私が経験した、怖すぎる昔の韓国生活

20年前の寒い冬。私は韓国のソウルで留学生活を始めた。寒くてなんとも寂しい風景だったが、石を目にした雪だるまが歓迎してくれている、と私は一人で思っていた。

私の住まいは、ひと月日本円にして約29000円の下宿で、下宿の主人は御年85歳くらいに見えるおばあさんだった。おばあさんは第一印象穏やかな感じの方で、私が韓国語で〈チャルプータットゥリムニダ(よろしくお願い申し上げます)〉と挨拶すると、穏やかに笑ってくださった。

ところが下宿生活1ヶ月を過ぎたあたりから、おばあさんの性格が一変した。この下宿はトイレにシャワーも共同だったのだが朝早くトイレに入っていると、
〈コンコン〉
とトイレの戸を誰かがこずくので
〈ネー(はい)〉
と言うと、
〈ファヂャンシレ チャンムン タダッタガ ナワ(トイレの窓閉めて出てこい〉
と外の人が言ったのだが・・・これがおばあさんの声だった。

それから2日後、また朝早くトイレに入っていると、また
〈コンコン〉
とくるので、
〈ネー〉
と言うと、今度は返事がない。変だなと思いドアを開けると、
〈チャンムン タダッタガ ナワ(窓閉めて出てこい〉

それは間違いなくおばあさんだった。おばあさんはなぜか雑巾を噛みながら
立っていた。私は〈ネ、ネー・・・〉と言って
ぱたんと戸を閉めた。向こうに行く
〈ヌッヌッ・・・〉
という足音を確認してから、密かに戸を開けるとおばあさんはなぜか棒を持っていた。その姿はなんだか刑務所の看守のようだった。

この下宿は、下宿代を月ごとに現金でおばあさんに渡す決まりになっていたのだが、おばあさんは私から現金紙幣を受け取るその度
〈ハナ~ドゥル~(一枚~二枚~)〉と相当でかい声で笑いながら数えるので、私はいやでも韓国語数詞を覚えたものだった。

この下宿には門限はなかったが、私がある日晩の11時半頃に帰宅すると、
2階から灰皿か何かを放り投げる音が聞こえた。その後に、間違いなくおばあさんの声がした。

おばあさんの人格は日ごとに激しく入れ替わった。おばあさんは子供さん夫婦とお孫さんが来られた日は別人のように穏やかな顔で、私や下宿生に接するときはそれは厳しい顔をすることがあった。ある日は、2階で下宿生の女の子と激しく口論し、また私が掃除機を貸してください、といったが髪の毛が入るから駄目だと言う。また下宿の朝食と夕食はおばあさんが作ってくれたのだが、唐辛子の量が日に日にみるみる増えて、食べ物はそのうちすべて真っ赤っ赤と化して、辛すぎて食べられなくなり下宿で食事する学生はしだいに減っていった。今考えると、おばあさんはお歳のためか、または別の理由で味覚が麻痺していたのだろう。

下宿はかなり古い建物だった。知り合いの韓国人によると、〈1970年代の水準〉の建物だった。水道管が腐っていたせいか緑黄色の水が出た。ただ、下宿に住む人達はほぼみなさん地方からソウルに出てきた方々で、みなさんすごく優しかった。

私はある日肺炎になって入院し、その後その下宿を離れたが引っ越しを下宿の先輩が手伝ってくれた。また下宿を去る日、隣の人がなぜか〈いろいろ助けられなくてごめん〉と韓国語で私に言うのだった。

それから数ヶ月。留学先の学校で、コンピューター室が空くのを待っていたとき下宿で一緒だった学生に会った。彼はおばあさんが亡くなった、と私に知らせてくれた。


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