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自由を手放した千葉高生へ

森谷先生のブログ

親愛なる千葉高生の皆さん

はじめまして。知ってる方はこんにちは。

私の母校である県立千葉高校で教鞭をとられた森谷先生という方が
がご逝去される前に書かれたブログを先日拝見しました。

ぜひ、私の駄文を読む前に一度読んでみてください。


おかえりなさい。

「千葉高では、職員・生徒一人一人の考え方が大切にされます。」

我が愛しき教え子の皆様方へ

現在、この言葉が「嘘偽りなく」「この言葉のままの意味で」実現する世界は存在するでしょうか?

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この駄文は私が森谷先生のブログを読んで感じた事と千葉高を卒業してからこれまでの人生を振り返って思うことの書き散らしです。ですが最後に変なこと言い始めます。長尺なのでおいしいコーヒーでも淹れてからどうぞお読みになってください。
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千葉高を卒業してからの違和感の正体

もしあなたが千葉高生なら、千葉高を卒業してから違和感をお持ちではないですか?息が詰まる、自分の行動を見えないなにかが縛っていくような感覚です。

私はこの言語化できない違和感を持って人生を歩んできたんですが、大学、大学院、企業への就職を経験し、それが大きくなっていきました。

この違和感の正体が何だったのか。

ありがたいことに森谷先生が丁寧に言語化してくださっています。

「何かから守られている。しかも、徹底的に。」

4.職員・生徒を守護する千葉高システム

ここまで読んで「なんだ、千葉高では掃除しなくてもいいのか。じゃあ、しないことにしよう」と、もし思った在校生がいたらその人に一言。

「あなたは千葉高の自由というものを全く理解していないし、その自由を享受する資格もありません。」

なぜでしょうか?

自由と責任の関係を端的に表す次の話を思い出してください。

「千葉高教師は、他から批判される心配なく、生徒にとって1番良いと思う授業を全く自由にすることができる。ただし、授業で起きることは全てその担当教師の責任である。」

換言すると、「他から一切影響されず、自分の選択として行動するから自由であり、それは完全に自分の責任」なのです。「自由」という言葉は、そもそも「自ずからに由る」(おのずからによる)」という意味です。責任転嫁は「~のせいで自分はこうする」ということですから、あなたの行動はあなた以外の何かに支配されているわけで、そこに自由はありません。

話を元にもどすと、もしあなたが「千葉高生は掃除をしてもしなくともよい」と言う誰かの言葉を元に掃除をしないことにするならば、それは自分が掃除をしないことを自分以外の人のせいにしています。つまり責任転嫁であり、他律です。そこに自由はありません。

このように自由と責任は、紙の裏表のような関係であって、決して切りはなすことはできません。

たくさんの人がいろいろなことを言います。そしてあなたはそれらに耳を傾けることが必要なこともあるでしょう。しかし、最終的には誰が何を言ったかなど全く関係なく、他の誰のせいにもせず、あなたの決断として、あなたは自分の行動に全責任を負って行動して初めて自由が得られるのです。それが「自ずからに由る」千葉高の自由です。

また、千葉高システムは、管理職と他の職員集団との信頼関係、職員と生徒との信頼関係の上に構築されています。信頼関係を大前提としたシステムなのです。だからこそ、生徒は職員の信頼を裏切らないように自主自律が絶対条件となりますし、一般職員は、管理職の信頼を裏切らないように職員内での自主自律が絶対条件になります。

実際に私自身も、千葉高システムについてよくわかっていなかった1~2年目くらいは、管理職からではなく、先輩の教師から指導していただいたり、時には先輩の先生お二人ににわざわざ呼び出されて厳しいお叱りの言葉を頂いたこともあります。これも職員間の自主自律の一環です。

ただ、そのお叱りの意図は、千葉高システムを維持することであり、その目的は「生徒に最高度の授業を提供する」ためであることは私にとって極めて明確でしたので、なんの抵抗もなく素直に耳を傾けることができました。

また、私は千葉高在任中によく次のようなことを生徒に話しました。

「生徒が何か失敗をして教師に注意されて行動を改めるというのは他校ではごく当たり前のことです。権利と言ってもよいでしょう。でも、それは千葉高生にとっては当たり前ではありません。

なぜかと言うと、千葉高の職員は千葉高生の大人としての良識を信頼しており、教師に注意される以前に自分で考え自分で自分の行動を修正できることを信じ、求めているからです。だから、千葉高生は教師に注意されるようでは、千葉高生としてまだ至らないといわざるを得ないのです。」

厳しいですよね。でも、皆さんの先輩方が、職員からのそういう信頼にきちんと応えてき続けてくれたからこそ、今の素晴らしい自由な千葉高校があります。

13.自主自律 我が愛しき教え子の皆様方へ

うーん。何度読んでも明快な文章です。きっと聡明な方だったんだろうなあ。ここでは敢えて省略なしで引用しています。私の拙い説明中にきっと読み返したくなると思うので、ぜひご活用ください。

閑話休題。

私の違和感の正体は、私が属した共同体の(大学や企業)信頼関係の喪失と他責による自由を手放したことによる息苦しさだったのだと気づきました。

さらに抽象化すれば、千葉高の空気が失われたことによる酸欠症状です。

追って説明します。ピンとくる方は蛇足でしょうし、3章分飛ばしても構いません。

共同体の信頼関係の喪失

私が千葉高を出て進学したのは東京工業大学という理系の大学でした。
変な人間が多かったとはいえ、千葉高で感じた、

「私とあなたの考え方は違う。でも、そのままのあなたを尊重します」

「我が愛しき教え子の皆様へ」へのメッセージを読ませて頂いて

という個人を尊重する空気は千葉高ほど濃くなかったように思います。しかし、まだその空気は残っていたように思えますし、その空気が濃いところで気が合う仲間とも出会えました。

しかし、卒業をして企業に勤めてみたら、その空気は劇的に薄くなりました。他人と考え方が違えば否定し、ひいてはバカにするような淀む空気がそこにはありました。ここでは変な行動をすれば周りから好奇の目で見られ、周りに合わせなければならない。そんな空気が充満していました。

このような中では信頼関係も起きず、誰かがズルをするということも起きます。誰かがズルをすれば不満が出る。不満は信頼関係を壊していく。そうした中で、誰かが悪いことをしないように不自由な規則が生まれていく。信頼関係があれば問題ないことを規則で縛り、会社は不自由の巣窟になっていました。

千葉高システムは生徒が自由でいたいから自主自律を守り、それが教師の信頼関係構築へとつながります。信頼関係があれば教師も生徒の意思を最大限尊重することができる。意思を尊重してくれる教師と生徒の信頼関係がさらに強まる。信頼関係が強まれば生徒はその信頼を崩すまいと自主自律を守るモチベーションになる、という正のスパイラルが千葉高システムにはあります。

ですが、会社の場合は真逆のスパイラルに陥っていて修復はできないほどになにか大きなものを感じました。それを修復するための信頼関係は残っていませんでした。

自由を手放した私

再度、私が千葉高を卒業してからを振り返ってみましょう。

大学に入ってから、千葉高で好き勝手にやっていたことが他人の目がどうも気になり、あまりしなくなりました。
大学院からさらに、就職活動と論文研究をやるべきものとして行い、半ば苦悩もありながら、卒業しました。
企業に就職したら、辞書のような就業規則を持った共同体なわけで、禁止事項や規則を定められ、日中行うことは多くの場合、自分では決められず、やりたくないことをやっていました。

社会に出るとは、大人になるとは、そういうものだ。もう子供ではないのだから当然。自由を手放して社会人としてお金を稼いで働かなくてはいけないから、自分の好きなことができなくても仕方ない。世の中なんてこんなもんだ。大人はそう言うかもしれません。私も若輩ながら大人ですが。

本当にそうなのでしょうか?なぜ?

常識を疑う変なやつだから私は中学校で変人扱いされていたのではないでしょうか?なぜ合理的な根拠も提示せず誰かに教えられたものを鵜呑みにしてるんでしょう?

一旦、中学生の頃に先生なんもわかってないわwと教師のことをバカにしていたひねくれ千葉高生に戻ってみましょう。同級生を論破してうざがられていたあの頃に。

森谷先生がおっしゃるように、自分がその意見に納得していないのに「○○さんが言ったから、世間では○○が大多数の意見だからこうする」これは他責であり、他律です。完全に責任転嫁です。これでは千葉高システムの自由は手に入りません。自分の意志決定を自責にしない以上、自由を享受する資格はありません。

もちろんこれはすべて自戒の言葉です。自分で書いて自分で反省しています。

私は千葉高を卒業してからこれまでに、多くのことを誰かのせいにして、
自由を手放してしまったのではないでしょうか?
忙しい時間の中で理想の未来を考えるのを諦めて、誰かの言うことを聞いてないか?その主張する人は私の未来のために言っている人か?それとも自分の利益のために言っている人か?根拠は?

自分で責任を持たないことはラクです。そして自己責任というのは非常に怖い言葉です。失敗しても自己責任。自分のせい。誰も守ってくれない。自分のやりたいこと目指してやったって失敗したら人生終わりだ。そんな恐怖で、やっぱり誰かのせいにしたくなり、自由じゃなくても誰かのいうことを聞いておこうとなっていました。

千葉高の空気

2つ前の章で空気という字を太字にしていたのに気づかれたでしょうか。

実は私も書いていて気づいたのですが、私が感覚的に空気と表現したものを森谷先生も同じように表現していました。

千葉高システムの高い意図が創りだすこのような千葉高の素晴らしい理念は、まるで空気のように千葉高全体に行き渡っています。多くの千葉高生たちは、それをまるで呼吸するかのごとく全く自然に吸収していたようなのです。

「我が愛しき教え子の皆様へ」へのメッセージを読ませて頂いて

どうやら私は知らないうちに個人を尊重する千葉高の空気を吸って生活し、社会に出てだんだんと千葉高の空気のないところで酸欠した魚のような状態になっていたようです。

ふと、空気というのをキーワードにback numberのある歌詞を思い出しました。

まぁいいやが増えたのは 大人になったからじゃなく
きっと空気の中に変なものを
俺らが考え過ぎんのを よしとしない誰かさん達が
混ぜて垂れ流しているんだろう

 「青い春」back number https://www.uta-net.com/song/136444/

この歌詞も千葉高を出てからの大人になるまでの、千葉高の空気を失って苦しくなっていく様子を的確に言い表している歌詞だなと感心しました。ぜひフルで聴いてみてください。色んな歌詞が上の章とリンクしてきます。

しかもこの曲どうやら「高校入試」というドラマの主題歌だそうです。なんだか考えさせられます。

脱線ですが、「歌は世につれ、世は歌につれ」という諺がありますが、多くの人の共感を得ることで歌が有名になるのであれば、逆に時代にヒットした歌詞を調べていったら当時の多くの人が何を考えていたのかも分かる、そんな研究とかあったら面白いですね。

社会人はやりたいことをしてはいけない?

ここで一つ考えたいことがあります。社会人はやりたいことをしてはいけないのか?なぜ?

常識を疑う変人思考を取り戻してみると妙です。

例を挙げましょう。

私がやっていて辛いことを仕事だと割り切ってするのは当たり前。大きな企業にいれば安心だから。なぜ安心なのか?終身雇用の限界が来ていて、経営者が流動化促そうとジョブ型に契約を変更しているのに?人手不足で人よりも安くAIで仕事が代替できそうなのに?確信できる根拠はどこ?

独立して自営業やスタートアップで起業なんかできるわけない。どうして?日本の99パーセントが中小企業なのに?ベンチャーキャピタルや銀行、国がスタートアップに出資しているし、どうも今後は増える計画なのに?

大企業のほうが給料が多くもらえる?どうして?大卒で月20数万しかもらえないのに?家庭教師のアルバイトの時給のほうが良いのに?

キャリアが傷ついたら今後に響く?どうして?キャリアアドバイザーが言ってたから?根拠は?そもそもキャリアが傷つくってなに?

もちろん、裏返せば、反対のことも言えます。

好きなことを仕事にすればいい。なんで?好きなことだけをほんとに仕事にできる?飽きるかもしれないし、そしたら仕事はどうするの?そもそも私の好きなことに社会の需要はあるの?

よくみる言説の断片です。すべて一見ああ確かにとなりますが、よく見ると、根拠となるデータも情報源もあやふやです。
大事なのは自分で納得するまで調べて根拠を出して、自分の意見を出すことです。(でも皮肉にも社会人には腰を落ち着けて考える時間がなかなかありません。)

社会人が自由になるには?

千葉高システムに則れば、社会人が自由になりたいなら答えは明白でした。

たくさんの人がいろいろなことを言います。そしてあなたはそれらに耳を傾けることが必要なこともあるでしょう。しかし、最終的には誰が何を言ったかなど全く関係なく、他の誰のせいにもせず、あなたの決断として、あなたは自分の行動に全責任を負って行動して初めて自由が得られるのです。それが「自ずからに由る」千葉高の自由です。

13.自主自律

自分の決めた道に自分で責任を持つ。すると自ずと間違った選択をしたくないので人間は調べます。根拠を調べ、対立意見を調べ、裏付けるデータを調べ、仮説を立て検証をします。

それを踏まえて自分が正しいと思える道を決定します。

そして、自分が下した決断が間違ってないと思える論理的な根拠が常識や世間体に負けそうになる自分の心を支えるのだと思います。

自ずからに由る。

千葉高の自由を失ってもう手に入らないと諦めていた自由はずっと字の通りただそこにあったのでした。

もう一度まとめると、私が千葉高を卒業して感じていた違和感や不自由の空気は、自分の行動を誰かの責任にして、”自由”を手放した結果でした。

そしてそれは、千葉高システムの守りから離れ、常識や世間体に晒され、少しずつ疑うことをやめて鵜呑みにしたことが原因でした。

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次は話急展開パートです。手すりや吊革におつかまりください。🚃
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私が会社を休んだ話

なんで社会人が~なんて話してるんだ?と思ったそこのあなた。なかなか鋭い。さてはセンター国語(死語)の点数9割越えだった方ですね?

実は私、企業に就職して2年ほど経ったある日、会社を休みました。

突然体の調子が悪くなり、メンタルクリニックへ通院、適応障害で自宅療養を余儀なくされました。

適応障害っていうのは、うつ病の親戚のようなものです。正しい定義は調べてください。

やりたくないことやって心身に影響が出たというのが、原因と結果なんですが、ともかく治るまで休むことになったわけです。

療養中というのはクリニックの精神薬を飲んで寝てを繰り返します。漠然とした不安感、罪悪感みたいなものが夜寝る前などに襲ってきます。そして、将来のことなどを考えて不安になったりします。

もう私のキャリア終わりだな。とか。会社の皆に申し訳ないな。とか。会社に戻ってもやりたいことないしな。部長怒ってるかな。とか。でも転職してもなあ。そもそも一度休職した奴雇いたくないだろう。とか。起業する?無理だろう。とか。

ネガティブな情報の海を彷徨うクラゲのような時間が続くわけです。言わずもがなお勧めしません。仕事が辛いと思ったらすぐに会社の健康窓口とか労働組合にチクっちゃいましょう。あなたの健康を害して働く価値のある労働はこの世にありません。

そんなクラゲ生活も半年とかやっていると少しずつ変化します。なんか違うことしてみるかとなってきます。薬が効くのか脳が飽きてくるのかは定かではないですが。

私の場合はYoutubeを見るようになりました。すると色んな情報が入ってくるわけです。皆さんが働いている中、時間は有り余るほどあったので、色んな動画を見ました。

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次は私の精神回復パートに入ります。なんじゃそりゃ。
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好奇心と体調の回復

ある日脳内物質のドーパミンに関する動画を見ました。

動物が何らかの報酬を得る際に脳に放出される物質です。
これが放出されると人間であれば幸福感や快感みたいなものを感じます。ギャンブルで勝ったときに脳汁が出ると言う表現がありますが、その脳汁です。(実際には汁ではないと思いますが)

ドーパミンは予測報酬誤差に反応することが知られているようです。
これくらいもらえるだろうなという予測と実際にもらえた報酬の誤差にドーパミンは大きく反応するというもので、

わかりやすく言えば、人間は100%当たることがわかっている確定ガチャよりも1%しか当たらない確率のガチャが当たった時のほうが嬉しいということです。

確かにそうだなと思ったのと同時に、予測報酬誤差の観点で言えば、例えば会社で賃金が年齢によってほぼ決まっている現状とかベースアップで数千円しか上がらないという現状働き手にとって嬉しくないのも当然だよなとか、会社生活で予想外の報酬みたいなもの全然用意されてないよな?そしたらうつにもなるわ、とか新しい視点が見えてきました。

さらにビジネスの観点で言えば、消費者がドーパミンを出して快楽を求めるのであれば、予測が期待を超えていかなければいけないはずだから、同じものを作っていてもいずれ限界が来る。市場が成熟したら競合他社も増えて、売り上げを奪い合うのに、このまま同じ商品だけ作ってていいのか?長期的に見たら全く新しいものに投資して作っていかないといけないんじゃ?とか

こうなってくるとなぜ?なぜ?がとめどなくあふれてきました。今まで時間がなくて調べられなかった疑問、興味があふれてきてそれを調べて自分が納得することで自分を満たしていきます。

脳のメカニズムを調べたら、遺伝子が気になって、遺伝子が気になったと思ったら人類史を調べて霊長類研究者のブログから、地理学に飛んで、と思ったら言語学に飛び、ハイパーインフレーションの漫画を読んだら、貨幣の歴史が気になって、経済史を見たら宗教も気になって、、、。

これも脱線ですが、最近気になったのは
シュメール人のシュメルと皇(すめらぎ、日本の天皇の呼び名)が発音が似てるなって思って調べてみると、今使われてる言語も共通点があったり、シュメールの神話と日本の神話の共通点とか、日本にくさび型文字が残されたる石が実はあったり、天狗って鼻高いけど中東の人も鼻高いから、昔シュメールの高度な文明を継承していた人が技術教えてたのかな?とかそれはもう色々考察がはかどりまくるわけです。

昔中学生の頃は歴史が好きだったのに、大学では理系に進んだっきり触れていなかった学問の面白さに触れられました。

誤解を恐れずに言えば、これは時間とお金があったことによる気づきでした。(病気で休むと国や会社から生活できる程度のお金がもらえます。勿論遊んで暮らせる額ではありません。)

毎日夜遅くまでインターネットの中で情報を眺め、ノートに取り、おそらく今まで抑えていた好奇心の欲の塊のようなものが社会生活で時間が取れず、詰まっていたものが一気に押し流されるように調べる日が続きました。

大学で工学を学んだ私が触れてこなかった、経済の仕組み、ビジネスの仕組み、お金の価値、思想や文明の歴史、をいったん腰を落ち着けて自分の納得するところまで調べてみました。

すると普段私たちが忙しさの中で素通りしている疑問は色んな学問分野に繋がってきます。考えたら当たり前です。疑問を探究するのが学問です。

俗的なことで一つ例を挙げましょう、お金を稼ぐにはどうすればいいか。

消費者がお金を出したいと思うモノやサービスを、できるだけお金をかけずに提供することが必要になります。
お金を出したいものを考えるなら消費者の心理を理解する必要があります。
心理学や人の脳の仕組みを理解したらいいアイデアが生まれそうです。もっとも根源的なものに近いものはパチンコや競馬に代表されるギャンブルの類でしょう。
または、どんなものが人類を魅了してきたのか歴史を理解し共通点を探すことで成功の確率を高くできるかもしれません。さらに今は消費者のデータが収集できます。これらを使って統計学を学んだ人は消費者の傾向がつかめるでしょう。これは今データサイエンスと呼ばれてます。

できるだけお金をかけずに商品を提供するには効率的に商品を生産する機械を作ろうという発想が出てきます。人類は産業革命で多くの機械を発達させました。機械を作るには機械の素材や動きに関する物理法則、それを動かす電気の仕組みを理解する必要があり、それをまとめたものが工学と呼ばれてます。機械を動かすコンピュータに指示をするためには情報工学の知識も必要です。

工場を建てるのに適した土地を探すには地理や気候の知識が必要でしょうし、法律的に問題ないかを知るためには法律の知識が、その法律を変えるとなれば政治の知識も、そして人の心を動かすなら語学の知識も必要です。

さらに言えば…etcといった具合です。

今振り返れば、ただの躁状態だったのかもしれません。

気づいたら、私はクラゲからなぜなぜBOTになってました。

弟子に問答法を繰り返したソクラテスのように。

なぜ、いま世界には数十兆円の資産を持っている人がいるんでしょうか?一人の人間が使いきれる額じゃないのに、その代わり貧しい人が増え続けている。どうして。人口が減少する国のマンションの相場が上がっている。どうして?ローンして買った富裕層ではない人々が借金を返しながら質素に暮らす。なぜ?どうして?どうせ空き家も余ってるんだから安くなればみんな幸せなのに。なぜ?どうして?

ネットの記事の事実だけを鵜呑みにして考えずにいたこともよくよく考えると変です。

そんな変な日々が続き、なぜか体調が回復してきました。おそらく脳のニューロンが別の方向に働くようにつながってきたのかなと勝手に解釈しています。なにはともあれ、喜ばしいことに体調が回復したわけです。

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お次は病気から回復した私が至った結論と決意表明パートになります。長い話ももう少しです。目が疲れてきた頃でしょう。いったん休憩をはさんでコーヒーを飲んでください。カントリーマアムも食べましょう。☕
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さてこれから何をしよう

さて、体調も安定してきたので、私もそろそろ社会人に戻ろうと思うわけです。

これからどうしようか、考えました。

考えて、調べて、寝て、考えて、調べて、寝て、誰に言われたからでもない自分の納得できる答えを、与えてもらった時間を使って探しました。

結論は、、、

私はこれから千葉高システムを基にした共同体を作ることにしました。

紀元前にプラトンがアカデメイアを創設したように。

その理由は

私が「他者を尊重する」共同体の一員(千葉高生)でいたいから。

そして、その共同体を必要とする人は必ずいると信じるからです。

これは誰に言われたからでもない自分の決心です。
つまり自分の自由にできるし、責任の一切を持つ覚悟ができています。

歯が浮くようなこと言ってますが、結局千葉高生マインドが性に合ってるので、端から見たら変なことしようとしてるってだけかもしれません。

私が作りたいアカデメイア

日本にイノベーションが生まれなくなって30年という言説があります。
何が反省点か。一つの要因として考えられるのは、

自分のやりたいことを諦めやすくなる環境を作ってしまった点です。

いつからか学歴を重視するようになって良い企業に就職するために大学に入るようになってしまった。本来、勉強したい好きなことを学びに行く場であるはずなのに、本来の大学のあり方を曲げてしまった。

そんな中で学生は学歴さえ手に入れば、もうおしまい。辛い受験勉強からおさらばで、さあ遊ぼう。好きな学問をしたかった学生もその空気に曝されてしまいます。いつしか自分は間違ったことをしてるんじゃと不安になります。

さらに企業に属しても一括採用で採用されて人事課が決めた職場では皆がやりたいことができるわけでもなく、ルールと諦め、賃金のために働く労働者が増えてしまった。終身雇用も相まってそうした人が移動しづらい空気を生んでしまった。

そんなシナリオが見えてくるような気がしませんか。

もしこのまま日本を国として維持していくためにはイノベーションあるいはなんらかの革新はおそらく必須です。

歴史を振り返るならば、常識を疑い、世間体に惑わされず、自分の信じる道を続けてきた人が世界を変える発見や世に称賛されるものを作り出してきました。

西洋哲学の祖とされるギリシア哲学は奴隷のおかげで労働から解放され、空想する時間(schole)が増え、ソクラテス、プラトン、アリストテレス様々な哲学者を生みました。ルネサンスにはメディチ家というスポンサーをもつレオナルド=ダ=ヴィンチをはじめとする芸術家が数くの芸術を残しています。共通点は、偉人たちは没頭するための膨大な「暇」があったことです。

誤解を恐れずに言うならば、雑務を一切しなくていい暇人を増やして、それをよしとする空気で囲みます。そんな中から、好きなことに没頭した人が常識を打ち破り、後に天才と呼ばれます。

歴史を振り返るならば、探究する人に十分な時間と金銭的な余裕を与えて将来への不安を与えず、ただひたすらに本心の信じる道を進んでもらう。これがイノベーションへの歴史的な最適解だと私は思います。

そのイノベーションはソフトウェアかもしれないし、ひとつの発明かもしれないし、一つの数式かもしれないし、一冊の本かもしれない。何が世界に影響を与えるかは誰にもわかりえないですが、誰かが何かを突き詰めた先に生まれることは事実です。その誰かを千葉高の先生方がしてくれたように個人を尊重し、やってみなよと肩を押す、そんな空気の濃い空間が彼らには必要なのではないでしょうか。

そして、周りは決して批判などせず個人を尊重し、最大限支援するような千葉高システムのような守護される防壁で常識や世間体から彼らを守り、ただ没頭する時間を提供し、称賛することが今の世界にはとても大事なように思えます。

残念ながら日本での研究を諦め、海外に行く若手研究者、若手技術者をこれまで多く日本は輩出してきたように思えます。
そうした彼らが日本という国を諦めないためにも個人を真の意味で尊重する共同体が必要だと私は思います。

あえて簡単な言葉でまとめれば、未来の天才を千葉高の空気で囲んでみんなで応援、イノベーション作戦です。

一人の人間が何かを続けることがイノベーションにつながると仮定しましょう。

人間には好きなことと嫌いなことがあり、これはおそらく脳の構造などでドーパミンが出やすい方向性が大方決定されているようなものと解釈します。

すると当然好きなことを続けられることのほうが確率は高いわけです。

では好きなことをやってもらいましょう。極論お金をあげて暇になってもらって好きなことだけに集中してもらいます。

好きなことだけしてズルい?それは信頼関係の欠如です。その人があなたの生活をよりよくするために人生を捧げていても?

ズルするに決まっている?自主自律です。その人が自由を自分勝手とはき違えれば、システムは崩壊します。そこから追放されるかもしれません。自分の得た自由を守るために自分を律して信頼関係を保っていく、そんな人がアカデメイアに入る資格を持つことになるでしょう。

好きなことをやって続けてもイノベーションにならないかもしれない?勿論です。ならない人もいるでしょう。

これは、好きなことを続けられる人が10人いる集団と、好きなことを続けられる人が10000人いる集団どちらがイノベーションを起こす可能性が高いでしょうか?という問いです。

続けられる人の母数を増やしてイノベーション確率を上げようということです。

なぜか日本の大学では研究者が事務作業に追われたり、授業の準備をしています。若くて体力のある時期を雑用で無駄にしています。また資金も十分にもらえず研究ではなく資金を調達するための時間を過ごしたりします。

何が当たるかわからない。当然です。予測はできても予知はできません。運で当たることもあります。

でも続けることを諦めなくてもよい環境は作れます。

千葉高システムが体現しています。

でも今日本ににそういった一見外から見たら変でおかしい千葉高のような共同体は少ないんじゃないかと思います。

なので私は千葉高の空気が充満するアカデメイアを作りたい。

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結びに私の勝手な宣言パートです。ご乗車お疲れ様でした。🚃
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自由独立宣言

宣言します。

「私とあなたの考え方は違う。でも、そのままのあなたを尊重します」

「我が愛しき教え子の皆様へ」へのメッセージを読ませて頂いて

この言葉を当たり前のことなのに社会に出てから、見て見ぬふりをしてきた自分への戒めに、忘れないように、再度この章に置いておこうと思います。

言うなれば私が今も千葉高生OBと名乗るための宣言です。

まずは、これから会社に退職の手続きをして、日本のアカデメイアを作る仲間を集めます。どんな共同体にするかはまた次の機会に。

ただもちろん、私一人の力では限界があるので、正直言うと、この計画は聡明で変な仲間が頼りです。
そのために最近は千葉高OBの方に声かけたりしています。頭おかしくなったとかではないです。安心してください。むしろこっちが通常運転です。サラリーマンやってた時の方がおかしかったまであります。

昔高校の中庭で流しそうめんをする突飛な計画に乗ってくれたクラスメートたちのようなノリの良い仲間がこの指とまれでたくさん集まってくれることを願っています。

ここまで駄文に付き合ってくれて、どうもありがとうございました。

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本当はここで終わろうと思っていたんですが、千葉高生へ向けて話したくなってしまいました。
ほんとにこれが最後です。蛇足ですが千葉高生の皆様へ。🐍
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p.s.親愛なる千葉高生の皆様へ

しまらないですが、現役の千葉高生へと千葉高生OB宛に最期にメッセージを。

現役の千葉高生の皆さん。

高校生の間はやりたいことができます。
自分に今必要でやりたいことを自分で決められます。自ずに由れば即ち自由です。
極論なにしたって良い。千葉高校の信頼関係を崩さなければ、
先生を論破すれば授業サボって学校と違う場所に行ったっていいし、校庭で盆踊り大会したっていい。部活動だって作り放題です。(ただし、自分で責任を持つために自律するという条件付きですが)

千葉高は普通の高校がダメというところも生徒の自主性を尊重してくれる変な学校です。
千葉高システムを存分に利用しましょう。仮に先生が批判してきたら建設的に議論しましょう。きっと弁論は得意なはずです。

あ、受験なんて大丈夫です。不安だと思います。親に何か言われるかもしれません。私も実際不安もあったし、親にも色々言われました。

でも私は高校生3年生の頃は千葉高で遊びきりました。なので一浪です。

高校生の頃は親に言われて塾に嫌々通ってたんですが、浪人の頃は塾に通わず自宅で勉強してました。それでも第一志望の大学受かりましたし。

塾、予備校に行かないと大学に行けないから行かなくちゃという説の簡単な反例です。

大学に合格するのはその人の努力と勉強量次第で、どこの塾に入るかではないのでは?
単に努力家な人が母数として大きい塾に入ってる確率が高いだけで、それを議論するなら大学に何人入ったかではなくて、塾に属する全体の何人が行きたい大学に進学してるか、じゃないのか?
とか素朴な疑問を大人は仕事で忙しくて簡単な算数でも自分で考えて納得する前に誰かの意見を鵜呑みにしてます。

だから、私は高校3年生の頃入学試験が近づくにつれ学校に来なくなる人を見てもったいなーと思ってたわけです。

ちなみに私が会長やってたクラスの現役合格の人数が驚異の7(,8?)人くらいだったと記憶してるんですが、37人いる中で、ですよ?おかしくないですか?むしろ浪人生が圧倒的マジョリティです。

そんな仲間は楽しくやってますし、医者になったり、有名な企業に入ったり、研究に明け暮れたり、(単に世間一般のよいみたいなものの例を出してます。勘違いしないようにしてください。)色んな場所で活躍しています。

中には高3が人生で一番輝いてたみたいなことを言ってくれる人もいます。嬉しい限りです。

振り返ると私の浪人の1年がディスアドバンテージになったことははありません。
むしろ高校生の頃もっとあれやっておけばよかった。これもやりたかったということが山のようにあります。

人生の長い年月で見れば、高校の3年間なんて大人の言うことなんか聞かず、やりたいこと自分で決めたらいいじゃんっていうのが私の持論です。

皆さんもぜひ、有り余る暇(schole)を生かして、あなたなりの持論を決めてみてください。

少なくともあなたの知らないどこかの千葉高OBはあなたのが出した答えを、やってみなよと背中を押しますので。常識、世間体に負けないで頑張ってください。

…長かったですね。当時の私だったら確実に話なげーな、てなってます。自戒。

千葉高OBの皆さん。
変なことやるのでやりたい人、力を貸してください。
知恵でも、コネでも、カネでも。日本にアカデメイアもとい、第二の千葉高を作りたいので、ご協力と応援をよろしくお願いします。

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