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読書│生まれて初めて織田作之助を読んだ。

 こんばんは。単刀直入に言うと僕は、昨日生まれて初めて織田作之助を読んで、感動した。なんだこの小説は、と思った。

 僕はまあ一丁前に太宰治なんか読んで、ふーん、なんつって、分かったようなふりをしていた。または坂口安吾の『堕落論』を読んで、なにも理解できずに、ネットで拾った薄っぺらい知識——すなわち、坂口安吾のカレー百人前事件—―なんかを得意げに家族に、学を衒っていたわけですよ。いわゆるデカダン、新戯作派というやつです。それかもっと昔の話をするならば、町田康も相当はまっていて、この堕ちてく疾走感、たまんねェナ、とか思っていた。しかし織田作之助を読んでいままで本当の意味で読書していたのだろうか、という疑問が生まれた。なので思ったことなどを下に記す。

 受験勉強がひと段落ついて、ちょっと息抜きかなんかのために開いたこの小説が、こんなにすごいとは思わなんだ。読んだのは、『夫婦善哉』なんだけど、濃すぎる。濃い。スキのない文章、なんていうと、冷徹なものをイメージするけれど、そうではない。あたたかい、何よりも人間らしい、風土に根付いた文章だった。そんで、ああ、これが生きるってことなんだな、真に人間らしいとはこういうことなんだな、と思った。だいたい何やってもうまくいかない登場人物たちは、うまくいかないなりに生きている。生きているというのは、そういううまくいかないことの連続なのだと、僕たちは小学校の道徳の時間で何度も教え込まれてきたはずだけど、分からないわそんなこと。御覧の通り僕は大学入試の息抜きにこれを読んだわけで、だいたいそんな温室の中の18歳が生きることのなにかなんて知るはずもない。白状してしまえば町田康読んでも実際得たものなんてなんだろう、いやないわ、ただ面白いから読んでただけだわ。銀杏BOYZももう一年くらい聴いてないけどもうあの頃の共感も忘れてしまったし、生きる姿勢、態度みたいなものは教わってこなかった訳です。万引きひとつしたことのない僕が銀杏聴いてたのも滑稽だけれど。でもこの本は違った。確かに僕が温室の中で生きていて、社会もそれを許してくれているんだけど、本来の、真の人間の生きざまみたいなものをまざまざと見せつけられて、自分のあまりのふがいなさや、ダサさや、何もかもに嫌気がさした。僕が唯一この本を読んでいて共感できたのは女遊びがやめられない男に、くっそしょうもないお色気漫画を読んで貴重な受験生の休日を何度もつぶしてしまう自分の姿を重ねたときで、そんなのダサすぎないか?

 話は変わるけれどいま図書館の本を失くしてしまっていて、あと一週間して出てこなかったら現物賠償なのだけれど、その本が、ショーぺンハウアー『読書について』という本だ。それを読むと多読をする奴は自分の頭で考えない馬鹿だ、みたいなことが書いてあって、それを読んで僕は耳が痛かった。そして織田作之助を読んでショーペンハウアーの言っていたことは本当だなあ、と思った。というのは、驚くなかれ、僕は今まで本の中のことは本の中で完結していると思っていたのだ。ことに小説においては。いかに主人公たちが泥臭くもがいていようが、自分は冷房の効いたソファの上でアイスなんか舐めながら読んで、そんな自分のことを何ら恥じることもなかった。つまり、いかに生き生きした文体、ストーリーでも、出てくる感想は、「リアルな本だなあ」でおしまい。裏表紙を閉じたら、そこで終わりだったのだ。それでも読書はたのしかったんだけど。僕は言葉というものが何なのか気づかないままにえげつない量の本を読んで、だんだん馬鹿になっていったのかもしれない。世の中で一番偉いのは頭のいいひとでなく、一番勉強をするやつでなく、あるいはがむしゃらに努力をするやつでもない。ただただうまくいかずに、朴訥と生きて、じぶんの欲望に忠実で、なにかのために死ねて、けどうまく死にきれないような人間なんだ。そんなことも知らなかった。それか、僕は「知識として」知っていた。
 言葉とは何なのか、すなわち、生きた人間そのものだよ。なんて、この文も、書いた翌朝には恥ずかしくなっているのだろうけど。
 あるいは、風土。大阪人はやっぱり東京人とは違うのだろうか。インドに行ったらインド人の生き方に人生が変わるなんて言うけれど、織田作之助の時代に大阪に行ったら人生が変わったかもしれない。というか、戦争を生きたあの時代の人たちは、概してがむしゃらだった気がする。戦争は今も起きているけれど、それはやっぱり、「本」のなか、「テレビ」の中のことで、僕たちの生きる態度にはあまり影響を及ぼさない。こんな時代に織田作之助を読めたことは、あるいは幸せなことなのかもしれない。伝わりにくい文章でごめん。最近小論文を書く練習をしているから、かえってこんな文章が書きたくなったのだと思う。多分僕の生活は何も変わらないと言い切ってしまえるし、そんな自分に失望もするけれど、そんな自分と向き合って、僕がこの文章を消して忘れ去ってしまうか、いつまでも泥臭くいられるかは大人の僕次第ということにしてしまおう。
 


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