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埼玉の養蚕信仰と神社の関係

川越氷川神社では敷地内の畑で紅花栽培に取り組み、採れた紅花で埼玉県産の絹糸を染めております。県と絹・養蚕の歴史は長く、始まったのは3世紀末。今回は、埼玉県神社庁 元学芸員の高橋寛司さんの解説による、埼玉の養蚕信仰と神社の関係をご紹介させていただきます。

日本における絹織物の歴史を紐解くと、古くは日本列島にいた民族・住民(倭人)の習俗や地理などについて書かれた中国の歴史書『魏志倭人伝』に蚕を飼い、絹織物を作っていたことが記されています。

「禾稲(かとう)、紵麻(ちょま)を種(う)え、蚕桑緝績(さんそうしゅうせき)し、細紵(さいちょ)・縑緜(けんめん)を出す。」ー稲や麻を栽培して布を織り、真綿を作り、桑を栽培して蚕を飼って糸を紡ぎ、その絹糸で絹織物を織っている、と。239年には魏の明帝に卑弥呼が国産の絹を献上した記録も残されています。
 
埼玉県の養蚕とのゆかりも長く深く、弥生時代の3世紀末まで遡ります。大陸から養蚕機織の技術が日本に伝来、知々夫彦命(ちちぶひこのみこと)が国造として秩父に来任、養蚕と機織りを教示したことから始まったとされています。
 
しかしながら、かつては埼玉県西部、北部地域を中心に県内全域で盛んだった養蚕も、現在は11戸(令和4年時点)を残すのみとなってしまいました。
 
「さいたま絹文化研究会」は、埼玉の蚕糸・絹文化を次代に伝えるための方法を模索、実践するための場として秩父神社・高麗神社・川越氷川神社が合同で発足させています。
 
会報誌「さいたま絹文化研究会通信」は、養蚕・糸・絹などにまつわる研究や活動に深く携わる方々よりご寄稿くださっています。今回はその中から、埼玉県神社庁 元学芸員の高橋寛司さんによる「埼玉の養蚕信仰と神社」の関係についてお寄せいただいた内容をご紹介させてください。

秩父神社と絹

12月1日から6日には、 秩父神社の例大祭が行われます。 中でも3日の夜に行われる神幸祭は 「秩父夜祭」 の名で知られ、お旅所に向かう本社神輿に6基の屋台、 笠鉾(かさほこ)が供奉(ぐぶ)し、 秩父屋台囃子の轟きと花火の饗宴に、 毎年20万~30万人もの観光客が訪れます。

秩父神社は、第10代崇神(すじん)天皇の時、 八意思兼命(やごころおもいかねのみこと)の子孫にあたる知々夫彦命(ちちぶひこのみこと)が秩父国造に任じられ、 「大神(おおがみ)」 を拝み祀ったことに始まるとされ、かつての秩父国の総鎮守であり、 『延喜式』神名帳に記載される武蔵国内の古社として、さらには武蔵国六所の宮の一社として挙げられる格式を持つ神社です。
 
また、 鎌倉初期に秩父平氏が崇敬した妙見菩薩が習合されて以来、 関東武士の妙見信仰の源となり、 明治維新までは 「妙見宮(みょうけんぐう)」と称していました。

その例大祭の基底には、旧暦の11月 (霜月)におこなう稲作農耕儀礼の収穫感謝の祭りがありますが、 江戸時代になってこの祭りを絹産業振興の祭りとして変容させたのが、 3代将軍徳川家光の側近、 幕府老中で忍(おし)藩主の阿部忠秋でした。
 
当時の阿部忠秋としては、 幕府老中として江戸を発展させるために江戸地回り経済を形成させ、 また、 幕府重臣としての経費を捻出するためにも藩の経済力を高める必要がありました。
 
その一環で、 寛文3 (1663)年に天領から忍藩領になった秩父領の振興政策として、秩父大宮郷を在郷町とし、藩の行政出張所の陣屋を置いて民政に当たらせ、 在郷商人 (仲買・問屋) により、毎月1と6の付く日に行う六斎市を認めて絹市を立てさせ、藩の保護において絹取引の振興を進めました。
 
さらに、江戸上方との取引を前提として、 秩父領の特産である絹を専門に扱う市を周辺の絹市と対抗させるためには、 介在する仲買商人たちをより多く集める呼び物が必要でした。 そこで忠秋が採った施策が秩父妙見宮例大祭を藩主導の祭礼に変化させ、郷内各町に屋台笠鉾などの附(つけ)祭りを負わせて大祭礼化を図り、普段の5日おきの市ではなく、6日間通しの大市 (たかまち・妙見市)を開かせました。
 
『忍藩秩父領百姓年中業覚』 宝永6 (1709) 年には、 「十一月三日より六日迄妙見祭礼にて国々商人入込売買仕候」 と見えるほか、 秩父神社蔵 『公用日記』 の寛政12 (1800)年10月 「妙見祭礼屋台許可願」の冒頭に「当社妙見宮神事之義は往昔より致来候処、 祭礼屋台之義は寛文年中之頃より相始候由、 其後無休年右祭礼屋台有之候得ば、当社領之者共は不及申郷中一統大益に罷成、大勢渡世之営至而罷在候」 とあるように、「祭礼屋台」(おそらく現在の形態の神幸行列と屋台笠鉾の付け祭りの原形)が寛文年中に始められ、 約40年後には盛況の様子が伺えます。
 
その後、秩父の絹産業は幕末さらには明治中期に急激に発展し、 神幸を供奉する山車祭礼の絢爛豪華さを増して、 現在に続く我が国有数の曳山祭の一つとして賑わいを見せています。
<埼玉県神社庁 元学芸員 高橋寛司>

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