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すぎやまさんのこと、ドラクエのこと

レトロゲーム情報サイト『coPen』の記事を読んでいたら、『すぎやまこういち』と『ドラゴンクエスト(以下、ドラクエ)』との出会い、というタイトルがあった。
気になったので思って読んでみた。出典の中に自分が関わっていた雑誌があり、しかも実際対談に立ち会い編集した記事だったので思わず懐かしくなった。たまにこういうことがある。
 
その記事は、エニックスで『ドラクエ』のプロデューサーだった千田さんとすぎやまこういちさんの対談だった。収録場所は確かレストランかホテルの会議室だったと思う。
 
話の内容は、今では誰でも知っているような以下のエピソードだ。
エニックス発売のPCゲーム『森田の将棋』をすぎやまさんがプレイし、ゲームソフトに同梱されていたアンケートハガキに感想を書いた。それがエニックスに届き、千田さんは著名なすぎやまさんのことを知っていたので、何かいっしょにできないかと考えていた。
その後『ドラクエ』の開発が進んだところで、千田さんはすぎやまさんのことを思い出して電話をする。それが『ドラクエ』の曲を手がけるきっかけになった。
 
しかし、『ドラクエ』の音楽はすでにプログラムを担当していたチュンソフトが作っていた。社長の中村光一さんは当然千田さんの案に反対した。中村さんは、ゲーム業界では学生ベンチャー企業の元祖のような人で、大学2年生のときに調布のワンルームマンションでチュンソフトを起業している。
 
千田さんとすぎやまさんは、チュンソフトで中村さんを交えてミーティングを行った。当時すぎやまさんは50代半ば、中村光一さんは20代前半。親子ほど年が離れている。
すぎやまさんは有名な人かもしれないが、当時10代がユーザーの中心だったゲームのことをどれだけ知っているのか、中村さんは半信半疑だったと思う。
で、実際に会ってみて、すぎやまさんが想像以上にゲームマニアだということがわかり、『ドラクエ』の音楽をお願いすることになる。
 
ここでひとつの伝説が生まれる。『ドラクエ』のメインテーマ『ドラゴンクエスト序曲』をすぎやまさんが5分で作曲したという話だ。そのことがずっと気になっていた。
数年前に中村さんと久しぶりに会う機会があった。話すうちに、すぎやまさんとの出会いの話になった。記憶が間違っていなければ、そのとき中村さんは、『ドラクエ』のほとんどの曲は1週間で作ってもらったと話していた。
 
それから35年経った2021年。7月に東京オリンピックが開催された。その開会式の最初の選手入場曲が『ドラゴンクエスト序曲』だった。中村さんは、そのとき泣いたと話していた。
すぎやまさんは、その年の9月に亡くなった。
 
1980年代ゲームクリエイターの多くは20代だった。彼らは、今までにない新しいエンタティメントを作っているという自負があった。しかし、当時ゲームは子供のおもちゃで、しかも子供に悪影響を与えるという大人が作った社会的風潮もあった。すぎやまさんはすでに音楽業界の大家だったが、こうした環境下ビデオゲームという新しい業界に参入した。とても異例のことだった。
『ドラクエ』はこうした人たちが手がけて世に出ることになり、その後多くの人に感動を与えていく。

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