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燃えた家を壊す前、子どもたちは壁いっぱいに落書きをした。

 2月の初め、火事という非日常を経験し、そのことを書いていたら、別の非日常が始まった。それから僕はずっと緊急事態を生きている。非日常とは普段とは違うことが起きるわけで、そこで考えた由無し事でも書き留めておけば、後から役に立つかもしれず、書き続けることとする。

 火事になって2ヶ月がすぎた。家の中は、ダイニングテーブルからピアノ、蒐集していたCDに至るまで、まるっと燃えてしまった。

燃えた家との別れ。

 あの家には名前がある。設計をしてくれた建築家の友人が名付けた。コトリというのがその名前だ。家の北側の3階に小さな出窓があって、それが嘴みたいな家だった。コトリは燃えてしまった。もう一度住めるようにするように、骨組みだけを残して解体される。3月30日、解体される前に、家族でコトリに会いにいった。あの火事以来、子どもたちはあまりコトリには行きたがらなかった。でもこの日はちがった。解体されれば、これまで通りのコトリの姿を見ることはできなくなる。それがみんなわかっていた。だからちゃんとお別れをしたかった。

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 その日、妻は花束を持ってきた。センチメンタルな行為だと思った。足を踏み入れると、ゴミが撤去されたコトリはがらんとしていた。リビングの真ん中に、燃えてしまったダイニングテーブルの天板が打ち捨てられてた。僕は、その上に花束をそっと置いた。真っ黒な板の上の花束の美しさにハッとした。心の中で僕はセンチメンタルだと思ったことを妻に詫びた。それは自然な行為だった。むしろ必要な行為だった。僕らの人生を前に進めるために、コトリとちゃんとお別れをしなきゃいけない。大きな災禍を乗り越えなきゃいけないとき、人は祈ったり、花を手向けたりする。その意味が初めて腑に落ちた。

コトリと最後の家族写真。

 火事で燃えてしまったコトリに長くいると、僕のような鈍感な人間でもすごく疲れる。14年もの歳月を過ごした場所には、おびただしい記憶が刻まれてる。油断をするとそれが心の中にうわっと広がるからだ。 
 30を過ぎて、子どもも生まれ、いつしか自分の家を建ててみたいと思うようになった。そして何年も土地を探し、建てたのがコトリだった。それから14年。健やかなる時も、病める時も、311で東京が揺れた日も、猛烈な豪雨や強風の夜も、コトリは家族を守り続けた。だからこそ壊してしまう前に、コトリと一緒に写真を撮りたかった。家族が一番長い時間を過ごしたリビングで家族写真を残しておきたかった。撮影はカメラマンの汰木志保さんが引き受けてくれた。

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 傷だらけのコトリの真ん中でどんな顔をしていいかわからない僕らに語りかけ、笑顔を引き出してくれた。湿っぽくない、素敵な写真。僕らの家族に、またひとつ宝物が増えた。

 自分なりにコトリの姿を記録したいと思った僕は、写真家のワタナベアニさんからもらったSONYのRX100で目についたものを撮った。火事の後に何度かここに足を運んだが、その度に「火事はすべてを奪う」という言葉を思い出す。炎は無慈悲までに冷酷にあるものすべてを焼き尽くす。それは人の力では到底及ばない圧倒的な暴力だ。三階の窓枠には、おそらく熱で溶け落ちたカーテンの残骸が染み付いていた。太陽に照らされ、ピカピカしてて美しかった。焼け跡を見て、美しいだなんて変だと思った。

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子どもたちはコトリが大好きだった。

 突然、子どもたちがペンはないかとう。燃え残った1階の書斎にあったものを手渡した。すると燃え残った壁に3人でワイワイいいながら書き始めた。ふざけながら、落書きでもしているのかと思った。でも違った。子どもたちは思い思いに、コトリにむけて惜別のメッセージを書いていた。

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 長男は自分の手形を残した。

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 娘たちはこんなメッセージを書いた。ボヌールとは、ご好意でお借りしている仮住まいの家。家主のお母様が「この家はラッキーなのよ」とおっしゃったので、僕が名付けた。

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 子どもたちは、子どもたちなりに、コトリに感謝を伝えていた。そして最後の時を惜しんでいたのかもしれない。

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 玄関には、火事のあった2月10日。そしてこの日の日付3月30日が書かれていた。そしてその近くにはこんな言葉が書いてあった。

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その素直な気持ちに、心がぎゅっとなった。家はただの箱ではない。嬉しい時も、辛い時も、僕ら家族が帰る場所だった。

 火事になって初めてこう思った。早くこの場所に帰りたい。

 さよなら、コトリ。いままでありがとう。火事になって傷ついた君をみるのは、本当につらかったよ。少し時間はかかるかもしれない。でも僕たちはずっと待ってる。また君に会える日を。

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