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古きを捨て新しきを入れる その繰り返しが「伝統」になる

喜多町で共和木材株式会社の社長を務める馬場弘さんは、川越氷川神社氏子総代会の責任役員を務める。2021年(令和3年)からは川越氷川祭の山車行事保存会会長に就任した。「川越蔵の会」を通して、蔵の連なる町並みが美しい川越のまちづくりに大きく貢献した人物だ。馬場さんに、川越まつりや川越の町の変化について伺った。

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時代に合わせた川越まつりの変化

川越まつり(川越氷川祭)は1648年(慶安元年)、初代川越藩主を務めた松平信綱が、川越城下に賑わいをもたせたいと祭りを推奨したことから始まっている。総鎮守の氷川神社に神輿や獅子舞、太鼓などを川越氷川神社に寄進し、1651年(慶安4年)に初めて神幸祭が行われた。

やがて、松平信綱が城下町の基礎を築いた「旧十ヶ町」に住む町民が中心となり、山車や屋台で神輿のお供をするようになる。城下町の発展にともない、絢爛豪華な山車祭礼へと発展していった。1844年(天保15年)に描かれたとされる「氷川祭礼絵巻」には、神幸行列を先頭に旧十ヶ町(*)の山車の行列が描かれている。

*旧十ヶ町:高沢町(現・元町二丁目)、江戸町(現・大手町)、本町(現・元町一丁目)、南町(現・幸町)、喜多町、志義町(現・仲町)、多賀町(現・幸町、大手町など)、上松江町(現・松江町二丁目)、鍛冶町(現・幸町)、志多町

川越氷川神社の祭礼である川越まつりは、馬場さんが体験する中でどのように変わっていったのだろうか。

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馬場さん:旧十ヶ町から始まった川越まつりは、現在29町内にまで増えました。昔は、山車とともに参加したい各町内は「川越氷川神社の氏子になって祭りに参加します」と誓約書を書いて出したものです。現在ではその慣習がなくなってしまいましたが。

また、現在の川越まつりの費用は行政の補助や町内の積立で主にまかなっていますが、以前は町内ごとに旦那衆がいて、祭りに関するお金はすべてもってくれていました。

喜多町でいうと、初代川越市長を務めた、十代目綾部利右衛門さん。川越藩御用達の豪商で、銀行の設立や鉄道会社の発足、文化事業への支援など、川越の発展に代々尽くしてきた家柄の方です。それだけ威厳があり、お金もあり、統制も取れて職人を差配できる力があったんですね。そういった方々が各町内にいらして、彼らがお祭りを先導してくださっていたんです。

ほかに大きく変わった点は、開催日程でしょうね。お祭りの日程は本来、川越氷川神社の秋の神事「例大祭」毎年10月14日に行われるため、その日を中心にした10月13日〜15日なんです。

でも、山車の運行に一番苦心するのが曳き手の確保。ほかにも事前に山車を組む、会所をつくる、商店街の軒下や街道筋に沿って紅白の飾り幕をかける(軒端揃え)・・とにかく準備が大変。2005年(平成17年)に「川越氷川祭の山車行事」が国指定重要無形民俗文化財になった折に開催日程について議論を交わし、現在の「10月第3日曜日とその前の土曜日」として固定されました。

お祭りの内容に関しては、最初は江戸祭を参考にしていましたが、高張提灯、拍子木、手古舞など、川越流としてだいぶ変化したと思いますよ。お金を出していたお大尽の鶴の一声で決まることも多々あるので、町内ごとにしきたりが違ったりもします。

先触れ方、宰領などの振る舞いも少しずつ変わっていますね。たとえば、自分のところの山車行列が別の町内エリアに入る際、いまは若い人がこれから通る町内の会所へ先回りし、「通らせてください」と挨拶をしています。やり始めたのは数十年前からではないかな。

時代に合わないものは、思い切ってなくし新しいやり方を取り入れる。そういったことは常にやっていく必要があると思います。凝り固まったやり方では、祭りそのものが廃れてしまいますからね。

そういったことを繰り返しながら、それでも残ったものが「伝統」になる。伝統とは私たちが「つくるもの」であり、「未来への対応をどうしていくのか、常に考えていくもの」だと私は思います。

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祭りの日、女性は家の中の一切を取り仕切る

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川越まつりでは、男性は山車や囃子に参加したり、各々の役について町中を練り歩くことが多い。女性はどんな過ごし方をしているのだろうか。馬場さんの奥様、恵子さんに祭りのエピソードを伺った。

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恵子さん:私は上福岡(現・ふじみ野市)出身で、母の実家が川越なんです。習い事はみんな川越に通っていました。鉄道で移動していたのですが、昔は30分に1本くらいの列車運行が、川越まつりとお大師様(川越大師 喜多院)のご縁日である1月3日には臨時列車が出たと記憶しています。

基本的に、川越の女性は表に出ることがほとんどありません。男性がずっと外出しているので、家を守らなければなりませんから。当日はお赤飯を炊いてお煮しめをつくったり、親戚のおもてなしをしたりしていますね。家の近くを山車が通ったら皆で一斉に見に行ったりはしますが、ある程度眺めたらまた家に戻っておもてなし。旦那は外で務めを果たしているので、家ではなにもしません(笑)。

祭りに向けては、子どもたちにどんな衣装を着せようか考えたり、誂えたりします。女子は手古舞(祭礼において男装した女性)姿で山車行列に参加しますので、以前は歌舞伎に登場した刺繍がしてある真っ赤な手古舞の着物を着せていたことがありました。

お祭りのときの着物は(袖口の下を縫い合わせない)広袖ですが、いまは袂(袖の下にある袋状に縫い合わせた部分)のある着物が多いですね。昔は子どもに着せる衣装も奮発して、お祭りのたびに逐一着物をつくっていたのではないでしょうか。

町内おそろいでつくる着物は正絹でしたが、いまはポリエステルの洗える着物にして扱いやすいものになりましたね。七五三の時につくった着物をお祭りの時にも着て、たすきをかけることで祭り使用にするスタイルもよく見かけます。時代とともに衣装も変わっていくのだなと思います。

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「蔵造りの町並みへ」の理解は20年以上かかった

川越まつりでは、見事な山車や行列の華やいだ雰囲気、囃子の競演に目を奪われがちだ。しかしそれらが最高に映えるのも、川越の蔵造りの町並みあってこそ。

いまや「日本三大蔵の街」のひとつとして観光客のあふれる川越だが、1970年代後半は訪れる人も少なく閑散とした町並みだった。大正時代に鉄道の駅ができたことで人の流れが大きく変わり、商業の中心街が駅周辺へと移っていくにつれて、城下町の中心地は寂れていく。

この状態をなんとかしたい。その一心で、住民や商店街、行政らが一体となって活性化につとめてきた。

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馬場さん:川越は現代に近づくにつれ衛星都市化し、道路やインフラ整備、学校の設立というハードの対応が急務になった。「まちの魅力をつくる」ことには、目を向ける余裕がなかったんですね。

私が川越のまちづくりに目を向けるようになったのは、商工会議所と青年会議所に加わった30歳代頃からです。まちづくりに成功している、全国の様々な地域に出向いて話を聞いたり勉強したりしました。その中で、「川越にはいい蔵がある」という明るい要素が見つかったんです。文化財の保存として蔵を守り、景観を整えていこうと。川越まつりももちろん地域の誇りですが、祭りは年に1度しかありません。

1983年(昭和58年)に「川越蔵の会」が発足され、私も尽力しました。ちょうど東京の大学でも蔵の利活用について建築専門家が研究するに当たり川越を訪れ始めたことも追い風になりました。

そうはいっても、前・川越氷川神社宮司の山田勝利さんと蔵や景観保存の活動をしていた頃は、「蔵の街」の重要性や良さを説明したり、講習を開催したりしても、地元の人はほとんど興味を示しませんでした。蔵の持ち主でさえ、子どもの時から川越に住んでいれば当たり前の風景でしたから、取り立てて守るべきものとは考えにくかったんでしょうね。

地道に活動を続け、修繕の際にはある程度昔の伝統的な蔵の形にしてもらうようチェック項目を考えたり、最終的には行政も巻き込んで蔵の修繕に補助金を出してもらえるようにしたり。そこまでたどり着くのに、20年はかかったなぁ・・。

現在も、若い人たちを含めた様々な人が、町並み保存や川越まつりに関する勉強会をつくったりしてまちづくり活動を続けています。それぞれの立場で次の世代の人たちが考えて、行動してくれるのは本当に喜ばしいですね。我々がいるうちは、これまでの経験・知見を踏まえてどんどんカバーやフォロー、応援をしていきたいと思っています。