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【連載2】葦津 珍彦氏の父君の話。

【写真】葦津あしづ 耕次郎こうじろう

葦津珍彦編『葦津耕次郎追想録』より転載

ごきげんよう。
この連載は、戦後より神道ジャーナリスト・神道防衛者として活躍した、
思想家・葦津 珍彦あしづ うづひこ氏について卒論に基づいたお話です。

今回は、父君のお話をいたします。

令和4(2022)年4月2日加筆しました。

はじめに

葦津 珍彦あしづ うづひこ氏【明治42(1909)年~平成4(1992)年】
の終戦直後までの活動に的を絞って研究いたしますと、珍彦氏の戦後における神道防衛活動の基盤には、明治20(1887)年から同35(1902)年までの15年間、筥崎宮の宮司を務められ、神社などの公的身分を明確に確立するための運動を起こして指導的立場で活動された祖父の磯夫いそお

筥崎宮にて約10年間神職として務め、退職後は筥崎宮発展のために神苑しんえん会事業を起こして、社会貢献もする事業家として活動すると同時に、主に政治や祭祀に関して独自の保守言論活動をされました父の耕次郎こうじろう

との2代にわたる活動の流れをうけて、祖父・父君の2代が築いていかれました人間関係と、それらの活動を継承された背景があることがわかります。

以上のことから、葦津 珍彦氏の個人的研究をする上では、祖父・父君の略歴についての基礎的知識が不可欠な条件となりますので、私の卒論研究範囲内ではありますが、こちらのお話にも触れていこうと思います。
(主に関連研究者に向けて)

本日(投稿日)は、全国大多数の神社にて夏越大祓(なごしのおおはらえ)式が執り行われる日でありますが、葦津 耕次郎氏の御命日でもございますので、
今回は父君の耕次郎氏のお話をしようと思います。

個人的見解といたしましては、葦津 珍彦氏について人物研究視点でお話をするとなると、父耕次郎氏は最重要人物となります。

【理由】
①親子は、昭和15(1940)年まで、ほとんど同居していること。
②珍彦氏が思想家を志すきっかけを作ったのは父君であること。
③珍彦氏は昭和 7(1932)年 23歳の時より、父君が理想とする社会を実現させる言論活動に協力をして行かれること。
④父君が帰幽きゆう(逝去せいきょ)後は、何事も決断する時にはお墓参りされていたこと。
⑤昭和40(1965)年以降に発表された珍彦氏の著書の中で、父君の生前は助手として活動していたこと、父の子でなければ思想的立場は違っていたと告白していること。など

とは言いましても、研究のメインは珍彦氏であり、約1年程度の研究期間でもありましたので、卒論では耕次郎氏について触れるべく、少々調べて略歴を執筆した程度でございます。

今回の投稿にあたり、手元に残っている研究当時の資料を読み直し、少し調べ直しまして、説明を少々加えつつ加筆した程度のお話となります。

【葦津 耕次郎氏に関する研究論文・著書のご紹介】

葦津 耕次郎氏については、西矢 貴文博士が研究論文を発表されておりますのでご紹介いたします。

西矢 貴文氏の著書「葦津 耕次郎氏の研究論文集」のリンク
(「国立国会図書館サーチ」Webサイト より)

葦津 耕次郎氏の著書などに関しましては、こちらを添附いたします。
「葦津 耕次郎氏の著書関連」のリンク
(「国立国会図書館サーチ」Webサイトより)

【葦津 耕次郎氏の略歴】

葦津 耕次郎氏【明治11(1878)年~昭和15(1940)年】は、
葦津 磯夫いそお氏の次男として、明治11(1878)年に現在の福岡県福岡市東区箱崎にて生れました。

ちゅう
  
姉1人・兄1人・妹4人の7人きょうだい。
【長女・長男 洗造せんぞう氏・耕次郎氏・次女・三女・四女・五女】

耕次郎氏は、父の磯夫氏も制御しがたい性格で、近隣では暴れ馬として有名であったそうです。

【余談話】
耕次郎氏は著書(手元にないため表題失念/葦津 珍彦編『葦津耕次郎追想録』所収)の中で、父君に『論語』を読むように言われていたけれど、自身は『孟子もうし』を好んで読んだ。と述べられている話がありました。

小学校卒業後は、私塾漢学塾 に通い、この頃に満州に王国を建設して自らが満州王となる夢を抱き、その夢を叶えるため無断で塾を辞め、当時チャイナ中国語教育が盛んであった熊本の学校※に入学。チャイナ語の通訳試験に合格しました。

そして、18歳の時の明治29(1896)年2月から単身で朝鮮諸国へ渡り、歩き回った後に満州行きを決意しまして、翌年4月に家族に最後の別れをするため帰国したのですが、父磯夫氏が重病を患ったため看病に努められました。この時に筥崎宮前にて個人的に病気平癒祈願をしたところ、回復していかれたことをきっかけに筥崎八幡神への信仰を深めていかれたそうです。

その後に再度、病を患った磯夫氏(当時 筥崎宮の宮司)の手助けをするため、明治31(1898)年11月に筥崎宮の神職となり、主典(しゅてん)として奉仕されました。同35(1902)年10月30日に磯夫氏は帰幽きゆう(享年62歳)

同37(1904)年26歳の時、日本の情勢は日露戦争【明治37(1904)年
2月8日~同38(1905)年9月5日】開戦への流れがあったことをきっかけに、耕次郎氏は筥崎宮の神職一同に戦勝祈願をおこなうことを提案。
結果、1月9日に戦勝祈願祭を執り行い、約500体の神符(しんぷ)を奉製ほうせいして海軍提督府ていとくふ(鎮守府ちんじゅふ)に手渡されました。

そしてのちに開戦。開戦後に耕次郎氏は県内の神職方を集めまして、
大祈願祭を斎行して出征軍人全員に神符をお渡しすることを提案。
周囲を説得された結果、3月27日から3日間、大祈願祭が執り行われ神符しんぷをお渡しする運びとなりました。

そして、海軍全勝をきっかけに、耕次郎氏は筥崎宮のために全力で奉仕することを決意されました。

この時耕次郎氏は、海軍に対して捕獲した敵戦艦を
御祭神に奉納するようにと申され、軍艦を鳥居のそばに係留して
奉納させたため周囲を困らせ、結局維持ができずにお下げしたという逸話があり、御令孫れいそんの葦津 泰國やすくに氏がこの時のお話をブログにてされていたので、以下に引用します。

ロシヤの軍艦を奉納させた話
(前略)
祖父とは親しくなっていた海軍は、筥崎さまのおかげだという祖父の説に同意し、そのお礼にと、日本海海戦で捕獲したロシアの巡洋艦を筥崎宮に奉納することになり、軍艦は筥崎の参道脇の海の鳥居のところに係留された。また、祖父の勧めで連合艦隊は旗艦三笠の羅針盤を海戦の行われた地区の神さま・海の神さま宗像大社に奉納、これは今でも神社の神宝館に飾られている。

だが、軍艦の奉納を受けた神社や地元の箱崎村は、この船の係留にかかる膨大な経費に参ってしまった。軍から軍艦を奉納された名誉はまたとないものでありがたいが、このままでは神社も村もこの維持費で破産する。祖父を怒らせないようにこの船を処分するのに、大変な苦心をしたという、皆が困った後日談もある。

gooブログ『葦津泰國の、私の「視角」』
「天衣無縫 -私の祖父の思い出2」
平成22(2010)年7月17日付記事より引用

明治39(1906)年28歳の時に結婚。その後に兄の洗造せんぞう氏が、同41(1908)年6月23日付で筥崎宮 宮司の辞令を受けられた※2 のを見届けたのち、同月26日付で主典しゅてん職を辞された後は、神職として奉仕することはありませんでした。

※2:葦津 珍彦著『葦津家小伝』によると、洗造氏は皇學館(現在の皇學館大学)卒業後は高山昇氏の支援のもと、福岡県の某神社の宮司に就任。
3年後に高山氏が筥崎宮 宮司に推薦した経緯が述べられております。

職を辞された後は、筥崎宮を発展させるための活動をされていかれます。
その手始めとして、当時官幤かんぺい中社ちゅうしゃ※3だった筥崎宮を官幤かんぺい大社たいしゃへ御昇格しょうかくむねを当時の内務大臣に訴え続けました。
結果、大正31(1914)年に官幤大社へ御昇格。その後に筥崎宮神苑(しんえん)会を起こして、その流れから事業をはじめて行かれることとなります。

※3:官幣中社かんぺいちゅうしゃ
当時は国が管理。明治元(1868)年より神社の社格制度が整備され、
大・中・小社の 官国幣社(かんこくへいしゃ)を定めて分類されておりました。社格につきましては、こちらのサイトの説明がわかりやすかったのでご紹介いたします。(『神社人 』Webサイトより社格について)

【余談話】
葦津 泰國やすくに氏談によると、耕次郎氏は言いたいことがあると大臣室に3日居座るほどの頑固さがあったそうです。

この神苑事業は、御社殿や御神域の整備をはじめ、神苑内に外戦記念館、公会堂、水族館、海水浴場を設置することを計画した事業とのことで、耕次郎氏はこれらの事業のために必要な資金を集めるため、両国国技館で寄付を集める相撲興行をされました。その後は寄付金に頼るのみではなく、自身で資金を調達していこうと決心されます。

そして、出身地の経済発展のため事業家として活動していた杉山 茂丸氏とも相談しながら博多湾の築港を計画※4 して活動をおこなう中で、耐火粘土事業の経営を目指した親戚筋のご縁の流れから、大正4(1915)年に鉱業権を獲得するために満州へ渡航。同5(1916)年6月頃には仲介者等の紹介により張 作霖(ちょう さくりん)大元帥と会談する機会を得て交渉をした結果、採掘権を獲得。

※4:大正5(1914)年には博多湾築港 株式会社を設立。
持ち株:耕次郎氏500株、杉山氏4,000株。のちに築港事業は福岡市に譲渡され昭和13(1938)年に市営となりました。

この流れを受け、大正6(1917)年5月には複数の耐火材料の鉱業権を得て、その後、大正8(1919)年36歳の時に葦津鉱業公司(こうし:会社)を創業されました。(昭和7(1932)年1月に他会社へ売却)

【余談話】
この約4年に渡る満州内における鉱業権獲得活動の背景には、国益につなげるための思いもあっての活動もされており、南満州鉄道 株式会社との論争や譲渡もあり、最終的に残った耐火材料のマグネシアクリンカー(重焼酸化マグネシウム)事業の会社を設立する運びとなりました。

マグネシアクリンカーについては『Iwatani (岩谷産業 株式会社)マテルアル本部 』Webサイト内のマグネシア原料の説明がわかりやすかったので、
添附いたします。「マグネシウム化合物

また、筥崎宮の神社の総修繕・総改築を行う計画中、大正4(1915)年に白アリ被害により楼門廻廊(かいろう)の修繕が必要となったため修改築がなされ、用材不足のため勧められた台湾ヒノキの木材を使用。建築後にひび割れなどの不具合が生じたため、検査した行政機関からクレームを受けたことをきっかけに耕次郎氏が諸交渉に乗り出した流れから、国内の神社仏閣にも台湾の材木を提供していこうという考えに至り、最終的には個人で工務所を立ち上げる運びとなり、大正12(1923)年に社寺工務所を設立※5 されました。(昭和20(1945)年8月に解散手続後閉所)

※5:西矢 貴文氏の著書「事業家としての葦津耕次郎」より引用を以下にいたしますと、「神社建築改善のための事業は、既に前年十二月から経営上の問題について協議が行われていたようで、結局この事業は全国神職会が葦津に委託するという形で、大正十二年四月に神社建築工務所として始められることとなった。そして、同年六月には一般仏閣も対象とした社寺工務所と改称されて、仏寺建築も扱うようになる。」(305ページ)
と述べられております。

また、事業開始経緯に関する話は、西矢 貴文著「事業家としての葦津耕次郎に詳細が述べられております。Web上にてPDF論文があげられているのでリンクを貼りました。ご興味のある方はご一読くださいませ。

そして、この間の大正5(1916)年33歳の時には、現在も主に神社神道で行われている ※6みそぎ行法の体系化をなされました、神道家の川面 凡児(かわつら ぼんじ)氏と紹介により出会ったのちは、川面氏の教学を参考にして自身の神道思想に基づいた言説も発表され、祭政一致の社会の実現を説くべく諸活動を繰り広げていかれます。

※6 みそぎ:身体を洗いすすぐことで、身についた凶事や罪けがれを除去して清めること。

出典:『縮刷版 神道事典』より引用

大正8(1919)年41歳の時には、この頃にはじまった朝鮮神宮造営の際に、朝鮮人の祖先も祭るべきだと祭神を増祀することを朝鮮総督府の総督に訴えたりするなど、独自の意見を内務省関係者や神職に訴えるなどの言論をされたりしました。また、同年に傾倒する玄洋社の主宰・ 頭山 満※8氏の邸宅の隣家に転居※7 して上京されます。

※7:転居先は、当時の頭山氏の居住地(リンク地図辺りというところまでしか追えず)であった東京の赤坂霊南坂(現在は東京都港区赤坂)

その後は渋谷へ移転されます。このことについて今回調べてみました。
頭山氏は、昭和3(1928)年には東京の渋谷常盤松町(現在の東京都渋谷区東1丁目4番地辺りというところまでしか追えず)へ確実に移転されており、耕次郎氏も昭和初期には渋谷に居住されております。

この理由として考えられることは、大正12(1923)年9月1日午前11時58分に発生した関東大震災の翌日に葦津家の住宅が全焼した話が、葦津 珍彦著「関東大震災に際して、父から賞められた話」(葦津珍彦先生追悼録編集委員会編『葦津珍彦先生追悼録』所収)にて述べられていることから、両氏とも震災後に渋谷へ転居されたのではないかと推測します。

【卒論のちゅうより加筆抜粋】
※9: 頭山 満とうやま みつる[ 安政2(1855)年~昭和19(1944)年]
福岡県早良郡にて、黒田藩馬廻うままわり役、筒井亀策の三男に生まれる。
命名乙次郎。明治3(1870)年15歳、太宰府天満宮を参拝して扁額へんがくを仰いだことをきっかけに名を乙次郎から「満」に改める。
同6(1873)年8月19歳、母方の頭山家を継ぐこととなり、養子縁組する。
西郷隆盛(文政10年~明治10年)の影響などを強く受け、西郷死後、西郷の精神を継承することを決意。
同11(1878)年5月14日に大久保利通暗殺事件が起こり、土佐にいる板垣退助に会いに行く。同12(1879)年25歳、自由民権運動に目覚め、福岡に向陽義塾をつくり、政治運動の結社「向陽こうよう社」をもうける。
同14(1881)年2月、向陽社を「玄洋げんようしゃ」に改名する。基本精神となる「第一条 皇室を敬戴けいたいすべし。 第二条 本国を愛重すべし。第三条 人民の権利を固守すべし」の憲則三条を掲げ、勤王、自由民権、条約改正と、さまざまな運動を先導していきながら、西欧帝国主義の野望からアジア諸国を解放するため、その国の民族が培ってきた独自の文化に根ざした国を作っていくことを日本が積極的に応援するといった、大アジア主義活動へと発展していき、民間の立場から、思想を超えて内外の独立運動革命家の支援を行った。
昭和19(1944)年10月5日、歿。享年90歳

【参考文献】
長谷川 義記『頭山満評伝』(原書房、昭和49年9月)
頭山満翁正伝編纂委員会『頭山満翁正伝』(昭和56年10月)
葦津 珍彦『大アジア主義と頭山満』(葦津事務所、平成17年9月)

【註】
頭山 満氏についておおむねの概要につきましては『Ch Grand Strategy(CGS) YouTubeチャンネル』による、小名木おなぎ 善行ぜんこう氏、杉山 満丸みつまる(杉山 茂丸氏のひ孫)氏の解説がわかりやすく正確性が高いかと思いましたので、以下に添附いたします。

【余談話】
大正時代(1912~1926年) 当時の日本国内では、西欧的な個人主義、共産主義などの政治的・思想的な宣伝がなされて、当時の日本人の思想状況が大きな変化をしていくなかで国柄の危機が声高に叫ばれるようになり、保守言論活動も盛んになっていった背景がありました。

話は戻りまして、耕次郎氏は事業を経営しながら言論活動をしていくなか、昭和9(1934)年には、交際していた仏教連盟の関係者に、仏教各宗派の全管長そろって明治神宮、靖国神社へ正式参拝することを提案。

結果、昭和10(1935)年4月に実現しましたが、このことについて、主に神道界内で論争となりました。耕次郎氏は神仏融和運動と称して、
僧侶も神社へ正式参拝して祈願祭をするべきであることを主張して論争。
結果としては、こちらの正式参拝は継続するには至りませんでした。

僧侶明治参拝
写真:当時の明治神宮参拝
写真の補足文には、西本願寺管長のみ代理であったとあります。
葦津 珍彦著『一神道人の生涯―高山昇先生を回想して』より転載

和13(1924)年4月には、各家庭に神棚を設けて皇太神宮こうたいじんぐう(伊勢神宮)を奉斎(ほうさい)し、祝祭日に国旗を掲揚して正月には門松をたてることの推進などを目的とする「敬神けいしん護国ごこく団」を結成するなど、祭祀の復興に関する活動に尽力されましたが、病床に伏されたのちは珍彦氏を介して発言などをされ、神奈川県鎌倉市の海沿いにある地へ転居して療養されました。

そして、昭和15(1940)年6月29日に家族全員にお別れの挨拶と遺言、
辞世の句揮毫(きごう)をされましたのちに昏睡状態になられ、
翌日の6月30日午後2時過ぎ、鎌倉の屋敷にて帰幽きゆう(逝去せいきょ)されました。
享年62歳。今年(2021年)で没後81年となります。
父君の帰幽後、珍彦氏は1年間に服されました。

辞世じせい
天地あめつちの道にふたつはなかりけり 
         いつくしみてうことのほかには

謹んで御霊の平安を心よりお祈り申し上げ奉謝致しました。

【関連研究者に向けての資料的な話】

(1)葦津 耕次郎氏 提案 
仏教各宗派管長等による合同神社参拝に関する話

葦津 珍彦氏の著書『一神道人の生涯―高山昇先生を回想して』の中にて、
昭和9(1934)年当時に関する話がありますので、以下に抜粋いたします。

○僧侶の参拝で耕次郎と激論
高山昇先生と耕次郎は、実の兄弟のように親愛だったが、すべて意見一致というのではなくて、時に議論した。その二、三例。
昭和十年ころだったかと思う。父のところによく来る「佛教連盟」の活動家に横井さんという人がいた。父が日支の速やかな和平を念じて、「佛教の全管長がそろって、明治神宮と靖国神社に拝礼したらどうだろう。個人の立場に立っての宗教と云えば、それぞれ各人の個性で、やれ他力とか自力とか、この点がちがうとの別があって、同じ佛教と云っても四十八宗門とか昔は云ったが、今はもっと多くに分かれる教理論があるだろう。しかし佛連という同じ立場もある。『日本国民としての立場』ということに前提を立てれば、明治神宮、靖国神社の神前では相和して、共に拝することもできるのでないか」というような趣旨の話をした。そしたら横井氏は耕次郎以上にも熱心に、「それは私が必ず佛連加盟の全管長を集めます」と云って、間もなく同意した四、五人の東京近くの管長さんを同行して来た。
父耕次郎は、「それではこちらの接遇が大切だ」と云って、明治神宮の有馬宮司(これは垂加の信者だった)と靖国の加茂宮司(有名な国学者)に話したら同感で、「管長そろっての御拝だったら、最高の礼をもってお迎えする」との快諾を得た。

それで父は頭山先生にもその報告をした。
頭山先生は先祖供養は、家の伝統で佛式だが、日本臣民としての明治神宮への信仰は格別だった。八十歳を越しても、格別の事がなければ必ず表の長い参道を歩いて神殿の前に進み、石の上にぢっと坐して、四 五分間も黙禱をつづけられるのが常だった。

この話では、暴れ馬の耕次郎との名で語ったが、私の父は、どのように尊敬する自分の先生に対しても、自分の所信に反すれば野人礼を知らずで、勝手次第に反論したり、時に罵ったりすることを顧みなかったが、頭山先生にだけは反論したことが一度もなかった(ただ世俗の事に関して、こんな話があるが、同意できるものかと質されて、それは、かくかくの理由で、私としてはできませぬと、おことわりしたことは二 三度かある)。
先生は、そんな時に不機嫌な風をされたことはなく、「そんな事情は知らなかった、話はなかったことにしてくれ」と云われたことはある。
だがこの時の話は少しく趣がちがふ。
「それは大いに良いことだが、お前が考へている以上に日本国の精神にとって大事なことで、なかなかの大問題だぞ」と云われた。

果して、そのやっかいな文句を云いに来たのが高山昇先生だった。
「わしは、かの物部守屋が、われ何ぞ蕃神(あだしくにのかみ)を拝せんやとて一身一家を亡ぼすまで、汚れ者の佛徒に抗争したのを畏敬している。お前が坊主を連れて神前に行くとは不都合ぢゃないか」との文句なのだ。

父は「私は佛を蕃神(あだしくにのかみ)とは思わぬが、仮に蕃神だとしても、何の不都合があるか。私は何も蕃神を拝せよとは云っていない。蕃神に対しても相和して日本の神々を拝せよと云っているのだ。佛僧に神社を拝せよと云っているが、今の神主に寺参りせよとは云っていない。日本人の大半が佛教徒だ。あなたのような排佛論は、維新の始めから天皇はお認めになっていない」と。

この昇先生と耕次郎の話は、昇先生に論理の逆立ちがないかと思っていた。話は、やや横にそれるが…(他話により中略)そしたら、二流どころの全神の諸君が、高山、葦津の論争をおもしろいと思ったのか、機関誌に書き立てて、からかい気味に、事情は分かっているのに「葦津の建築には近ごろ佛の香の臭いがするから警戒しろ」などと書き立てた。

昇先生に云うまでもないが、近代建築時代に、宮寺の日本建築をするのは、どの業者でも普通なのだ。どこの神社を建てている業者でも、寺も建てる。私のところなど、寺は少ないが四分の一程度には、古くから寺も建てた。おもしろおかしく営業妨害みたいな文を書き立てられて、腹が立った。
私は、やくざ縄張りのもっともやかましい地区で、急成長の事業をして来たので、どこの建築業者にも劣らぬ、ごつい奴をそろえていた。多少きびしく責めて、回答とって来いと命じた。三人ばかりで行ったら、みんな顔色変えて裏庭から逃げたという。そのころ、新幹線はないし、京都の昇先生(筆者註:当時は伏見稲荷神社の宮司)では時間がないと思ったか、今泉先生のところに逃げこんだ。先生から銀座の事務所に電話連絡があって、すぐ参上したら「世の中を知らぬバカな奴が、愚文を書いてわるかったと陳謝している。今回限りは許してやってくれ」とのお話で、ケリをつけた。

昇先生に、その後会ったら「あの記事はバカげている。あの奴等では、物部守屋にはとてもなれない」と云われた。排仏(本文のまま)は不動だ。頭山先生の評が当っていた。推進役の耕次郎が、病床に臥した時(昭和十二年十一月三日)までの間、二回か行われただけで立ち消えになった。

葦津 珍彦『一神道人の生涯―高山昇先生を回想して』
96~102ページより抜粋
(非売品のためほぼ抜粋しました)

(2)震災直後の事業に関する話

葦津 珍彦著「関東大震災に際して、父から賞められた話」(『葦津珍彦先生追悼録』所収)にて、震災直後の事業に関する話がありましたので、
以下に抜粋します。

震災の直後、父の経営する社寺工務所の檜材が陸続として芝浦に入って来た。木材は飛ぶ様に売れる時であった。私はそのころ某氏が影で次のように云ふのを聞いた。「ここの大将は変り方も少し極端だ。今、あの木を花柳界に売れば万の利益は忽ちに上るのに、
俺の木は神社でなければ売らぬの候のと云って、見す見す商機を逸する。
一ヶ月後れると、値はとんと下る。周囲の奴もウスノロばかりで、大将の気焰(きえん)に同感してゐるばかりで、宝の山を蹴飛ばしてゐる云々」と。
子供ながらに私は某氏の見解を正鵠(せいこく)を得た評だと思った。
然し同時に父の信念を貴しとした。

葦津珍彦先生追悼録編集委員会編『葦津珍彦先生追悼録』
(小日本社、平成5年12月)
406ページより抜粋

(3)頭山 満氏に関する話

耕次郎氏と頭山氏との親交のはじまり時期については研究不足のため不明ですが、私が現在知るところでは、明治時代後期には親交されております。

葦津 珍彦氏は著書『一神道人の生涯―高山昇先生を回想して』の中にて、「筑前は玄洋社の本拠で、とくに活動は強力だった。中でも筥崎宮の動きは猛烈だった(49ページ)」と述べております。

上記卒論の註によると、「頭山 満氏は、明治12(1879)年25歳、自由民権運動に目覚めて、福岡に向陽義塾をつくり政治運動の結社『向陽社』をもうけて、同14(1881)年2月、向陽社を『玄洋社』に改名する。」とあります。

また、在りし日の頭山氏の御姿の動画が、
『YouTube :詩吟専門チャンネルGINRYO 』にて、あげられておりましたので、以下に添附いたします。

【余談話】
昭和初期の頃の映像記録媒体は、
8ミリフィルムというフィルムを使ったカメラ撮影機で撮影したものを映写機を使ってスクリーンで映し出して見るというものでした。今でいうと映画館で見るような感じの小型版。
昭和7(1932)年に世界初の小型の8ミリフィルム撮影機が登場したことにより家庭でも映像撮影が出来る様になりましたが、当時の日本では使用するのはごくごく限られた人のみで希少なものでした。現在では技術向上により、当時のフィルム映像をデジタル化できるようになったため、以下の動画はデジタル化された動画を「YouTube」にてあげられたのだと推測します。

(4)頭山氏の居住地に関しての一資料

ライブドアブログ中落合日乗(國學院大學元職員の日記)』(平成23(2011)年7月2日付記事にて、昭和3(1928)年当時の居住地周辺の地図があげられてましたので添附いたします。

イシタキ人権学研究所ホームページ』内記事に、
昭和14(1939)年に頭山邸宅を訪ねた話がありましたので添附します。
石瀧 豊美著「玄洋社関係史料の紹介」PDF

【珍彦・泰國氏が語る 耕次郎氏の話】

最後に、葦津 珍彦氏は昭和40(1965)年以降に発表された著書の中にて、父君のお話をされており、また、泰國氏も自身のブログにて祖父耕次郎氏のお話をされておりますので、主に関連研究者に向けて抜粋文をお書きいたします。

(1)葦津 珍彦氏の絶筆『一神道人の生涯―高山昇先生を回想して』にて述べられているお話の一部を以下に抜粋いたします。

昇先生は、耕次郎に初めて会われたが、当時を回顧して全く驚いたと云われていた。その話、「弟の方の耕次郎という奴は、手のつかぬ暴れ馬で、おれも制御しがたい奴だ」と磯夫先生が云われていた。しかし、無頼漢でもない。軍人勅論などは、ありがたがって(徴兵には行かなかったのだが)全文をそらんじていて、声をあげて奉読しては涙を流して論じている。人情は深いところがあって、無学な百姓や漁師の氏子などには人気がいい。しかし型破りの奴で、一般の学者や役人の云うことなど聞かぬ奴だ。…などと話ておられた。初めて会ったら、聞きしに勝る暴れ馬で、役所も上司も全く蔑視して天下国家を論じ立てる。…

葦津 珍彦『一神道人の生涯―高山昇先生を回想して』
51~52ページより抜粋

(2)葦津 珍彦著「『葦牙あしかび』の神道思想」(『葦津珍彦先生追悼録』所収)にて述べられているお話を以下に抜粋いたします。

葦牙あしかびの著者(亡父)は、少年時代には老荘の学に親しんだ。
るにある時、父親(筆者註:磯夫氏)から(お前は自分が人間であることを忘れてゐるのではないか)と警告せられてから、飜然(ほんぜん)として老荘の著を捨て、孔孟の儒学を尊重する様になった。けれども、父は晩年に至るまで「形式的道徳論」を批判する時には、常に「老子」巻頭の語を引用した。

父は、孔子に対しては、浅からぬ敬意を払ってゐる様に思はれた。(外国の思想としては最も完成したものだ)と称してゐた。孟子の思想の低俗なる事は之を認めつつも、(道義政治の入門書)として孟子の価値は高く評価した。政論に際しては好んで孟子を引用した。

神道に就ては、師について学ぶといふ事がなかった。○○○(本文のまま)の時、母親を失ひ、悲歎甚しく、日夕泣き明かすうちに病を得、長く病床に親しんだ。病床に於て父親(筆者註:磯夫氏)より始めて「古事記|傳
《伝》」をすすめられて之を読み、深く興味をおぼえたさうである。
祖父は日頃から平田篤胤の思想学問を尊信する人であった。
けれども葦牙あしかびの著者(耕次郎氏)は、本居もとおり、平田両大人の著者(本文のまま)は之を読んだけれども、祖父ほどに深く国学の学統に傾倒することはなかった様である。
然らば、「葦牙」の著者は如何にして神道の信仰に入りしか。それは国学研究の結果といふ様な事ではなくして、筥崎宮に対する信仰的体験を通じて進められたものであった。

葦津珍彦先生追悼録編集委員会編『葦津珍彦先生追悼録』
419~420ページより抜粋

また、身内の方が珍彦氏から聞いたというお話によると、
珍彦氏は「耕次郎氏は相撲で相手を投げておいて、その後は愉快に酒でも飲み交わすような男で、俺はキリでみんなを刺して回るような男だ。」と語られたと述べられております。(『葦津珍彦先生追悼録』にて)

(3)葦津 珍彦氏の御子息の泰國氏がブログにて語られている思い出話の中にて、耕次郎氏のお人柄がわかるお話がありましたので、以下に抜粋いたします。

節句の後の鯉のぼり事件
 家の西にあった私どもの寝室から、南側の長い廊下をとんとんと走っていくと祖父の寝るベッドがある洋間に達する。私は毎朝、目を覚ますと一番に大好きなおじいさんのところに挨拶に行った。足音を聞くと、病床の祖父は相好を崩し、ベッドで起き上がって待っていて、私が胸に飛び込むのを迎えてくれた。鎌倉暮らしはそんな日課から始まった。

 やがて来た4月は私の誕生日である。祖父は広い芝生に東京からとび職人を呼び、大きな柱を立てて特大のこいのぼりを作ってくれた。カラカラと音を立てて回る風車、庭一杯にひるがえる吹き流し、真鯉に緋鯉、有頂天になる見事な鯉のぼりだった。こんな楽しい環境の中で私は誕生日と端午の節句を迎えた。ただ残念だったのは父が、全国を飛び回る仕事に忙しく、大自慢のこいのぼりを父に見せることができないことだった。

 やがて節句も終わり、東京から再び鳶職人が来て、この鯉のぼりの取り壊しを始めた。父に見せる前に鯉のぼりはなくなってしまう。私は祖母や母の止めるのも聞かず、懸命に「壊さないでくれ!」と叫び続けた。大声で泣きわめいて抵抗したと祖母や母は言うが、私には記憶がない。
 
しかしその声は窓越しに休む祖父の耳にも入った。祖父は祖母からその話を聞くと、即座に命令した。

「壊してしまった鯉のぼりをすぐに立て直せ。子供が父に見せたいと懸命に頼むのに、その子供の父への愛情がわかっていながら、社会通念だ常識だなどとこれを壊すとは何事だ。子供の気持ちを大事に思うなら、鯉のぼりがいつまで庭に残っていてもよいではないか。大切なのは、子供の心にある父への愛情と信頼を、大事に育てることなんだ」。

 かくして、一度撤去された鯉のぼりは節句を過ぎてもう一度庭に建てられ、鯉のぼりは節句を過ぎた青空に再び翩翻(へんぽん)とひるがえることになった。

 こんなおじいちゃんも、それからわずかにふた月も立たず、幽界に去った。さびしい霊柩車の行進、近所の墓地での埋葬のシーンを、私は今でもはっきり覚えている。

gooブログ『葦津泰國の、私の「視角」』
「祖父の面影」2010年07月12日付記事より抜粋

泰國氏の御紹介は、以下記事にてお話しておりますので、ご参照ください。

今回のお話は以上でございます。
ご拝読ありがとうございました。拝

【今投稿の参考文献】

國學院大學日本文化研究所編『縮刷版 神道事典』(平成23年9月、9刷)
葦津耕次郎著・葦牙會編『あし牙』(葦牙會、昭和14年12月 )
葦津珍彦編『葦津耕次郎追想録』(私家版、昭和45年6月)
葦津珍彦『一神道人の生涯―高山昇先生を回想して』(東伏見稲荷神社社務所、平成4年7月 非売品)
西矢貴文「明治期の葦津耕次郎」(『神道史研究』第53巻 第2号、平成17年10月)
西矢貴文「大正期の葦津耕次郎」(『神道宗教』第204・205合併号、平成19年1月)
西矢貴文「葦津耕次郎の政治観」PDF(『明治聖徳記念学会 Web サイト』内PDFファイル)|『 明治聖徳記念学会紀要』(復刊第42号、平成17年12月)
西矢貴文「事業家としての葦津耕次郎」PDF(『明治聖徳記念学会 Web サイト』内PDFファイル)|機関誌『 明治聖徳記念学会紀要』(復刊第43号、平成18年11月)
藤田大誠「支那事変勃発前後における英霊公葬問題」PDF(『明治聖徳記念学会 Webサイト』内PDFファイル)|機関誌『明治聖徳記念学会紀要』(第51号、平成26年11月)
波田永実「『招魂祭祀』考Ⅱ~靖国信仰の基層」PDF (『流通経済大学 学術情報リポジトリ Webサイト』内 PDFファイル)|機関誌『 流通経済大学法学部流経法學』( 第27号、平成27年2月)