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「膝枕」外伝 カチンの森膝枕事件

2021年8月7日、Clubhouseで今井雅子作「膝枕」の朗読を行い、膝枕er番号67番に認定されました。

多くの膝枕erから刺激を受けて、外伝を書いてみたので、ご笑覧ください。


「膝枕」外伝 カチンの森膝枕事件

Ⅰ.
1939年9月1日、ドイツ軍は突如ポーランドに侵攻を開始し、第二次世界大戦がはじまった。
9月17日には、ソ連軍もポーランドに侵攻。
第一次世界大戦後、123年ぶりに独立を回復したのもつかの間、ポーランドはわずか20年で、またもドイツとロシアの毒牙に食いちぎられた。
そして第二次大戦終結後、ポーランドはソ連の衛星国として生きていく運命を強いられた。

これから綴られるのは、そんな歴史的悲劇の中で生まれた、悲しくもヘンテコリンな物語である。

1943年2月27日。
ソ連のロシア連邦共和国スモレンスク州グニェズドボ。
不可侵条約を破って侵攻し、この村を占領していたドイツ軍に、奇妙な噂が聞こえてきた。
ポーランド軍捕虜が森に連れ込まれて戻ってこないというのである。
ドイツ軍の調査隊が森の中に入り、掘り返してみると、後頭部に銃弾を撃ち込まれたポーランド軍捕虜の死体が、数えきれないほど発掘された。

ドイツ軍に連戦連敗のソ連軍にとって、大勢のポーランド軍捕虜を連れて撤退するのは大きな負担だった。
そこでソ連の秘密警察がとった解決策は、森の中にポーランド人たちを連れ込んで、撃ち殺して埋めることだった。

他にロシアやウクライナの何か所かで、ドイツ軍によってポーランド人の死体が発見され、その数は2万人を超えた。
だが、グニェズドボという地名を発音できなかったドイツ兵が、近くの地名を使ったことから、カチンの森事件と呼ばれるようになった。
ナチスドイツはソ連の悪逆非道を世界中にアピールしたが、やがて戦況は逆転し、ソ連が勝利。
カチンの森事件はナチスドイツの犯罪にされてしまい、ポーランド国内での言及は、長い間タブーとされてきた。

ここまでは史実として世界中に知られているが、ここから先は、歴史の大きなうねりに巻き込まれ、闇に葬られた物語となる。

ポーランド人の死体を掘り出していたドイツ兵たちは、奇妙なものを見つけた。
死体のほとんどは男性だったが、数少ない女性の死体は、ことごとく上半身と切り離されていた下半身が、まるで正座のように両膝が折り曲げられていたのである。
だが、これが世界に知られることはなかった。
既に戦局が転換してドイツ軍の崩壊が始まっており、宣伝戦に力を入れられる状況ではなかった。
そして、ポーランド人女性がむごたらしく殺されても、ドイツ兵は同情や憐憫を感じなかったことも、この惨劇が闇に葬られた原因のひとつだった。

Ⅱ.
話は1939年にさかのぼる。
日本の関東軍とソ連・モンゴルの連合軍が、満州国とモンゴルの国境で戦ったノモンハン事件の停戦協定が、9月15日に成立した。
それから10日後。
外交交渉とは別枠で、停戦に向けて人知れず汗を流した、関東軍の原島昭介大尉、本岡鉄太郎少尉と、ソ連軍のニコライ・ラリオノフ大尉、アンドリー・カリニチェンコ少尉が、満州国とソ連の国境の街・満州里市内の料亭で、お忍びの慰労会を行っていた。
本岡がロシア語を、カリニチェンコが日本語を話せるので、会話には苦労しなかった。
大仕事を成し遂げた原島は、お気に入りの芸者2人を前に饒舌だった。
「おい、紗月、胡蝶。こちらのお二人は、ロシアの将校さんだ」
カリニチェンコは「俺はロシアじゃなくてウクライナ人なのに」と心の中で悪態をついたが、そんなことはおくびにも出さなかった。
よほど酒が旨かったのか、原島は目をとろんとさせながら体を大きくゆらせ、近くにいた紗月にもたれかかった。
「あっ」
と声を出しながらも、紗月は原島の体をよけようともしなかった。
ゆっくりと倒れ込んだ原島の頭は、正座する紗月の太腿の上に置かれた。
原島は夢心地な面持ちで寝息を立て始め、紗月はイヤな顔ひとつせずに原島の頭をやさしく撫でた。

「た、大尉殿・・・・・いや、まいったな・・・・・」
本岡はバツの悪そうな表情で頭をかいた。
ラリオノフとカリニチェンコは、見たこともない光景にポカンとしていた。
「いや、日本ではよくあることなのです。子供が母親の膝の上に頭を載せて、耳垢をとってもらったり・・・・・」
本岡は、自分でも何の話をしているのかわからなくなっていた。

ラリオノフは少しずつ真顔に変わりながら、原島を膝枕する紗月を見つめつつ、胡蝶に視線を飛ばすと、気づいた胡蝶は頬を赤くした。
「これは何と云うのですかな?」
ラリオノフに尋ねられた本岡は、
「コレンナヤ・ポドゥシュカ」
とロシア語で答えた。
「ほぉ・・・・・」
太腿の上に頭が載っているのに、なぜ膝なのかと思ったが、ラリオノフはすぐにまた紗月の膝枕、そして胡蝶の顔ではなく太腿へと視線を注いだ。

「すまん、頼む」
本岡の無言のメッセージに、胡蝶は頷くしかできなかった。
「ラリオノフ大尉、お試しになりますか?」
わざとらしい愛想笑いを浮かべた本岡に勧められると、
「おお、ではせっかくのご縁なので遠慮なく」
ラリオノフは満面の笑みを浮かべ、胡蝶の腿の上に頭を載せた。
その瞬間、
「オーチン・ハラショー!(すばらしい!)」
と叫んだラリオノフは、頭を胡蝶の腿の上で前後左右させながら、本岡に尋ねた。
「日本語では何というのですか?」
「膝枕といいます」
ラリオノフは上機嫌だった。
「本岡少尉、何ともすばらしい日本文化ですな。私は死ぬまで膝枕という日本語を忘れることはないでしょう、ハハハハハ」
自分の太腿の上で、ラリオノフにズリズリと頭を動かされ、引きつった表情を隠しようもない胡蝶だったが、ラリオノフが膝枕にご満悦で、自分の顔を見ないのは幸いだった。
紗月は爆睡中の原島の頭をひたすら撫で続け、本岡はオロオロするばかり。
カリニチェンコはすっかり酔いがさめ、シラケた表情になった。

1940年7月。
リトアニアの首都カウナスにある日本領事館は、無数のユダヤ人に取り囲まれていた。
既にリトアニア全土がソ連軍に制圧され、各国の大使館や領事館は閉鎖され、公務を続けていたのは日本領事館だけだった。
ナチの魔の手から逃れるために、日本の通過ビザを求めて押し掛けたユダヤ人たちに、領事代理の杉原千畝が、外務大臣・松岡洋右の命令を無視してビザを発給し、約6千人の命を救ったというのは、あまりにも有名な話だ。
だが、日本の通過ビザを入手した者の中に、ユダヤ人に紛れてミコワイ・マイダンというポーランド人がいたことに、誰も気づかなかった。
ユダヤ人たちの支援に携わり、ゲシュタポのお尋ね者になっていたミコワイは、ダビド・モルゲンシュテルンという、いかにもユダヤ人らしき偽名でビザを手に入れ、船で日本に入国した。

Ⅲ.
第二次世界大戦終結後、ポーランドは独立を回復したが、主要都市にはソ連兵が駐屯し、我が物顔でのさばった。
東部の大都市ルブリンで、そんな光景を指をくわえて眺めるしかない若者たちがいた。
看護学校に通うオリビア・ランドフスカ。
工業技師の養成所に通うアンジェイ・ゴシチニアク。
服飾デザインを学ぶベレニカ・シュベルチンス。
そして大学で心理学を専攻する、ヤクブ・ユルキエビッチ。

「どうして・・・・・どうしてわたしたちの国が、何度もこんな目に遭わなきゃいけないのよ!」
オリビアがわなわなと体を震わせ、わめき散らした。
「オリビア、もう帰ろう」
袖を引くアンジェイの手を、オリビアは乱暴に振り払った。
「アンジェイ、あなたは平気なの?信じられない!」
「ねえ、オリビア、落ち着いて!」
いきり立つオリビアを、ベレニカが懸命になだめた。
「そうだよオリビア。アンジェイも俺もベレニカも、平気でいるわけがないんだから・・・・・」
ヤクブがさらに何か言いかけるや、
「おい、そこの女、いま何と言った?あぁ!」
ロシア語の怒声を放ったのは、極東から転属になっていた、ニコライ・ラリオノフ大尉だった。
ラリオノフは、そばにいたヤーコフ・チチェーリン曹長とアンドレイ・シナイスキー軍曹に向けて顎をしゃくった。
「イヤ!やめて!」
チチェーリンとシナイスキーは、悲鳴を上げるオリビアの腕を引っ張った。
「オリビア!」
叫ぶベレニカを、アンジェイとヤクブが懸命に制止した。
「この女はしばらく預かる。今日中に五体満足で返してやるから安心しろ。午後5時になったら、もう一度ここに来い」
ラリオノフはオリビアを車に押し込めて連れ去った。

オリビアはサルグツワをはめられ、ソ連領事館に連れ込まれた。
ラリオノフは、領事館付駐在武官の補佐役だった。
「フン!俺はな、お前みたいなポーランドのクソ女に手を出すほど落ちぶれちゃいねえよ!」
怒りと恐怖におののくオリビアに、ラリオノフは吐き捨てた。
「生きて帰りたかったら、俺の言うとおりにしろ。わかったか!?」
オリビアは頷くしかできなかった。
「跪け!」
さらにラリオノフの大声が飛んだ。
「尻を踵の上に乗せろ!」
正座などしたことがないオリビアは、苦痛と屈辱に顔を歪めながら、懸命に耐えた。
チチェーリンとシナイスキーが、後ろからオリビアの腕をつかんでいた。
「おとなしくしていろ。抵抗したら腕が折れるぞ」
ラリオノフはゆっくりオリビアに近づき、腰を下ろすと、オリビアの太腿と目を交互に見ながら、野卑な笑いを浮かべた。
「さて、たっぷり楽しませてもらおうか」
ラリオノフはゆっくりと倒れ込みながら、オリビアの太腿の上に自分の頭を載せた。
満州里で日本人芸者に膝枕されたときとは違う、だが甲乙つけがたい太腿の感覚にご満悦な表情で、ラリオノフはズリズリと自分の頭を動かした。
「うっ・・・・・ううっ・・・・・」
サルグツワをされたまま、すすり泣きとうめき声を漏らすオリビア。
我慢できずに頬をつたう悔し涙が、ラリオノフの顔に落ちていく。
「なんだ、泣いているのか?おい、悔しいか、あぁ!?グへへへヘ!」
ラリオノフは頭の動きを止めると、オリビアを見上げながら嘲った。
「おい!ポーランドのクソ女、よーく聞けよ。お前らが俺たちを嫌いなように、俺たちだってお前らは大嫌いだ。だがな、俺たちとお前らとは、離れられない運命なんだよ。ブハハハハハ!」

約束の午後5時になって、アンジェイ、ヤクブ、ベレニカの前に、車が戻ってきた。
オリビアが夢遊病者のように姿を見せた。
「オリビア!」
「うっ、う、ああーっ!」
ベレニカに抱き留められ、アンジェイにサルグツワを外されるや、オリビアは泣き崩れた。

ベレニカの家で、オリビアは一部始終を語った。
「それにしても、なんでまたそんなことを・・・・・」
アンジェイが訝しむと、落ち着きを取り戻したオリビアは、
「奴が言ってたわ。『日本の女に同じことをされてから病みつきになった』って」
と答えた。
「なんて下劣なのかしら!女の脚を何だと思っているのよ、ったく・・・・・」
いきり立つベレニカを、ヤクブが遮った。
「ちょっと待ってくれ。奴は日本の女って言ったんだよね?日本といえば・・・・・」
「ミコワイ・・・・・」
とアンジェイがつぶやき、オリビアの顔が曇った。
幼少期から共に過ごしたミコワイが、「リトアニアで日本のビザを手に入れる。そこから先はなるようになれだ」と言い残して姿を消し、その後どうなったかは知る由もなかった。

Ⅳ.
敗戦ですべてを失った日本においても、ユダヤ人の地下ネットワークは人知れず動いていた。
日本にもぐりこんだミコワイは、かつてのユダヤ人支援への恩返しとして、日本に進駐したアメリカ軍基地で、何でも屋の仕事を与えられていた。
満州や朝鮮等からの引き上げ船で、命以外の全てを失ったたくさんの日本人が戻ってきた。
その中には、シベリア抑留を免れるのと引き換えに、共産主義の拡大やスパイ行為をソ連から課せられた者もおり、そういう者を突き止めることも、ミコワイの仕事の一つだった。

ある日ミコワイは、引き上げ船から降りてきた一人の女性に、目が釘付けになった。
身寄りがあるようには思えず、行き倒れは時間の問題だった。
そういうことと関係なく、何か魅かれるものがあった。
地に足がつかずに、あてもなくさまよう姿を見て、ミコワイは迷わず女性を連れ帰った。

にわか覚えの日本語で話しながら、ミコワイが理解できた女性の身の上は、こんなことだった。
貧しい家に生まれ、身売り同然で芸者をさせられ、名前を胡蝶と変えられ、客である陸軍の将校に気に入られ、満州に渡ったこと。
なのにある日突然、ソ連軍の将校に膝枕をしたという理由で、遠ざけられてしまったこと。
ソ連軍の攻撃により、自分を抱えていた将校は戦死し、命からがら日本へ戻ってこれたこと。

膝枕という日本語は初耳なミコワイが、どういう意味かと問うと、
「やってみますか?」
と胡蝶は問い返した。
ミコワイがうなずくと、胡蝶は正座して自分の膝を指さし、
「ここへ」
とささやいた。
どうしていいのかわからず狼狽するミコワイは、胡蝶に手をとられ、静かに引かれると、ごく自然に身を横たえ、頭を彼女の太腿の上に乗せた。
「いったいこれは・・・・・」と思う暇もなく、戦争が始まってから日本にやってくるまでのいろんなことが目に浮かび、ミコワイの眼から涙がとめどもなく流れた。
無言で胡蝶に頭を撫でられ続けたミコワイが、
「このまま離れたくない」
とつぶやくと、胡蝶はこう返した。
「いつまでもこうしていてください。こうして私たちが出会ったのは、離れられない運命だったからじゃないかしら」
それを聞いた瞬間、ミコワイはハッと我に返って起き上がった。
「『離れられない』と言いましたね?」
と言うや、ミコワイはすくっと立ち上がった。
「二エ・モゲン・ビーシチ・・・・・ポドゥーシュカ・ナ・コラナ・・・・・」
唖然とする胡蝶を尻目に、離れられないと膝枕を意味するポーランド語を、ミコワイは繰り返しつぶやいた。

それからというもの、ミコワイは毎日仕事を終えると、胡蝶に膝枕をしてもらい、膝枕についていろんなことを尋ねた。
命の恩人の頼みなら、胡蝶にとっても悪い気はしなかったが、ミコワイが膝枕にしか興味がなさそうなのがやるせなかった。

Ⅴ.
ある日、オリビアに差出人不明の手紙が届いた。
オリビアは恐くて開封できず、アンジェイ、ヤクブ、ベレニカを呼んだ。
アンジェイもベレニカも気味悪そうな表情だったが、ヤクブは封筒を手にして一通り眺めまわすと、
「開けるよ」
と告げ、返事も待たずに開封した。
出てきたのは、ミコワイからの手紙だった。
ポーランドと日本の国交が回復しておらず、普通なら届くはずがない手紙が、様々な地下組織や裏社会を経て、オリビアの手に届いた。

ミコワイの手紙を読み進めていたオリビアは、最後の一枚を目にするや、顔が青ざめると同時に真っ赤になり、手紙をベレニカに突きつけた。
自分の太腿がソ連軍の将校のおもちゃにされたときと同じ光景が、挿絵として描かれていたのである。
「オリビアはロシアの奴にこれを・・・」・
絶句したベレニカから手紙を受け取ったアンジェイも、
「なんでよりによってミコワイも・・・・・」
と苦虫を嚙み潰した。
最後に手紙を手にしたヤクブは、ゆっくりと読むと、咳ばらいした。
「おいおい、みんなちゃんと最後まで読めよ。ミコワイはこう書いているぞ。『これで復讐してやるから、みんなも手伝ってくれ』って」
三人は復讐という言葉に驚いたが、ヤクブはさらに続けた。
「オリビア、あのロシア人は、君に何と言ったんだっけ?」
オリビアは露骨にイヤな顔をしたが、ボソボソと声に出した。
「俺たちとお前らとは、離れられない運命だ」
「それだよそれ!ほら、もう一度読んでみろ」
オリビアの目には、ミコワイが自分の頭を日本人女性の太腿の上に乗せているとき、「離れられない運命だったんじゃないかしら」と言われた・・・・・という記述が映った。
「これはどういうことなのよ!?」
怒髪天を突いたオリビアは、手紙を床に叩きつけた。
手紙を拾ったベレニカは、
「偶然にしてはでき過ぎているわね」
と訝しんだ。
「いやいや、偶然じゃない。離れられない運命なら、復讐のしがいもあるってもんだ」
ヤクブが勢い込むと、アンジェイが
「あっ!」
と大きな声を出して、内ポケットからグシャグシャの紙を出して開いた。
「みんな、これを知っているか?」
「うっ・・・・・ううぅ・・・・・」
知っていたオリビアは、両手で顔を覆ってすすり泣いた。
「やっぱり、そうだったのね」
ベレニカがかすれた声を絞り出した。
その紙は、ロンドンのポーランド亡命政府とつながっている、反政府組織によるアングラ新聞だった。
そこには、両脚が折りたたまれた下半身だけの女性の死体が、カチンの森事件で発見されたと記されていた。

「ということは・・・・・まさか!?」
アンジェイが絶句した。
「きっとそうよね」
もう何があっても驚かないという表情で、ベレニカがつぶやいた。
「そういうことだ。奴のしわざに違いない」
ヤクブが断言した。
オリビアはショックのあまり気絶寸前で、アンジェイとベレニカが必死に支えた。
「これは本当に復讐だぞ。オリビアがされたことを、ミコワイは知らないだろうが」
ヤクブはどこまでも冷静だった。

それからというもの、四人は人知れず集まって、ああでもない、こうでもないを繰り返した。
そしてある日。
「ついにできたか」
ヤクブが高まりを抑えるようにつぶやいた。
それは、カチンの森事件で発見されたかのような、女性の下半身だけの人体模型だった。
看護師を目指して人体を学ぶオリビアと、マネキン製作の経験もあるベレニカと、機械工学を学ぶアンジェイとの合作だった。
遠く離れたポーランドと日本で、地下組織や裏社会を経由して、ヤクブとミコワイは綿密に連絡を取り合った。

「でも復讐って、どうしたらいいのかしら?」
というベレニカに、ヤクブはいたずらっぽくウインクした。
「任せておけ」

Ⅵ.
ラリオノフの職場は領事館なので、外交行嚢(こうのう)と呼ばれる、外交官が持ち運ぶ袋が、頻繁に出入りする。
ある日ラリオノフは、外交行嚢の中身を見て、目を見張った。
人間の下半身だけの模型が、両脚を折り曲げた形で入っていた。
手を触れてみると、女の両脚以外の何物でもなく、本物以上に本物だった。
「なぜこれが外交行嚢に?」
という理性がすぐに吹っ飛んだラリオノフは、床に置いて膝枕を始めた。
満州里での日本人芸者や、ちょっと前に連れ込んだポーランド人のクソ女にも劣らぬ感触を、ラリオノフは時間を忘れて堪能した。

「そろそろ仕事に戻るか」
とつぶやいて、立ち上がろうとしたラリオノフは、異変に気づいた。
頭が模型の太腿にくっついたまま離れないのだ。
揺すっても引っ張っても離れない。
こんな恥ずかしい姿を誰かに見られてはたまらない。
だがはずれないことにはどうしようもない。
「××××××××××××!」
ラリオノフの絶叫が、領事館中に響き渡った。

「オリビア、あなたの出番よ」
ベレニカに言われ、オリビアは無言で頷き、インターン先の病院へ入った。
聞き覚えのある声での絶叫が響く病室に入ると、膝枕模型に頭を挟まれたラリオノフがのたうち回っていた。
「こんにちは、その節はどうもお世話になりました」
看護師の制服姿で、嘲り笑いを浮かべてバカ丁寧に挨拶するオリビアに、ラリオノフは絶句した。
「あのときおっしゃいましたね。『俺たちとお前らは離れられない運命だ』って。本当かもしれませんね」
冷たく言い放ち、オリビアが病室を出ようとすると、
「待ってくれ!助けてくれたら言うとおりにするから、何とかしてくれ!」
とラリオノフが叫んだ。
「言うとおりにするとおっしゃいましたね?」
振り向いたオリビアは、決然とした表情でラリオノフに告げた。
「あなたが犯した罪を正直に告白しなさい!ポーランド人女性の太腿に頭をうずめてやりたい放題の挙句、殺して切断して埋めたのは自分だ、と」
「××××××××××××!」
ラリオノフは断末魔の叫びを上げて崩れ落ちた。

Ⅶ.
それから幾日か経ち、ミコワイのもとにオリビアから手紙が届いた。
復讐の大成功に笑みを浮かべたのもつかの間、最後の一言を目にしたミコワイの表情は曇った。
「あなたが帰国するのを、首を長くして待っています」
社会主義国となったポーランドに、在日米軍基地で働くミコワイの居場所など、あろうはずがなかった。

その日、仕事を終えて帰宅したミコワイは、胡蝶に膝枕をせがんだ。
何も言わず、でも眠っているわけでもなく、じっとしているミコワイ。
胡蝶はためらいながらもささやいた。
「お国からお手紙が来たわよね」
ミコワイは無言で頷いた。
「あなたの・・・・・好きな人?」
ミコワイは反応しなかった。
やはりそうかとため息をついた胡蝶は、しばらくしてこうつぶやいた。
「その方、あなたを待っているんでしょうね」
するとミコワイは、ゆっくり頭を上げ、胡蝶の両肩に手を置いて告げた。
「返事を書いたよ。『僕は日本で、離れられない運命の人と出会ってしまった』と」
この日初めて、ミコワイと胡蝶は膝枕ではない形で肌を合わせた。

1957年5月18日。
ようやく日本とポーランドの国交が回復した。
二つの国の間で展開された、膝枕をめぐる悲しくもヘンテコリンな物語が、最終的にどんな結末になったのか知る者は、誰一人いなくなっていた。


この物語は全てフィクションであり、史実や実在の人物・組織等とは一切関係ありません。


2022年6月3日、本作品がClubhouseで膝開きされました。


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