ごきげんよう。
この連載は、戦後より神道ジャーナリスト・神道防衛者として活躍した、
思想家・葦津 珍彦氏について卒論に基づいたお話です。
今回は、父君のお話をいたします。
はじめに
葦津 珍彦氏【明治42(1909)年~平成4(1992)年】
の終戦直後までの活動に的を絞って研究いたしますと、珍彦氏の戦後における神道防衛活動の基盤には、明治20(1887)年から同35(1902)年までの15年間、筥崎宮の宮司を務められ、神社などの公的身分を明確に確立するための運動を起こして指導的立場で活動された祖父の磯夫氏
筥崎宮にて約10年間神職として務め、退職後は筥崎宮発展のために神苑会事業を起こして、社会貢献もする事業家として活動すると同時に、主に政治や祭祀に関して独自の保守言論活動をされました父の耕次郎氏
との2代にわたる活動の流れをうけて、祖父・父君の2代が築いていかれました人間関係と、それらの活動を継承された背景があることがわかります。
以上のことから、葦津 珍彦氏の個人的研究をする上では、祖父・父君の略歴についての基礎的知識が不可欠な条件となりますので、私の卒論研究範囲内ではありますが、こちらのお話にも触れていこうと思います。
(主に関連研究者に向けて)
本日(投稿日)は、全国大多数の神社にて夏越大祓(なごしのおおはらえ)式が執り行われる日でありますが、葦津 耕次郎氏の御命日でもございますので、
今回は父君の耕次郎氏のお話をしようと思います。
個人的見解といたしましては、葦津 珍彦氏について人物研究視点でお話をするとなると、父耕次郎氏は最重要人物となります。
とは言いましても、研究のメインは珍彦氏であり、約1年程度の研究期間でもありましたので、卒論では耕次郎氏について触れるべく、少々調べて略歴を執筆した程度でございます。
今回の投稿にあたり、手元に残っている研究当時の資料を読み直し、少し調べ直しまして、説明を少々加えつつ加筆した程度のお話となります。
【葦津 耕次郎氏に関する研究論文・著書のご紹介】
葦津 耕次郎氏については、西矢 貴文博士が研究論文を発表されておりますのでご紹介いたします。
西矢 貴文氏の著書「葦津 耕次郎氏の研究論文集」のリンク
(「国立国会図書館サーチ」Webサイト より)
葦津 耕次郎氏の著書などに関しましては、こちらを添附いたします。
「葦津 耕次郎氏の著書関連」のリンク
(「国立国会図書館サーチ」Webサイトより)
【葦津 耕次郎氏の略歴】
葦津 耕次郎氏【明治11(1878)年~昭和15(1940)年】は、
葦津 磯夫氏の次男として、明治11(1878)年に現在の福岡県福岡市東区箱崎にて生れました。
耕次郎氏は、父の磯夫氏も制御しがたい性格で、近隣では暴れ馬として有名であったそうです。
小学校卒業後は、私塾の漢学塾 に通い、この頃に満州に王国を建設して自らが満州王となる夢を抱き、その夢を叶えるため無断で塾を辞め、当時チャイナ語教育が盛んであった熊本の学校※に入学。チャイナ語の通訳試験に合格しました。
そして、18歳の時の明治29(1896)年2月から単身で朝鮮諸国へ渡り、歩き回った後に満州行きを決意しまして、翌年4月に家族に最後の別れをするため帰国したのですが、父磯夫氏が重病を患ったため看病に努められました。この時に筥崎宮前にて個人的に病気平癒祈願をしたところ、回復していかれたことをきっかけに筥崎八幡神への信仰を深めていかれたそうです。
その後に再度、病を患った磯夫氏(当時 筥崎宮の宮司)の手助けをするため、明治31(1898)年11月に筥崎宮の神職となり、主典(しゅてん)として奉仕されました。同35(1902)年10月30日に磯夫氏は帰幽(享年62歳)
同37(1904)年26歳の時、日本の情勢は日露戦争【明治37(1904)年
2月8日~同38(1905)年9月5日】開戦への流れがあったことをきっかけに、耕次郎氏は筥崎宮の神職一同に戦勝祈願をおこなうことを提案。
結果、1月9日に戦勝祈願祭を執り行い、約500体の神符(しんぷ)を奉製して海軍提督府(鎮守府)に手渡されました。
そしてのちに開戦。開戦後に耕次郎氏は県内の神職方を集めまして、
大祈願祭を斎行して出征軍人全員に神符をお渡しすることを提案。
周囲を説得された結果、3月27日から3日間、大祈願祭が執り行われ神符をお渡しする運びとなりました。
そして、海軍全勝をきっかけに、耕次郎氏は筥崎宮のために全力で奉仕することを決意されました。
この時耕次郎氏は、海軍に対して捕獲した敵戦艦を
御祭神に奉納するようにと申され、軍艦を鳥居のそばに係留して
奉納させたため周囲を困らせ、結局維持ができずにお下げしたという逸話があり、御令孫の葦津 泰國氏がこの時のお話をブログにてされていたので、以下に引用します。
明治39(1906)年28歳の時に結婚。その後に兄の洗造氏が、同41(1908)年6月23日付で筥崎宮 宮司の辞令を受けられた※2 のを見届けたのち、同月26日付で主典職を辞された後は、神職として奉仕することはありませんでした。
職を辞された後は、筥崎宮を発展させるための活動をされていかれます。
その手始めとして、当時官幤中社※3だった筥崎宮を官幤大社へ御昇格の旨を当時の内務大臣に訴え続けました。
結果、大正31(1914)年に官幤大社へ御昇格。その後に筥崎宮神苑(しんえん)会を起こして、その流れから事業をはじめて行かれることとなります。
この神苑事業は、御社殿や御神域の整備をはじめ、神苑内に外戦記念館、公会堂、水族館、海水浴場を設置することを計画した事業とのことで、耕次郎氏はこれらの事業のために必要な資金を集めるため、両国国技館で寄付を集める相撲興行をされました。その後は寄付金に頼るのみではなく、自身で資金を調達していこうと決心されます。
そして、出身地の経済発展のため事業家として活動していた杉山 茂丸氏とも相談しながら博多湾の築港を計画※4 して活動をおこなう中で、耐火粘土事業の経営を目指した親戚筋のご縁の流れから、大正4(1915)年に鉱業権を獲得するために満州へ渡航。同5(1916)年6月頃には仲介者等の紹介により張 作霖(ちょう さくりん)大元帥と会談する機会を得て交渉をした結果、採掘権を獲得。
この流れを受け、大正6(1917)年5月には複数の耐火材料の鉱業権を得て、その後、大正8(1919)年36歳の時に葦津鉱業公司(こうし:会社)を創業されました。(昭和7(1932)年1月に他会社へ売却)
また、筥崎宮の神社の総修繕・総改築を行う計画中、大正4(1915)年に白アリ被害により楼門と廻廊(かいろう)の修繕が必要となったため修改築がなされ、用材不足のため勧められた台湾ヒノキの木材を使用。建築後にひび割れなどの不具合が生じたため、検査した行政機関からクレームを受けたことをきっかけに耕次郎氏が諸交渉に乗り出した流れから、国内の神社仏閣にも台湾の材木を提供していこうという考えに至り、最終的には個人で工務所を立ち上げる運びとなり、大正12(1923)年に社寺工務所を設立※5 されました。(昭和20(1945)年8月に解散手続後閉所)
そして、この間の大正5(1916)年33歳の時には、現在も主に神社神道で行われている ※6禊行法の体系化をなされました、神道家の川面 凡児(かわつら ぼんじ)氏と紹介により出会ったのちは、川面氏の教学を参考にして自身の神道思想に基づいた言説も発表され、祭政一致の社会の実現を説くべく諸活動を繰り広げていかれます。
大正8(1919)年41歳の時には、この頃にはじまった朝鮮神宮造営の際に、朝鮮人の祖先も祭るべきだと祭神を増祀することを朝鮮総督府の総督に訴えたりするなど、独自の意見を内務省関係者や神職に訴えるなどの言論をされたりしました。また、同年に傾倒する玄洋社の主宰・ 頭山 満※8氏の邸宅の隣家に転居※7 して上京されます。
話は戻りまして、耕次郎氏は事業を経営しながら言論活動をしていくなか、昭和9(1934)年には、交際していた仏教連盟の関係者に、仏教各宗派の全管長そろって明治神宮、靖国神社へ正式参拝することを提案。
結果、昭和10(1935)年4月に実現しましたが、このことについて、主に神道界内で論争となりました。耕次郎氏は神仏融和運動と称して、
僧侶も神社へ正式参拝して祈願祭をするべきであることを主張して論争。
結果としては、こちらの正式参拝は継続するには至りませんでした。
和13(1924)年4月には、各家庭に神棚を設けて皇太神宮(伊勢神宮)を奉斎(ほうさい)し、祝祭日に国旗を掲揚して正月には門松をたてることの推進などを目的とする「敬神護国団」を結成するなど、祭祀の復興に関する活動に尽力されましたが、病床に伏されたのちは珍彦氏を介して発言などをされ、神奈川県鎌倉市の海沿いにある地へ転居して療養されました。
そして、昭和15(1940)年6月29日に家族全員にお別れの挨拶と遺言、
辞世の句を揮毫(きごう)をされましたのちに昏睡状態になられ、
翌日の6月30日午後2時過ぎ、鎌倉の屋敷にて帰幽(逝去)されました。
享年62歳。今年(2021年)で没後81年となります。
父君の帰幽後、珍彦氏は1年間喪に服されました。
【関連研究者に向けての資料的な話】
(1)葦津 耕次郎氏 提案
仏教各宗派管長等による合同神社参拝に関する話
葦津 珍彦氏の著書『一神道人の生涯―高山昇先生を回想して』の中にて、
昭和9(1934)年当時に関する話がありますので、以下に抜粋いたします。
(2)震災直後の事業に関する話
葦津 珍彦著「関東大震災に際して、父から賞められた話」(『葦津珍彦先生追悼録』所収)にて、震災直後の事業に関する話がありましたので、
以下に抜粋します。
(3)頭山 満氏に関する話
耕次郎氏と頭山氏との親交のはじまり時期については研究不足のため不明ですが、私が現在知るところでは、明治時代後期には親交されております。
葦津 珍彦氏は著書『一神道人の生涯―高山昇先生を回想して』の中にて、「筑前は玄洋社の本拠で、とくに活動は強力だった。中でも筥崎宮の動きは猛烈だった(49ページ)」と述べております。
上記卒論の註によると、「頭山 満氏は、明治12(1879)年25歳、自由民権運動に目覚めて、福岡に向陽義塾をつくり政治運動の結社『向陽社』をもうけて、同14(1881)年2月、向陽社を『玄洋社』に改名する。」とあります。
また、在りし日の頭山氏の御姿の動画が、
『YouTube :詩吟専門チャンネルGINRYO 』にて、あげられておりましたので、以下に添附いたします。
(4)頭山氏の居住地に関しての一資料
①ライブドアブログ『中落合日乗(國學院大學元職員の日記)』(平成23(2011)年7月2日付記事)にて、昭和3(1928)年当時の居住地周辺の地図があげられてましたので添附いたします。
②『イシタキ人権学研究所ホームページ』内記事に、
昭和14(1939)年に頭山邸宅を訪ねた話がありましたので添附します。
石瀧 豊美著「玄洋社関係史料の紹介」PDF
【珍彦・泰國氏が語る 耕次郎氏の話】
最後に、葦津 珍彦氏は昭和40(1965)年以降に発表された著書の中にて、父君のお話をされており、また、泰國氏も自身のブログにて祖父耕次郎氏のお話をされておりますので、主に関連研究者に向けて抜粋文をお書きいたします。
(1)葦津 珍彦氏の絶筆『一神道人の生涯―高山昇先生を回想して』にて述べられているお話の一部を以下に抜粋いたします。
(2)葦津 珍彦著「『葦牙』の神道思想」(『葦津珍彦先生追悼録』所収)にて述べられているお話を以下に抜粋いたします。
また、身内の方が珍彦氏から聞いたというお話によると、
珍彦氏は「耕次郎氏は相撲で相手を投げておいて、その後は愉快に酒でも飲み交わすような男で、俺はキリでみんなを刺して回るような男だ。」と語られたと述べられております。(『葦津珍彦先生追悼録』にて)
(3)葦津 珍彦氏の御子息の泰國氏がブログにて語られている思い出話の中にて、耕次郎氏のお人柄がわかるお話がありましたので、以下に抜粋いたします。
今回のお話は以上でございます。
ご拝読ありがとうございました。拝
【今投稿の参考文献】
國學院大學日本文化研究所編『縮刷版 神道事典』(平成23年9月、9刷)
葦津耕次郎著・葦牙會編『あし牙』(葦牙會、昭和14年12月 )
葦津珍彦編『葦津耕次郎追想録』(私家版、昭和45年6月)
葦津珍彦『一神道人の生涯―高山昇先生を回想して』(東伏見稲荷神社社務所、平成4年7月 非売品)
西矢貴文「明治期の葦津耕次郎」(『神道史研究』第53巻 第2号、平成17年10月)
西矢貴文「大正期の葦津耕次郎」(『神道宗教』第204・205合併号、平成19年1月)
西矢貴文「葦津耕次郎の政治観」PDF(『明治聖徳記念学会 Web サイト』内PDFファイル)|『 明治聖徳記念学会紀要』(復刊第42号、平成17年12月)
西矢貴文「事業家としての葦津耕次郎」PDF(『明治聖徳記念学会 Web サイト』内PDFファイル)|機関誌『 明治聖徳記念学会紀要』(復刊第43号、平成18年11月)
藤田大誠「支那事変勃発前後における英霊公葬問題」PDF(『明治聖徳記念学会 Webサイト』内PDFファイル)|機関誌『明治聖徳記念学会紀要』(第51号、平成26年11月)
波田永実「『招魂祭祀』考Ⅱ~靖国信仰の基層」PDF (『流通経済大学 学術情報リポジトリ Webサイト』内 PDFファイル)|機関誌『 流通経済大学法学部流経法學』( 第27号、平成27年2月)