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日記│七月十二日

 ついさっき英語読解の授業が終わって帰ってきたところ—―と書こうとしたけれど、時計を見てみればもう四時間前のことだった。つまり今は十一時半で、帰ってきたのは八時半だ。だから”ついさっき”じゃない。それで何を書こうとしたのかというと、マンションの裏手にある駐車場のことだ。つまり、今朝工事が始まるのを目にして、帰ってきてみたらあっけなく看板も、ゲートも何もなくなっていて、はげかけた白線だけが暗がりに浮かんで虚しく名残を留めるまったくの空き地になっていたのだ。
 
 思えば、旅立ちのわくわくは大抵あの駐車場から始まっていた(我が家はカーシェアリングサービスを利用していて、よくその駐車場で車を借りていた)。そのことを思うと、小雨をユニクロの黒い折り畳み傘をさして歩いていた僕も少しは感傷的な気分にならないでもなかった。けれど考えてみればそういう事はこれを書いている今だって起きていて、僕の眼が同じ景色を二度捉えるということは厳密な意味では絶対に有り得ないことなのだ。だとしたらそんなちゃちな感傷に振り回されるのではなくて、鴨長明やら吉田兼好やらみたいに万物流転の無常というものの意味について少しでも思いを馳せた方が少しは有意義な帰り道だったかもしれない。

 それにしてもいちばん奇妙な感覚に捕らわれるのは、久しく足を運んでいなかった土地を再訪するときで、僕がいなくても世界はちゃんと動いているんだ、と、はりぼての裏側をのぞいたような気分になって、形容しがたい感情が僕を襲う。

 ところで話は変わるけれど、例の”さっき”の英語読解の授業で「名を馳せる」とプリントに記す場面があった。そう、「思いを馳せる」の「馳せる」だ。ところが僕はその「馳」という漢字を思い出せなかった。正確には、馬偏までは分かったのだけれど、旁(つくり)が分からなかった。そういうことってたまにあるけれど、そのたびに湧き起こるあのみじめな気分は一体なんなのだろう。恥に違いないけれど、「はせる」とひらがなで書くことを僕の馬鹿げた矜持が許さない。そんなとき僕は「馬」の右に空いた空白を見つめて自分が足りない人間であることを強く自覚するのだ。それは勉強だって、人間関係だって、遊びでさえそうで、僕のつまらない矜持がいつもそこに変な空白をもたらす。『あいまいでいい』のに。

 ヘッダーの写真は最近食べた醜いトマトの写真だ。いろいろ書きたいこととか書かなきゃならないことはたくさんあって、それはこのトマトを見て思い出したのだけれど、もう遅いので電気を消して寝よう。

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