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『現代思想入門』/本・現代思想

 わかりやすく読みやすい。
 新書という形態なので、個別のトピックについてはあえて深掘りしていかないけど、構造主義の手前からポスト・ポスト構造主義まで流れを追っていける。
 20年くらい前に(怖っ……)読んだ、『寝ながら学べる構造主義』が2022年版にアップデートされたような感じかしら。
 そのうえで、第六章「現代思想のつくり方」で現代思想的に問いを立てるための原理を紹介して、つまりそれは現代思想の仕組みを解説してるわけで、なおかつ付録の「現代思想の読み方」でも別のアプローチで同様のことを行なっていて、その点がすごくユニークでした。

 では、引用と感想とー。
 面白かったのもあって、結構たくさんになっちゃった……!

「現代」思想とは言いますが、もう古くなってしまったことは否めません。それは二〇世紀後半の思想であり、現代世界はその頃からだいぶ変わっています。それに、インターネットが登場する以前の思想なわけです。
 今、現代思想の本を読むのはかなり難しいと思います。
 デリダを読もうと思ったら、その前段階である「構造主義」の理解が少しは必要だし、ラカンの精神分析(中略)の知識が前提になっていたり、暗黙の前提が多いのです。(中略)
 専門家であっても、いきなり素手で読んだのではなく、大学の先生や先輩との会話のなかで「デリダとかってだいたいこういうもんだ」というある種の常識を聞かされて、「そういうもんか」と読み始めたはずなのです。しかし、一般読者にはそういう機会がありません。ですから本書では、プロの世界でここ三〇年くらい「そういうもんだ」と思われてきたところの現代思想の基礎を一般に開放したいと思います。

p.17-19

 という感じの本書の目標というか意義というか。「入門のための入門」とのことで、助かるー。


 生成変化は、英語ではビカミング(becoming)、フランス語ではドゥヴニール(devenir)です。この動詞は、何かに「なる」という意味です。ドゥルーズによれば、あらゆる事物は、異なる状態に「なる」途中である。事物は、多方向の差異「化」のプロセスそのものとして存在しているのです。事物は時間的であり、だから変化していくのであり、その意味で一人の人間もエジプトのピラミッドも「出来事」なのです。プロセスはつねに途中であって、決定的な始まりも終わりもありません。

p.66-67

 以前読んだ『時間は存在しない』を思い出した。こんな箇所。

(引用者:第1部において)時間はすでに、一つでもなく、方向もなく、事物と切っても切り離せず、「今」もなく、連続でもないものとなったが、この世界が出来事のネットワークであるという事実に揺らぎはない。時間にさまざまな限定があるいっぽうで、単純な事実が一つある。事物は「存在しない」。事物は「起きる」のだ。(中略)
 科学の進化全体から見ると、この世界について考える際の最良の語法は、普遍性を表す語法ではなく変化を表す語法、「〜である」ではなく「〜になる」という語法なのだ。

『時間は存在しない』p.97 p.98

 がんばれ、接客用語としての「〜になります」! というか、最近聞かないような気がするな。世間の風に負けてしまったかな……。


(引用者:精神分析の「トラウマ」に対して)ドゥルーズ+ガタリが行った批判は、すごく簡単に言えば、人間の振る舞いはそんな小さい頃の家族のことだけで決まってるわけじゃない、ということです。自分自身をごく狭い範囲=家族における同一性だけで考えるのはリアルじゃない、というのです。

p.69

 なんか、当たり前といえばそうなんだけど、へー、というか、『アンチ・オイディプス』がその書名どおりの批判的な意味を持つことをちゃんと認識していなかったな……。なんていうか……単にタイトルとして捉えていたよ……自分は愚かすぎる。


 人間は、脳神経が過剰に発達しているので、本能から自由に、より多様な行動がとれるように進化してしまった。そしてその自由度に対して何らかの制約を加えないと、何をしていいかわからなくなってしまうのです。これが人間がさまざまなレベルで感じる不安の根源です。(中略)
 だから、自己啓発的なアドバイスには、人間にある種の決めつけを提供することで安心させるものが多いのではないでしょうか。「ああではなくこういう生き方をしなさい」と言われると人は安心する。ところがそれは長く効力を持たないので、またその手のアドバイスが必要になる。そうであるがゆえに、自己啓発本は似たようなものがたくさん刊行さ
れているわけです。

p.70

 ははは、これは手厳しいね!
 まあ、自分はあんまり自己啓発系が好きじゃないので、こういう文章を読んで安心して「ところがそれは長く効力を持たないので、またその手の文章が必要になる」みたいなところもあるかしらねえ。


 生政治は内面の問題ではなく、もっと即物的なレベルで機能するものです。たとえば病気の発生率をどう抑えるかとか、出生率をどうするかとか、人口密度を考えて都市をどのように設計するかとか、そういうレベルで人々に働きかける統治の仕方です。(中略)
 近現代社会においては、規律訓練と生政治が両輪で動いていると捉えてください。その上で、今日では、心の問題、あるいは意識の持ち方に訴えかけてもしょうがないので、ただもう即物的にコントロールするしかないのだという傾向がより強まっている
と言えると思います。つまり、生政治の部分が強くなってきている。
 たとえばタバコの問題にしても、「タバコは健康に悪い」と言ったって吸う人がいるなら、もう単純に吸える場所を減らしてしまえばよい、ということになる。これは即物的働きかけですから、生政治だと言えます。あるいは、心の問題に関しても、昔だったら、もっと話を聞くことが重視されていたところ、それでは時間もかかるし薬で解決すればよい、ということになっていく。「心から脳へ」という最近の精神医学の転換も、大きく言えば、生政治の強まりだととることができます。

p.98-100

 すごくわかるし面白いんだけども、ここで引用したタバコの例やその直前に挙げられてたコロナやワクチンの例でも、実際に生政治的な働きかけはあると思うにせよ、それを感情的に訴えかけることが多いような気がするのはなんなんでしょう。巧妙なやり口的なことなのかな……。


 暴れ出そうとするエネルギーとそれを抑えつける秩序との闘いに劇的なものを見る、言い換えれば、善と悪、光と闇の対立があるところに、どちらかをとるのではなく、その拮抗状態にこそ真のドラマを見る、なんていうのは今日のコンテンツではよくあ
るもので、みんなそういうドラマ性を当たり前だと思っていると思いますが、それをはっきり形式化したのはニーチェなんです。

p.116-117

 学生時代に、ファンタジーのことを考えるのにヘーゲルの弁証法がなんらか面白いのでは、と思って齧ってみたことがあった。ぜんぜんわからなかったので、さっぱり使わなかったうえに内容をまったく覚えていない。旅行先の安い民宿で読んだことだけは覚えている。
 それはそうと、そうか、ニーチェだったか。なるほど、タイムスリップすることがあったら伝えてあげよう!


 意味以前の現実界とは何か。それは成長する前の、あの原初の時です。刺激の嵐にさらされ、母の気まぐれに振り回されていた不安の時、不安ゆえの享楽の時です。それが認識の向こう側にずっとあるのです。

p.162

 ラカン難しくてぜんぜんわからんけど、三界の話がかっこいいから好き。抽象性と応用性が高くて詩的な感じがするので。前も書いたような気がするけど、雰囲気で現代思想の本を読んでいるんだ……。 
 でも著者も「本書は、専門家としてと言うより、一〇代から、フランス現代思想に憧れ、リゾームだの、脱構築だのと言ってみたい! という『カッコつけ』から出発した現代思想ファンの総決算として書いたのかもしれません」(p.243)って言ってるからね! 並べたら失礼ですけどね!


 ここでラカン理論の変遷について述べておきます。「想像界から象徴界優位へ」という話は五〇年代の初期ラカンで、その後、六〇年代に現実界の位置づけが問題になります。ラカンは六〇年代=中期以後に現実界を重視するようになった、と覚えてください。

p.162

 これはもう単純にメモメモー。


(引用者:フーコーの規律訓練の概念のポジティブな面として)人は規律訓練を求める。なぜか。認知エネルギーが溢れてどうしたらいいかわからないような状態は不快であって、そこに制約をかけて自分を安定させることに快があるからです。しかし一方では、ルールから外れてエネルギーを爆発させたいときもある。
 ここで「儀礼」というキーワードを出したいと思います。(中略)なんでそんなことをやっているのかその根本の理由が説明できない、たんにドグマ的でしかないような一連の行為や言葉のセットのことです。
 人間は過剰な存在であり、逸脱へと向から衝動もあるのだけれど、儀礼的に自分を有限化することで安心して快を得ているという二重性がある。そのジレンマがまさに人間的ドラマだということになるわけです。どんなことでもエネルギーの解放と有限化の二重のプロセスが起きている儀礼である、という見方をすることで、ファッションでも芸能でも政
治でも、いろんなことがメタに分析できるようになります(こうした見方は文化人類学的なものであると言えるでしょう)。そして、儀礼とは去勢の反復だと言えます。

p.167-168

 この辺、学生時代に感じた違和感ともどかしさが言語化されていてすごくスッキリ。やっぱり規律訓練の快感ってあるよね? それ自体がどうのこうのって話ではないんだけど。テーマにはならなかったんだけど、イマイチ目上の方たちと共感できなかったところなんだよなあ。懐かしい。


 綴り間違いに見える言葉を新概念として提示することの自己正当化、つまりは言い訳を繊細に書くことで、みんなが信じているものへのひじように嫌味ったらしい挑発が行われるのです。僕は、これこそが知性だと思いますね。

p.239

 付録「現代思想の読み方」で、デリダの文章をとりあげて、その解説のまとめ箇所。
 ここを読んでいて、なんて言っていいか言葉にしづらいんだけど、本書が初心者向けの入門書としてわかりやすく書かれながらも、(悪い意味じゃなくて)どことなく不穏な感じというか挑発的な気配がするのは、上の引用が背景にあるんじゃないかなあ……って。いや、文章はぜんぜん嫌味な感じじゃないんだけど、なんでかな、そんな感じがするとしか言えないんだけど……。

 あー、たくさんの引用になっちゃった。終わります! では!

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