら、川越まつりの山車ではないでしょう。色を全部落とし、塗り直してもらったことがあります。
現在のところ、川越には29台も山車があるのに、川越の町中では山車が直せないことに課題を感じています。山車を維持するということは、伝統そのものを受け継ぐための骨折りです。とてもとても一人ではできないので、皆で力を合わせてやれるようになりたいですね。
川越まつりは理屈抜きに楽しくて仕方がない
コロナ禍により、川越まつりは2020年(令和2年)から2年連続で開催が中止された。井上さんによると、近年で中止の記録が残っているのは2回だけ。1981年(昭和56年)に中止した際には、翌年の川越市市制60周年に精力を注いだ。もう1回は、昭和天皇の体調悪化で自粛した1988年(昭和63年)だ。
井上さん:まさか、コロナで中止になると思ってもみませんでした。川越市民にとっては、川越まつりはあって当たり前。祭りが終わってすぐに行う反省会で、すでに翌年の祭りの話をしているくらいですから(笑)。
私の3人の子どもたちだけを例にあげても、みんな川越まつりが大好き。長男(龍也さん)は曳手や警護、次男(誠也さん)は踊り、三男(和也さん)は囃子をやっています。特に次男は、一時期静岡県に赴任していた時期でさえ「10月になると、祭りの血が騒ぎ出す!」と言って、祭りに合わせて静岡からわざわざ帰ってくるほどでした。
運営に携わるようになって伝統を守ることに力を注ぐことの多くなった今でも、やはり川越まつりは理屈抜きに楽しくて楽しくて仕方がない。やっぱり見て楽しむだけじゃもったいないんですよ。どんなにヘトヘトになるのがわかっていても、手を動かして、参加してないと。まさに「お祭り騒ぎ」です。