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立ちション

みなさん、立ちながら小便をしたことはありますか?

 こんにちは。今はベトナムで隔離されて、余白の時を過ごしています。今日は石川県での気づきをアウトプットしたいなって思います。


 障がい者という言葉を聞いてどう思うだろうか。
僕はそんなにセンシブにならなくていいと思ってます。誰かから聞いた話とか、情報だけで判断しなくていいと思う。
その勘違いは、分断を呼ぶと思うから。人間という動物としては同じ
だけど、一人一人が違う存在。


もちろん社会的には障害なのかもしれない。でもそれで終わらされてしまうのは虚しい。

社会で生きるには「障壁」が多すぎて「障害」と分別されてるだけだと思う。言葉をまずは改めて欲しいよね。

彼らや彼らの親御さんに向けて一見かわいそうとみられがち。けど彼らにはそんなこと思われたい気持ちなんてない。と思う。
自分やったら思われたいかと言うと、状況次第だけど、ないな。


これは発展途上国の人に対して先進国の人が貧しい、汚い、かわいそう、問題だらけだというマイナスイメージだけ思う先入観と似ている。僕が行く前にそうだった。
貧富の格差はあり、教育を受けられない人がいたり、選択することすらできないなどの課題はある。
でも、人として、むしろ、彼らから学べることの方が多く、力強く、そしてライフスタイルや精神的な豊かな一面が沢山あった。
僕なんて。笑
先進国の方が社会的に立場が弱い人と地球をある意味汚してるし、散々迷惑かけてる。
自分の中での偏見をなくしていきたい。

問題、課題意識は大切だし、歪みである。現状苦しい面があるのはもちろんだけど、
でも、その人たちに問題があるわけじゃない。
言葉で括る必要性や、意識を変えさせるとか、それってどうなんだろうか。見下してないか?


僕はずっとこの疑問を考え続けている。どういう風に捉えて、どういうふうに想い生きればいいんだろうか。

ちょっと向き合うのが嫌だった。
今までは、リアルな情報なしに倫理観を間違えて、感情の使い方を間違えてたと思う。
答えはまだ出ていない。出さなくていいと思っている。

結論、自分で実際に関わったり、現地行ったりしてから判断する方がいいと思う。感じ方は人それぞれだから。


 これは種族や人種、障害の有無とかだけでもなく、多様性ってめっちゃ難しい。一般社会でも、何か不都合や、自分の物差しだけで考えたり、頭かたい人であったり、受け入れられない人で分断は起こる話。みんな違って当たり前で、みんないいのにね。

 僕もよく自分の価値観やスタンスだけで話してしまう時、あるので気をつけたい。

 いろんな角度から見て考えれるように、いろんな角度の人と関わる機会が大事だと思う。子どものうちから。ていうか大人が特別視するけど、子どもはたいしてしてない。子どもの心ってすごいな。

多様性は前提。


みなさんはどう考えますか?



 何度かnoteで書いたように、僕は加賀に滞在させてもらいながら、リオペドーラ加賀というまちづくりを志すスポーツクラブで居候しながらアルバイトをさせてもらっていた。

そこでの業務の一つとして、障がい者福祉サービスすくすく加賀の現場スタッフとして頻繁に手伝わせてもらっていた。

大事にしてたのは、子どもたちがすくすくと元気に育つの見守ること。社会の柵を押し付けるのだけはしたくなかったな。
でも、ルールや安全は守った方がいい。そういうスタンスで携わってました。

いろんな特性を持つ子どもたち。それぞれの「個性」があった。一個人としてみんなを捉えたかった。
ちゃんと自立させるために教育とか、支援してあげるという感覚を持たないように、対等に関わることとした。人がどう生きて呼吸するかなんて、自由やとも思う。
意識的に何かに施すことで自由を奪う必要はあるんだろうか。日本に根付く共通前提に囚われすぎないようにしたい。

そもそも、自立ってなんなんやろう。誰かに作られた道を行って自分で立つことが自立じゃないと思う。他に依存せずに、自分で自分のことを考えれることが自立だと思う。これはサッカーにおいても一緒。言われたプレーをしてるだけの選手を自立とは呼べないですよね。

僕なんてまったく自立できてない。ていうかいつまでもできねぇんじゃないかと怯えてる。


日本で生まれたら、相対的貧困はあるが、ある程度生活が保障されているなか、

人として大切な倫理や情緒はあるけと、あとはなにしてたっていいんちゃうかな。迷惑だってかけてよくない?
支援についても自分自身の生き方も、いろいろ考えたけど、正解ないのが当たり前。
選択肢があるという幸せなこと。選ぶ能力、考えれる環境があることがすごく大事だなとおもうむた。
心地よく生きる上での選択肢、自分が頑張りたいと思う選択肢がもっとあればいいのになと思う。


もちろん、社会で生きていくために障壁が彼らにはある。サポートはより必要だけど、劣ってるとかではなく、1人の人として見る子ども。


「してあげる」の自己犠牲はしんどくなるやろうなって思ってた。

そういうふうに考えて共にすれば、ただ楽しい。もちろん、この子とどう接せればいいだろうかは考えようとしてた。
リオが持つ遊びのリソースを存分に使いながら、仲間と大人と遊びとしごとと共に成長していく。興味や好奇心、アイデアを浮かべる子どもたちは僕にはない才能持ってるなって思ったりした。
人を傷つけてしまう子もいたり、社会の中で生きづらいだろうなっていう特性を持つ子たち。
冒険心溢れる子、なんでも遊びにしようとする子、発想がすごい子、絵が上手い子、集中力散漫する子めちゃくちゃ集中力ある子、叫ぶ子、、、「だめ」って押さえつける必要ないこと、挑戦と失敗から学べることをしている子もいた。
それぞれが輝く場所で、気持ちよく生きていって欲しいなー


さて、ここからが立ちション議論。


喋れないけど、いつも田んぼに行く子がいた。その子は、川の音のそばで豆乳パックを切り開いて楽しんでたり、田んぼを歩きながらめちゃくちゃ嬉しそうな顔と、ハイテンションを発動する。雨の日も颯の日も。笑
世界を、風を、土のエネルギーを、緑を、
電磁波の世界から離れてありのままで感じていた。僕も一緒になって自然に身を任せて息を吸った。

そして立ちションを共にした。爽快やったなー

その時の写真もあるけどのせません。いやのせんでええわ。誰が欲しいねん。笑

立ちションって良くないですか?
立ちションってめちゃくちゃ気持ちよい。
トイレでするより楽しい。
カンボジアでよくしてた。てかみんなしてた。なんなら野糞もできる。
Hくんはよくするけど、いつも笑ってる。
現代の日本人、おしっこしながら笑う人なんていないだろう。
日本社会の中では許されない。見せれない。まあそらあかんわな。
でもそういう感情って大切なんちゃうかな?抑える必要はないよね
傷つけることはしてはいけないけど。
トイレの神様宿るけど、、、トイレ掃除せんくて済むしね。
みんな分散してトイレしたらええのに。集約するから菌が蔓延する。
ってトロワ(一見さんお断りの、めちゃくちゃ美味しくて、こだわりを持った自然食のお店)の人が言ってた。
うんちも使えるしなー。

人はロボットみたいなことに近づきつつある。でも動物やで?心や感情を大切にしたら、モイ一度立ち止まってみよう。

動物とロボットの矛盾が生じてることあらたくさん。


自然の近くを好み、息をし反応しているHくんは、人間は自然の一部だってことを感じさせてくれた。都市にいるとそれを気づかずに育ってしまっている。



僕は昨年、カンボジア帰国後から半年間、大人として生きることに、自分が見ていた角度が小さな世界で、何者、誰かになろうと、誰かと比較し、理想と現実の極度な焦燥感と悲壮感に鬱気味になって、毎朝何に悩んでいるのか、苦しんでるかもわからず、悲しんでいた。社会恐怖に襲われていた。
心療内科によると、こだわり気質、ゼロ百思考ADHDという発達障害の傾向が、今のところ強めらしい。大人になるまでわからないことも多いらしい。なんとなく感じていた。めっちゃ苦しかった。

一方で自分にしかない部分もいっぱい持ってるよと言われ、安堵したのを覚えている。
苦しいときはチャンス。自分らしさに気づくための知らせだったんだと今は思える。すべてのことには意味がある。リオに教えてもらいました。幸いなことに、僕は山形、加賀に行ったことで調子良い自分を取り戻せました。
まだ軽度なんだと思うけど、今でもよく頭で考えすぎて悩んで閉じこもったりするし、調子悪いことは多々ある。

僕の良く知る人で、精神疾患と人間関係で悩んでいる人もいます。優しい人でほんといい人。だから、絶対いい輝き方がある。

僕の弟も、重度のものを、色々ずっと抱えていて、自分と他者を恐れて人や社会と関われない状況。
けど、めちゃくちゃ感性豊かで、頭がキレて本質的な言葉選びをする。才能だらけやと思う。趣味でうらやましいほどに追求する姿勢。深めるし、俺にはないことだらけ。
兄として、"ちゃんと"社会に戻れるように「何かしなければいけないんじゃないか」って思ってたし、かわいそうと思わんといけないのかなって思ったけど、そんなことないかな。なにしてたっていいし自由だから。徐々に寄り添いたいし、
少しでも自分を受け入れれて、許せて、柵の苦しみから解放されて、絶対輝けるし、生きやすいところで、人生を楽しんでほしいなって思う。
自分のこともまだままならないけど、きっかけを作れたらなって思う。


個性だ!!

誰でも違いはある。普通異常と、括らないようにしたい。そこに気づいていきたい。
大事なのは、自分自身の勝利。
社会という均一化で、そうやって苦しんだりするなら、いっそのこと社会を外れてしまいたいと思う。
世界は広い。思っているより、狭くて広い。

立ちションしたいなら、立ちションできる場所に行けばいい。


そんなゆとりスペース選択肢がある社会がいいな。困ったら逃げれるところ。

人間社会でストレスで苦しんで薬飲んで健康を害してたら、悪循環である。なんのために生きてるかわからなくなるときがある。僕も飲んでいた。苦しいなぁ。


お金による歪みも生み出してるんやったら、
いっそのこと、野生動物になりたい!笑 とまでは思わないけど、
もっと自然生物として生きたいんかなって認識した。

人も、動物も、植物も、モノも、"もったいない"だらけなんやな。

人間は立ちションして、誰が悪いって決めたの?
障害の何がダメなの?

社会や常識、偏見ってなんだろうとすごく考えさせられた日々でした。
みんな元気に、個性を伸ばして幸せになって欲しいなと思います。

僕が好きになったブランドがあるのでのしときます。↓

↑プレゼントでもらいました🙏

 一般の学童、まあぶるキッズも携わってて、とても楽しかった。

子どもたちは、とても元気。パワーをもらえる。なんか悩んでたら、子どもたちが余計なこと考えるな!って感じのエネルギーをくれる。
子どもの行動からから学べることもたくさんある。
なんでもすぐ飛びついて、挑戦する。失敗する。
どんな大人も拒まない。ただみんな純粋すぎるから思ったこと全部言い合う。でもそれでいいよね。「違和感」なんやから。喧嘩して反省し合ってた。大人が邪魔することないよな
みんな幸せ、楽しい、面白いを願ってる。友人と想いあう。大切にする。感覚で。感情で。
痛すぎてたまに怒ってしまったりこのクソ野郎ボケコラってなってしまってたけど。

怒らされるのは、よくないし、だめ!とか言って押し付けても子どもの未来にとって意味ないと教わりました。I 軸で話すのが大事ですよね。

子どもの世界観ってほんと素敵だなって思った。
まだまだ僕は「ちゃんとしなきゃいけない」とか外発的に思ってんなーーー。
いつまでも、子どもの心でありたい。

これはサッカーコーチでも全部共通するけど、子どもに関わる仕事って、一見簡単に見られるけど、すごく難しい概念も多いし、めちゃくちゃ考えないといけない。ビジネスになりにくいからボランティアやNPOも多いけど、もっとら価値ある仕事として社会で位置していいと思う。

僕はただ子どもと一緒に遊んでいただけやけど(笑)


教育で勉強やらスキルばかりがなぜフォーカスされすぎてるのか。
感性思考も大事じゃない?ワクワクしてほしい。
僕ももっと育まれたかった。サッカーしてたから、まだ今があると思う。

だって、子どもたちは(僕も若いからこんなこと言えないけど)、未来だから。
子ども時代にどんな仲間、大人と関わるってめちゃくちゃ大事ですよね。

世の中のしごとに優劣とかつけたくないけど、代償を考えずにGDPをあげるためだけに必死にやる産業とかお金のしごとより大事だと僕は思う。

他の仕事がいらないとかではなくて。もちろん自分も助けられて人として生きてれるんだから。
世の中の評価基準、ね。そもそもをもっと考えたい。

そう思えたから、これから自信を持ってベトナムで子どもたちに関わる仕事に、全力で向き合いたいなって思う。子どもと共に、サッカーも人としても上手くなっていきたい。
遊ぶように志事してたい。
僕もまだ素直になれない部分多い。未熟なところもある。
他のワクワクすることがあるからそれもしたいけど



よーするに、子どもと田舎、そしてリオは最高な場所ってことでした😂


Cam on.






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