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【創作大賞2024恋愛小説部門応募作】『もう、忘れていいよ』(4)


#創作大賞2024 #恋愛小説部門

「もう、忘れていいよ」
この言葉に
きっとあなたは救われる

第8章『長女の嫁入り』

 今日は俺たち家族がもう一度家族として再出発するための大勝負の食事会。節子の結婚が決まったと和雄に嘘をいい、17年ぶりに家族で食事をしようと呼びかけた。以前何度か仕事の接待で使ったことのある、中華料理のレストランを予約した。
それぞれが集まりやすい場所にあり、何より静かでセンスのいい個室が用意され、味も抜群にうまい。
中国人の劉も、この店なら満足してくれるだろう。
一番の心配は、和雄がちゃんと出席するかだ。
考えておくといったきり、返事をもらっていない。
店に予約の30分前に到着した。
店員に予約の名前を告げると、先客が居るという。
部屋に通されると、どこで借りてきたのか背広にネクタイ姿で和雄が座っていた。
「おう!早く来すぎたよ」と和雄が照れている。
「良かったよ。来てくれて」
一番心配していた、和雄が来てくれた。
今日はこれで全部うまいくいくと確信したら、一気にテンションがあがった。
「来なかったら一生怨まれて、葬式にも来てもらえないもんな」
「もう、そんなことまで、考えているのか」
和雄は顔では笑っているようだが、緊張している様子が伝わってくる。
「ほんと、ありがとう。今日は人生の中で、たぶん2番目に最高に嬉しい日だよ」
「そうか。一番じゃないんだな」
「ああ。一番は生涯愛する女と、結ばれた日かな」
「お前も俺に似て、ロマンティストだな」
冗談をいいあっていたら、珠枝が入って来た。
珠枝は予告どおりに、洒落たワンピースに控えめにジュエリーをつけている。
和雄も珠枝も、お互いを一瞬見て和雄が立ち上がり、真っすぐに珠枝を見て「しばらくだった……すまなかった……」といって深く頭を下げる。
珠枝も小さく頭を下げる。
いつまでも、このままの状態が続きそうなので、
「まあ、親父も、母さんも座ってよ」と促す。
和雄と珠枝が離れて座ろうとしているから
「一応夫婦ってことになっているんだから、離れて座るのはおかしいでしょ」
和雄も珠枝も驚き、ふたりが同時に
「そうなのか?」「そうなの?」
「そうだよ」
同時に節子と劉が入って来た。
節子は明るめのスーツにいつもと違い、きちんと化粧をしているから、大学で会うのと大分雰囲気が違う。
劉もセンスの良いスーツを着ていて、実際の年齢よりかなり上に見える。
皆がそれぞれになんとなく緊張している。
あらかじめ劉と節子には、和雄と珠枝の仲直りをさせると告げておいた。
節子は和雄に少し距離をおきながらも、いつもと変わらない態度で接した。和雄も珠枝に続いて、節子に久しぶりに会えて、すっかり成長した姿に嬉しそうだ。
劉も軽く挨拶をし、皆が一旦席についた。
美和子は遅れると連絡があったので、先にはじめることにした。
俺が先に、劉に両親を紹介した。
次に劉がスマートな身のこなしで立ち上がり「はじめまして、劉寛喜(りゅうかんき)と申します。中国の北京からまいりました。日本に来て二年になります。節子さんと同じ大学で、日本の文化の研究をしてます。来年の春には中国に帰る予定です」
店員が飲み物を運んでくる。それぞれが、グラスにビールをつぎあいう。「今日はこうして、皆で集えたことに感謝して、乾杯!」
今日のビールは、特別にうまい。
和雄も劉にビールをつがれて、一気に飲み干す。
珠枝が劉にビールをついであげ
「日本語がとてもうまいですけど、どうやって勉強されたんですか」
「はい。私の祖父も父も、若い時に日本に留学していました。なので子供の頃から、日本語は、とても自然に身につけることができたのです」
「そうですか」珠枝は感心したように劉に微笑む。
「祖父は中国の共産党の幹部をしていますが、父は外交官として今はイギリスに赴任しています」
といって劉が名前を挙げた祖父は、参加した全員が知っているお偉いさんだ。
改めて劉の家柄の良さを実感した。
節子が劉との結婚をしぶるのは、このような家柄に嫁ぐことへのためらいなのかと思った。
確かに一般庶民の我が家とは、いい方は古いが家柄や身分が違う。
お料理が運ばれて来て、節子が皆に取り分ける。
劉がさりげなく、節子を手伝いながら
「私はこれまで中国、アメリカ、イギリスの大学で学び、沢山の方々と交流してきました。その中で節子さんのように優秀で、誠実でしかも、とびきりの美しい方ははじめてです。私は節子さんにお会いした時から、この人と生涯をともにしたいと思いました」
はたで見ていてもわかるくらいに節子の顔が上気していた。
黙って聞いていた和雄が「そのように我が娘を評価して頂いて嬉しいですが、私も妻も平凡な学のない人間です。あなたのような、素晴らしい家柄の方とは違いすぎます」
劉はきっぱりと、しかし穏やかに「お父さん。私は人間としての価値は家柄や学歴、仕事などで評価するべきではないと思います。その人が今まで何をして生きてきたか。またこれから何をしていこうとしているのか。その行動を評価するべきだと思います」
さすがの劉の言葉に、和雄も珠枝も納得したようだ。
緊張した空気をほぐすように珠枝が明るく「まぁ、おいしそう。頂きましょう」
皆で食事を食べ始めた時に、美和子が入って来る。
「遅くなってごめんなさい」
さすがの美和子だ。パッと場のムードが明るく和やかになった。
美和子と劉が挨拶を交わし「いや~、劉さん。話には聞いていたけど、イケメン~!俳優さんみたい。節姉、いい人ゲットしたわね」
劉もすかさず「澤田家の3人の女性に、一度にお目にかかれて驚きました。このように美しい3姉妹とご一緒できて」
あからさまなお世辞にまんざらでもない様子の珠枝が「まぁ、3姉妹だなんて。恥ずかしいわ」
料理が次々と運ばれてくる。
美和子が食べて「わ~、おいしい!節姉もお料理作るの、うまいんだよね。劉さんはもう節姉の手料理を食べましたか」
劉が何と答えるかヒヤヒヤしたが、劉から以外な答えがかえってきた。
「はい。食べました」
驚いて劉を見て「えっ!ホントに?」
劉と節子は手料理を振舞う仲に、進展したのかとつっこみたくなった。
「いつ、どこで?」と俺がせっかちに聞くと、劉がにこやかに
「私たち留学生を囲んでの歓迎のレセプションが、大学のゼミクラスでありました。そこで節子さんが日本料理を50人分作ってきてくれました」
美和子が大声で「50人分!ちょっと、節姉それホント!」
節子は、恥じらいながらも「本当よ」
和雄も驚き「それは、凄いな」
劉は嬉しそうに「しかも連日様々な行事や授業があり、それのどれも節子さんは全力で取り組んでいました。かなり疲労が溜まっていたと思います」
劉は将来外交官として、世界中を駆けまわらなければいけない。どんな状況でも対応しサポートできる、妻も同じ影の外交官でなければならない。
劉は節子にその資質があることを見抜き、生涯のパートナーとして選んだんだ。
節子が顔を赤らめて、控えめに諭すように
「そんな、たいしたものじゃないのよ。劉さんは大げさにいいすぎよ」
劉は真剣な顔で「先程もいいましたが、先生という立場でそのようなことをしてくれる人を私は、今まで見たことがありません」
美和子がちゃかすように「それは劉さん、惚れるわね~。節姉は昔からそうだよね。自分の姉ながら “このひとスゴイって”尊敬してます」
俺も便乗して「節姉はいつも俺たちの面倒を、嫌がらずに見てくれたよな。小さいお母さんって感じだよね」
珠枝も微笑みながら「私が仕事に出ていましたから。節子には姉弟の面倒や、その他のこともよくやってもらいました。時には節子の方が私よりしっかりしていて。節子には随分と助けられました」
劉以外の皆が、なんとなく和雄を見る。
和雄はバツがわるそうに、酒を一気に飲む。
そして決意したように、和雄が話しはじめる「劉さん。実は私達夫婦は、17年前に離婚しました」
皆が何をいい出すのかと、和雄に注目する。
「離婚の原因は私です。他に好きな女性ができて、家族を捨ててその女性と一緒になりました。その後妻が一人で、この三人の子供達を立派に育ててくれました。その女性とは今は別れましたが、本当は私はここにこうしていられない人間なのです」
皆がじっと和雄の話に、耳を傾ける。
「その父親失格、人間失格の私を、こうして暖かく受け入れてくれる。この家族はそういう家族なのです。私以外はどこに出しても恥ずかしくない、素晴らしい家族です。どうぞ、これからも末永くよろしくお願いします」
和雄は立ち上がり、その場に土下座した。
皆が驚いた。
劉が立ち上がり、和雄に寄り添い立ち上がらせ。
「お父さん、どうぞお座りください」
和雄が席に着いたのを見計らい、劉が立ったまま「中国の古い物語にこのようなお話があります。ある国のお姫様に恋をした、農民の男がいました。農民の男はとても働き者で、いつも人のためになることをして、皆から尊敬され慕われていました。お姫さまも、その農民の男に恋をします。やがてふたりは、結婚の約束をしますが、身分の違いから父親である王様に反対されます。その時に母親であるお后が重い病に倒れます。その土地では山の神に、若い男の魂を捧げると重い病が治るといういい伝えがありました。その農民の男は、自ら進んで自分の命を山の神に捧げると申し出ます。その時に、農民の男が自分の勇気の決意を語った歌を、今ここで歌います」
劉の中国語で美しい声が、静かに響き渡る。
中国語だから歌詞はわからないが、ぐっと胸に迫る。
気がついたら泣いていた。
劉以外皆が泣いた。
劉の歌が終わっても、しばらく何もできなかった。
和雄がゆっくりと拍手をした。
そして皆が拍手した。
劉が居住まいを正して「お父さん、お母さん、節子さんと結婚させてください」といって深く頭を下げる。
和雄も珠枝も頭をさげ「よろしくお願いします」
劉が節子に「節子さん、私と、結婚してください」
皆が節子に注目する。
節子も立ち上がり恥じらいながらも、しっかりと劉を見つめて「はい。喜んでお受けいたします」といって頭をさげた。
美和子とお互いに大きくガッツポーズをした。
それからは打って変わって、賑やかな宴会となった。
和雄が持ち前の能天気さを発揮して、場を盛り上げた。
もしもここから参加した人は、この家族が17年間も崩壊していた家族だとは思えないだろう。
思い出したように美和子が「ねぇ、劉さん。さっきの物語の最後は、どうなるの?」
「どうなると思いますか」劉が笑顔で答える。
「え~やだ。農民の男は、死んじゃうの~」
「いいえ。その男の勇気によって、山の神がお后の病を治し、そして王様もの結婚を許してくれ結婚します。その後ふたりの間には、十一人もの子供に恵まれ、子供たちがそれぞれ立派に国の王となり末永く幸せに暮らしました」
「あ~良かった。やっぱり最後は、ハッピIエンドじゃなくちゃね」と美和子はとびきりの笑顔になる。
デザートの杏仁豆腐が運ばれてきた。
ここの店の一番のおすすめと説明する。
節子が静かに語りはじめた。
「劉さん。我が家はもうおわかりいただいたように、普通の家族ではありませんでした。私は父を許せないと思うこともありました。でも今はこの両親の子供で良かった、と思っています」
皆が節子に注目する。
「お父さん。私がお母さんを一生守ると誓いました。でも今日からお父さん、あなたがお母さんを守ってください。それが私たちの願いです。どうか家に帰ってきてください」節子が頭を下げる。
俺も、美和子も、頭を下げる。
和雄が珠枝を見る。
珠枝も黙って頷く。
和雄が困ったように「いいのか……それで、いいのか」
劉が和雄の背をそっと支えて「いいんですよ」
「親父、過去の嫌な思い出は、みんな忘れようぜ。俺たちはこれからを一緒に生きて行こうよ」
和雄は観念したように「ありがとう。みんな本当にありがとう」と涙をそっと拭う。
珠枝に向かい「どうぞよろしくお願いします」と和雄が深く頭をさげる。
珠枝も居住まいを正して「はい。こちらこそよろしくお願いします」
さすが節子だ。
ここまで決めてくれて!心のなかで大声でバンザイをしていた。
会計を済ませ全員で店の外に出た。
皆がなんとなく別れ惜しい。
劉がにこやかに「それでは私は、お姫さまをお送りします。送り狼にはなりませんからご安心を」
美和子がすかさず「節姉、いいな~。私も劉さんみたいなステキな王子様が、早く現れないかしら。劉さん、誰か紹介してくださいよ」
「それは自分で見つけるしかありません。ステキな美和子さんです。必ず見つかります」
「もう劉さんにいわれると、何でもその通り!って思っちゃう~」
皆で和やかに笑い合う。
劉と節子が並んで、帰って行く。
その姿を見つめて、美和子が「うまいくいったね。ここまで完璧に外堀を固められたら、頑固な節姉も降参だったね。節姉も哲也に背中を押してもらって、きっとすごく感謝していると思うよ」
「でもあのふたりは、どんな回り道をしても、結局結ばれる運命だったんだよ」
「そうだね。ここにも大きな回り道をして、戻ってきたおふたりがいるけど」美和子が、和雄と珠枝を見る。
まだバツが悪くよそよそしい和雄に、普段どうりに接する珠枝。
そんなふたりを見て「やっぱり女はスゴイよ。いざという時、ビックリするくらい腹が据わってやり抜くもんな。この世は女でもっているって、つくづく思ったよ。我が家も完璧、そうだしな」
美和子がみんなの顔を見回しながら「哲也も、お父さんも、ここぞって時は、しっかり支えてくれるじゃない。やっぱり、この世は男と女、両方がいてうまいくいくのよ」
和雄が近づいて来て「悪いが今晩は、お前の所に泊めてくれないか」
「ああ、いいよ」
珠枝が改めて「哲也、今日は本当にありがとう。すべて哲也のお陰よ。感謝するわ」
「そんな、いいよ」と照れる。
珠枝と美和子が、一緒に帰っていく。

和雄と一緒に並んで帰りながら、途中でもう一軒行くかと誘ったが、和雄は珍しく断りおとなしく一緒に自宅に戻った。
和雄は部屋にはじめて入ると「ずいぶんとちゃんとしているじゃないか。キレイ好きは、母さんに似たな」
「そうかもな。物を探すのがいやだし、物があふれているのもいやなんだよ」
確かに俺の部屋は物が少なく、ちょっと殺風景な印象だ。
「美和子だよ。この間久しぶりに実家に行ったら、別れた男からもらった物であふれてたよ」
和雄はどかっとソファに座って「美和子は俺に似たんだ。あの明るい性格もな」
「そうだね。俺と節姉が珠枝さんで、美和子が親父。うまくできているな」俺はまどかの父親のことを話した。
同じ父親として、和雄ならどうするか聞いてみたかった。
「そんなことがあったのか。お前も大変だったな。そうだな。もしも節子か美和子が、同じようなことになったら、俺ならまずは自分をとことん責めるだろうな。親として育て方が間違ったのか、自殺する前にもっと話を聞いて、思いとどませることができなかったかとな」
和雄は神妙な顔で少し考えて顔を上げて「とことん悩んで落ちこんで、苦しんで、でも娘の分まで精一杯生きて行こうと努力するな。俺がお前の父親だから、いうんじゃないが」
「ああ」和雄の父親としてのやさしさを感じて、胸が熱くなる。
「お前は、悪くないさ」と和雄が少し困ったような顔をする。
「えっ」和雄の真意がわからなくて、問いただすようにみる。
「確かにお前は、彼女を傷つけることをした。でもそれはお互いの合意のもとで、したことじゃないか。まどかさんだっけ。結局自分の思い通りにいかなかったことを、他人のせいにして現実から逃げたんだよ」
「そうかな」頭では納得できても、気持ちはざわつく。
「彼女自身の問題だよ。もしかしたらお前とのことがなくても、彼女は何か別のことで挫折して、それがきっかけでそうなるかもしれない。人間ってずるい生き物だから、何か嫌なことや、失敗を責任転換する。逃げるのが得意な生き物さ。まぁ俺もそうだからな。偉そうなことはいえないな」
「親父のいうことは、頭では納得できるけど、気持ちがついていかないんだ。罪悪感というか後悔ばかりでさ。でもまどかのことから、生き方を変えようと思ってもがいているさ」
「そうだな。俺もおまえたちには、ほんとうに罪悪感と懺悔の気持ちで一杯だよ」
「でも、親父の今の話で救われたよ。これからどうやって、償いをしたらいいのか、悩んでいたんだ」
「悩むことは大事だぞ。悩まないと自分を見つめないし、そこから成長しない。だが悩みに押しぶされてもダメだ。しっかりと、一つずつ乗り越えて行かないとな。ってずいぶんと偉そうだな」
「俺今まで、全然悩んでこなかったんだ “まっ、いいか~”で終わっていたし」
「でも今日の哲也を見て、本当に嬉しかった。父親らしいことは、何ひとつしてこなかったし、かえって悪いお手本になってしまったしな。そんな俺を受け入れてくれてありがとう」と和雄が頭を下げる。
「やっぱり親父は、俺にとって親父なんだよ。それは節姉も、美和子も一緒だよ」
それから和雄と朝まで語り合った。
お互いの空白の時間を埋めるように話は尽きなかった。
いずれ誰かと結婚し、家庭を築くだろう。
そうなるまであとどれくらい、こうして親子でいられるのだろうかと思うと、この瞬間がとてもいとおしく思えた。
数日後、節子から携帯に連絡があり、節子の勤める大学に向かった。
いつもの学食で待っていたら、節子がさなえと一緒に来た。
さなえは前より顔色もよく、少しふっくらしたようだ。
「森田さんが、哲也にお礼がいいたいというので」
さなえが、恥ずかしそうに「あの時は、色々ありがとうございます。あれからまた食べるのが楽しくって、もう5キロも太ってしまいました。でも、みんなが今の方がいいって」
「俺もそう思うよ」
「あと夏休みにニューヨークに行ってきます」
さなえのとてもふっきれた様子に心底うれしくなり「楽しんできてね」
さなえが笑顔で軽く会釈をして「ありがとうございます。これから授業があるんで、失礼します」
さなえを見送って節子が「このあいだはありがとう」
「婚約おめでとう。嬉しいよ」
「劉さんのこと好きだったけど、結婚となると障害がありすぎて、踏み出せなかったの」
「障害って?」
「わかったと思うけど、彼は私なんかとはつりあわないほどの家庭に育った人だし、これからも、国を代表する仕事につく人だし。父のことも、大きな障害だったわ」
「親父が家を出たことが」
「正確には “お母さんを一生守る”っていった自分を縛りつけていたのかな」やっぱりそうだったんだ。節子は珠枝にいったことに縛られていたんだ。「でも哲也に “もう、忘れていいよ。今度は、俺がお母さんを一生守る”っていってくれて、心が軽くなったわ。それで、劉さんと結婚しようと思えたの」
「俺も役にたったんだ」
「哲也の“もう、忘れていいよ”は、魔法の言葉よ。実際には忘れなくても、そういわれたことで、一歩前に踏み出すことができるもの。さっきのさなえちゃんだってそうでしょ」
「そうだったら。嬉しいな」
「思ったんだけど、臨床心理師の資格取ってカウンセラーになったら。もっと上を目指して精神科医になってもいいじゃない」
「俺が?考えたこともなかったよ」
「じゃあ、考えて。哲也は向いていると思うよ。教師の私がいうんだから、信じて。私の哲也への“忘れさせ屋”の報酬」といって節子が封筒を差し出す。
「そんな。節姉からもらえないよ」
「気にするほど、入ってないのよ。たまには姉らしいことさせて。そのかわり、お父さんとお母さん、よろしくね」
「それは任せておいてくれよ。俺も、一応長男だし」
「そうだね」
「聞きたいんだけど」
「何?」節子の警戒心のない反応に躊躇(ちゅうちょ)するが。
「いや~さ。その後劉さんが、送り狼になっていないかな~って」
節子はうろたえて、顔を赤らめて「ちょっと。何いってるの。からかわないで」
「真剣に聞いてるんだよ。これは男として大事なことだし」
節子はきっぱりと「劉さんは誠実な人よ。その時まではしないわ」
「その時って、結婚して初夜までってこと」
「そんな具体的にいわなくても」
「結婚いつするんだよ。劉さんそれまで我慢できるのかな」
「もう、この話はおしまい」
そんな蛇の生殺し、俺は我慢できないな。
劉のいう通り本物の恋とは、そんな雑念も乗り越えるほどの深い所で結ばれることなのかもしれないな。
あの占い師女性がいった、生涯愛し合える運命の女性に早く会いたいと何度も心に念じた。

 
第9章『あなたの子どもを産みたいの』

 節子から勧められた臨床心理士を本気で目指そうと思うようになり、いろいろ調べるうちに、まずは、大学院に入って専門知識を習得しなくてはいけないことが分かった。
また学生に戻って勉強することはいいとしても、このままの状態で生活はしていけない。
何かアルバイトを見つけようと思いたった。
近所の宅配便の集積所で、配達員募集の張り紙にその場で応募した。
とにかく時給が良かっが、その理由は後になってわかった。
午前8時から、午後4時まで働くことになった。
翌日は初日ということもあって、早めに出勤した。
仕事は運転手の助手で荷物を配るのだが、パートナーの運転手は、後藤まりなという女性だった。
アイドルのような名前とはそぐわない、大柄で逞しい印象だ。
きっと昔はヤンキーだっただろう、と思わせる印象だ。
係長という男性が、トラックにもたれてタバコを吸っているまりなに俺を紹介した。
まりなはぶっきらぼうに「よろしく」と軽く頭を下げた。
同じく軽く頭を下げて「よろしくお願いします」といいまずはまりなという女性とうまくやろうと思った。
荷物をトラックに積み終わり、まりなの運転で出発した。
助手席に座っていて思ったが、まりなは運転がかなりうまい。
申し訳ないが女性の運転には、不信感がある。
前に少し付き合った女性がスピード狂で、危うく事故に巻き込まれそうになったことがある。だから仕事とはいえ、まりなが運転手と知らされた時嫌だったが、その思いは打ち消された。
時給がいい理由が、仕事を始めて3時間が経った頃にはわかった。
とにかく仕事はキツイ。
まりなも同じように働くから、キツイはずだ。
でも黙々としかも、テキパキと俺に指示をしながら、仕事を進めていく。
まりなは意外とできる女だというのが印象だ。
やっと、ひと段落したのは、午後2時を過ぎてからだ。
昼食は車を停めて、公園でとることになった。
俺は近くのコンビニでお弁当を買ったが、まりなは自分で作ったというお弁当を出した。
ちらっと覗くと、まりなの弁当は彩りもよくうまそうだ。
やはりこれも意外だった。
人は外見で判断してはいけない。
食事中もあまり話しをしなかった。
短い食事が終わり、またすぐに仕事に戻る。
このリズムで、毎日仕事をするのかと思うと憂鬱(ゆううつ)になった。
一週間が過ぎた頃、大分要領がわかり手際よく仕事ができるようになった。仕事が速く終われば、その分すこし休憩が取れることもわかった。
ずっとまりなと一緒にいるが、不思議と嫌じゃない。
まりなはいい意味で、気を使わない。
休憩している時にまりなが
「すぐに辞めるかと思ったけど、大丈夫そうね」
「でも、体は、キツイですよ」
「私も最初はそうだったけど、なれるのよ」
「どれくらい、やっているんですか」
「2年かな」
こんな調子で、まりなとは少しずつお互いのことを話しはじめた。
臨床心理師になる決心を固めてから、久しぶりに劉と会った。
劉の通う大学の近くの居酒屋で落ち合った。
「臨床心理師の資格取って、カウンセラーになろうかと思って」
「それは私も賛成です。哲也はきっと、素晴らしいカウンセラーになりますよ」といい具体的なアドバイスをしてくれた。
「先のことですが資格を取ったら是非、アメリカに留学したらいいですよ。心理学の本場ですし、様々な専門分野に分かれているのでとても勉強になります」
「そうだな。かなり先になりそうだけど」
まどかが自殺して、会社をクビになって『忘れさせ屋』になって、そしてカ ウンセラーを目指す。
こうやって人生って、思わぬ方向へと展開していく。
そのことを劉に話したら
「変毒為薬(へんどくいやく)という格言があります」
「へんどくいやく?」
「たとえ毒を飲んでしまっても、それがかえって薬となっていくという意味です。
人生の大変な試練も、全部自分を成長させてくれる糧となるという譬えです」
「深いな」
「なので哲也もこれから様々な試練がありますが、それは自分にとって必要な薬なのです。また全て良い方向になっていくのです」
「確かにそうだな。劉と話していると、本当に勉強になるよ」
「私もです」
劉に教えられることなどないと思い「え~、俺なんか何も、教えられないよ」
「我、以外、皆、我が師なりです。自分以外の全ての人から、学ぶべきだとの教えです」
「なるほどね」やっぱり劉は深い人間だ。
ある日、俺はバイトで失敗をしてしまった。
時間指定に気がつかずに、大変なクレームになってしまった。
バイトであっても、責任は取らなくてはいけない。
辞めることを覚悟して、仕事が終わってから係長の所に謝りに行った。
係長は他のクレームの処理に追われて、それどころじゃないという感じだ。

なんとか事情を説明すると、その件はまりなが自分のミスだといってきて、お詫びに自分の給与をカットしてもらっていいと申し出たそうだ。
どちらにしてももう処理が済んだことなので、今後気をつけるようにとのことだっだ。
これ以上係長に何か話しても無理そうなので、まりなを探した。
まりなはちょうど帰る所だったらしく、出入り口でタイムカードを押していた。
いつもの作業着からGパン姿に着がえたのまりなは、少し若い印象だ。
そういえばまりなが何歳か、結婚しているのか何も知らない。
クレームの件を謝りたかったし、まりなの私生活にも興味があったから
「今日はすいませんでした。さっき係長の所に行ったら。後藤さんが、俺の代わりに謝ってくれたって。ありがとうございます」
「別にいいのよ。私も気がつかなかったんだし」
「お詫びにというか、食事でも付き合ってもらえませんか」
まりなは、少し考えて「いいわよ」
まりなと一緒に、駅前に最近できたこの辺では洒落た飲み屋に入った。
まりなが酒を飲むのかもわからないから、食事も取れそうな店と思って選んだ。
正解だった。まりなは、酒は飲めないという。
俺が生ビールを、まりなはコーラを注文した。
料理を2、3品注文し、ひとまず生ビールとコーラで乾杯した。
怒られるのを承知で、まりなに聞いてみた「女性に歳を聞くのは失礼ですけど、何歳ですか」
「あなたは?」
「28です」
「そう、プラス8よ」
節子と同じ歳か。
「あと今別居中の夫が1人。子どもはいないけどね」
心の中が見えるみたいに、まりなは話しはじめた。
今自分1人で住んでいる家は、ここから2つ先の駅で、夫との家は更に先の駅で、夫と姑の3人暮らしで、夫はお米屋を営んでいるそうだ。
俺も簡単に今の状況を説明したが、まどかの自殺や、『忘れさせ屋』の話はしなかった。
「俺もにもまりなさんと同じ歳の姉と、4つ上の姉がいるんですよ」
「そう。私も3下の弟がいるのよ。もうふたりの子どものパパだけどね」
なんとなくまりなと一緒にいると、居心地がいいのがわかった。
お互い育った環境が似ているのだ。
調子に乗って聞いてみた「なんで別居中なんですか」
と聞いたところに店員が料理を運んできた。
まりなが手際よく先に料理を分けてくれる。
こういうところも、まりなに好感が持てる。
まりなは取分けながら、考えているようだ。
「すいません。変なこと聞いちゃって」
「もう家を出て、2年経つからさ。何でだったかな」
といいまた考えている。
「いいです。食べましょう」と話題を変えた。
お互いに料理を食べ少し落ちついたところで「まりなさん、車の運転がすごくうまいですけど、何か昔にしていたんですか」
「そうかしら?昔はバイクが好きで乗っていたけど。結婚してから仕事で配達してたからかな」
「バイクに乗っていたんですか」
「そう、16から」
「へぇ~、それは随分早くから」
「私、悪かったから」
冗談のつもりでいってみた「もしかして、暴走族だったりして」
「そう」
冗談のつもりでいったのに、ビンゴだった。
でもこの妙な落ち着きは、それなりに修羅場をくぐってきた貫禄がある。「まりなさんって。すいません、怒らないでくださいね。すごくギャップがありますよね」
「えっ、何が」とまりなは少し不思議そうな顔をする。
「最初怖い人かなと思ったら、優しくて。お料理なんかしそうもないのに、いつもおいしそうなお弁当を作ってくるし。人のミスも責めないで、自分が責任取るし。誘っても断るかなと思ったら、こうしてきてくれるし」
「バツイチかなっと思ったら、別居中だし」とまりながいった。
確かに結婚しているとは、思わなかった。
「うちのダンナは私と逆で、とても家庭的な人なの。自営だから、いつも一緒でしょ。料理もうまいし、洗濯、掃除となんでもこなすのよ。おまけにとても親孝行でさ」
「それてって、マザコンですか」
「まあ、そんなとこかな」
「男は結構マザコン、多いですよね。俺も隠れマザコンです」
「うち、子どもいないでしょ。だからなおさらかもね。子どもでもいれば少しは、違うだろうけどね」
「子は鎹(かすがい)ですかね」
「何?それ」
「ドアなんかを留めている金具、あれ、鎹(かすがい)っていうんですよね。それを夫婦にあてはめて夫婦をつなぎ止めるのは、子どもだっていうことですかね」
「ふ~ん。そうなんだ。だからうちはダメなのね」
「ダメなんですか」
「わからないわ」
「結婚して、何年ですか」
「え~ともう、15年かしらね」
「うちの両親なんか離婚して17年ですけど、最近復活したんですよ」「何、それ」
節子の嫁入りにまつわる話をした。
「ステキな家族ね」
「だから、まだわかりませんよ」
たわいのない話をして、まりなと別れた。
次の日、まりなはいつもの様に黙々と仕事をした。
お昼の休憩時に、いつも寄る公園でまりなが大き目の弁当箱を差し出した。そしてちょっと恥ずかしそうにまりなが「昨日のお礼」
「お礼って、俺の方がご馳走になったじゃないですか」
会計の時に、歓迎会だといって奢ってくれた。
「いいのよ。誘ってもらって、嬉しかったし」
「でも嬉しいな。いつもうまそうって、思っていたんですよ」
「味はわからないわよ」
まりなのてづくりの彩りのいい弁当を食べた。
うまい!見た目通り本当にうまい。
「うまいです。イヤ~これ、売れますよ。運送屋より、弁当屋の方がいいんじゃないですか」
まりなは真顔になり「私もお米屋じゃなくて、やりたいんだけどね」
「お弁当屋さんですか」
「うん。料理作って出すんだったら、何でもいいけど。居酒屋もいいかな。お酒飲めないくせにね」
「是非やってくださいよ。そうしたら、常連になりますから」
「ありがとう」

バイトの休みの日に実家に帰った。
節子たちとの食事会の後しばらくして、和雄が実家に帰った。
帰ったら和雄がちいさな庭に出ていた。
最近はもっぱら和雄が庭の手入れをしているそうだ。
これがトマトで、きゅうりで、と他にも数種類の野菜の名前をあげた。
まだ芽も出てないが、いとおしそうに見つめる和雄の姿がかわいらしく思えた。
いつも酒ばかり飲んで、家のことなど何ひとつやらなかった和雄の姿しか覚えていない。本当に人って、意外な部分がいっぱいあるんだと思った。
和雄は俺が使っていた部屋を使っているらしい。
和雄のことださぞ散らかしているかと思って一緒に部屋に入ると、意外にもそのままだった。
和雄にそのことを伝えると
「歳を取ると物にも執着がなくなって、必要最低限あればよくなるのさ」「母さんと同じ部屋でもいいじゃないか。俺もここに戻ってこようかと思ったんだけどな」
「お母さんと同じ部屋はまずいだろ。もう17年も離れていれば、立派な他人だ。ここに居させてもらえるのだってありがたいのに」
これから大学に通うようになったら、本気でここに居させてもらわなくてはならないだろう。
「お母さんとは、どうなのよ」
「どうって」
「だから、久しぶりにさ」
「なんだよ」
「いや、結ばれたのかなって」
「お前な。親をからかうな」
「俺はさ男として、当然というかさ」
「ないよ」
「そうなの」
「当たり前さ」
「どうして」
「どうしてって、できないだろう」
「あ~もう、親父だめなのか」
「バカいうな。俺だってまだいけるぞ」
「男と女は、いくつくらいまでするのかな」
「人によるだろう」
「でもさ、セックスが無くなってからが、本当の愛なのかな」
「なんだよ。お前随分と難しいこというな」
男と女をつなぎとめる鎹(かすがい)って、一体何だろう。

 俺が大学院を受ける決意を知り節子が、具体的な準備といって、一緒に本屋に付き合ってくれた。
これから大学院の受験まで、数ヶ月しかない。
勉強なんかしばらくしていないから最初は不安だったが、節子は大学で教鞭を取っているだけあって参考書選びも的確だ。
もうこれで合格した気分になった。
節子と本を選びながら、節子に聞いてみた。
「女の人って、いくつまで子どもを産めるの」
「ここは本屋さんよ。調べてみたら」
ふたりでマタニティ関係のコーナーにきた。
1人では立ち寄らない場所だ。
周りからみたら俺と節子は夫婦に見られているだろうと思いながら、妊娠に関する本を立ち読みする。
基本的には生理があれば何歳でも妊娠するが、高齢になれば安全な出産や、子どもに障害が出る危険が高くなると書いてある。
まりなの顔を思い浮かべた。
まりなは本当は、子どもが欲しいのではないだろうか。
配達の途中で、ベビーカーに乗せられた赤ん坊によく遭遇する。
その時まりなは、決まって優しい顔で赤ちゃんに微笑む。
その顔がマリア像のような、なんともいえない穏やかな表情だ。
そんなまりなの顔を、盗み見するのが楽しみだ。
子どもの時にアイスを買って当たりが出た時みたいな、ほんのささやかな幸せを感じる。

 節子と軽食が摂れる店で、休憩した。
俺はアイスコーヒーとクロックムッシュ、節子はオレンジジュースにクラブハウスサンドイッチを注文した。
節子が先程買った参考書を開き、更に詳しく受験対策を教えてくれた。
注文した物が揃い、食べ始めた。
今のバイトの話から、まりなのことを節子に話した
「私と同じ歳ね。お子さんができない体なのかしらね」
「さすがに聞けないからさ」
「子どもいらないって、人もいるしね」
「節姉も、そうなの」
「私は産めるなら、産みたいわよ」
「じゃあもう、劉さんとは、したんだ」
節子は食べていたサンドイッチにむせて、慌ててジュースを飲む。
「またそんなこといって。からかわないで」
「なんでだよ。大事な話じゃないか。この人類が永遠に繁栄していくための、大きなテーマだよ」
節子は顔を赤らめたまま困ったように手に持ったサンドイッチをもてあますようにする。
「節姉も若くないんだから、早く産んだ方がいいよ。俺から、劉にいっておくから」
「ちょとやめて。そんなこといわないで。ちゃんとするから」
「そうだよ。ちゃんとするのね」
「やだそういう意味じゃなくて」
「わかったよ、いわないよ」
「哲也だって受験するなら、今のバイト辞めて実家に戻ったら」と節子が話題を変える。
「そうだな。そう思ってこの間帰ったら、ちゃっかり俺の部屋を親父が使っていてさ。なんか、帰りづらいっていうか」
「そうなんだ」
「まっ、そうなったら、親父と一緒に寝てもいいしな。男同士仲良くさ」「そうだね。哲也はお父さんと一番一緒に居なかったものね。だからいいんじゃない。そういうのも」
「そうだよな」
やっぱり近いうちに実家に戻ろうと、本気で思った。
「私もね中国の大学に仕事がないか、打診したの。そうしたら正式に研究員として採用が決まったの。だから劉さんが帰国する時に一緒に行くわ」
「それは良かった。あとは美和子の嫁入りだな」
「予定があるのかしら」
「さあな。最近男の話は聞かないけどな」
配達のバイトの昼の休憩で、まりなはついでだからといって、俺の分までお弁当を用意してくれるようになった。
悪いので、500円支払う。
いつもの公園でふたりでお弁当を食べていると、若い母親がやっと歩ける子どもを連れてきて、砂場で遊ばせている。
まりながあの優しい顔で、子どもを見つめる。
前から気になっていることを聞いてみた。
「あの、子どもが好きなんですか」
「えっ」まりなが驚いて。
「子どもを見る時、すごく幸せそうな顔をするから」
「そうかしら」
「その顔、好きです」
「えっ」
「子どもを見る時の顔、すごく好きです」
まりなも照れて、急いでお弁当を食べる。
「女性の体のことがよくわからないで失礼なこというかもしれませんが、本当は子どもが欲しいんじゃないんですか」
まりなは食べるのをやめて。
「ダンナにね、いっちゃったのよ『あんたの子どもなんか産みたくない』って」
「えっ」
「それが別居の理由かな」
「それって、本心なんですか」
「昔悪かったでしょ。ダンナと結婚する前に、子どもを2回堕ろしてんの。それから、2回ダンナの子どもを流産しちゃって」
「そうだったんですか」
「罰があたったんでしょうね。2人も生まれてくるはずの命を粗末にした」「それをダンナさんは、知っているんですか」
「堕ろしたことは、いってない。さすがにそんなこと、聞かされてもイヤでしょ」
「そうですね」
「姑にも『子どもも産めない女なんか、離婚しろ』って、ダンナはいわれたみたい」
「それも、ひどいな」
「ダンナは子どもを欲しがるし。でも神様はきっともう私には、子どもを授けてはくれないって思うんだ」
「それでダンナさんにいったんですね」
「私だって、子どもが欲しいわ。でももうこれ以上、命が消えていくのが辛くって」
葬儀屋の藤田から聞いた話をした。
人間は生きたようにしか死ねない。
「だから俺は後悔のない人生を生きようって思います。少しでも望みがあるのなら、それにかけてみてもいいじゃないですか。それでだめだったら、また、そこから出発しても」
まりなはじっと考えるように、黙って聞いている。
「もう、ご主人にいったこと、忘れてください」
まりなが顔をあげて「えっ」
「だってそれは本心じゃないんですよね」
「……」まりなは俯いて。
「今日ご主人を呼び出して、『あなたの子どもを産みたいの』っていって、思いっきり愛し合ってください」
驚いて俺を見て「今日?これから?」
「そうです。思いたったら、すぐにやる。これが、大事です」
昼間のしかも公園で、弁当を食べながらいうことじゃないと思いながらも更に「きっと全部うまいくいきますよ」
まりなはじっと考えて「ありがとう。やってみるわ」
「俺も応援しています」
支離滅裂だと思うけど、たぶん俺の気持ちは伝わったと思う。

しばらくして節子から連絡があり、大事な話があるから大学まで来てくれと。
バイトを休んで、節子の勤める大学に行った。
節子が指定した、大学の教授の部屋を訪ねた。
部屋の中には、節子と有馬という教授が待っていた。
節子が俺に有馬を紹介したのちに
「こちらは文学部の主任教授をされている有馬教授です。哲也が良かったら、うちの大学で、研究員の補助として働いてくれないかといってくださっているのよ」
有馬がにこやかに「我が校で最も優秀な澤田さんの弟さんだ。それにコンピューターにも詳しいと聞いています。何しろここはアナログ人間が多くてね。是非力を貸して頂きたい」
思ってもみない話だ。
「こちらこそ、よろしくお願いします」といって、頭を下げた。

 有馬の部屋から、節子と出て、キャンパスを一緒に歩きながら
「節姉、ありがとう。思ってもみない話で、ビックリしたよ」
「うちの大学には心理学の専門コースがないのが残念だけど、でもここでやることは、無駄ではないと思うわよ」
「人生に無駄なことなんて、ひとつもないさ」
「確かにそうね」
「実家に帰って、準備するわ」
「そうね。お母さん、喜ぶと思うわ。哲也のこと、一番かわいいみたいだし。実はねお母さんに頼まれたの」
「えっ、何を」
「さっきの仕事の件。教授に頼んでもらえないかって」
「母さんが」
「いつまで経っても、親は子どものことが心配なのね」
そうだったのか。珠枝がそんな風に、心配しているとは。
心配かけて申し訳ない。これから沢山親孝行しよう。
あとどれくらい親と一緒に居られるかと思ったら、今すぐにでも実家に帰りたくなった。
いつからこんなにせっかちになったんだろう。

まずは配送の仕事を辞めることをいいに、バイト先に行った。
係長に突然だが今日で辞めることを伝えた。
そんなことは慣れているのか、あっさりと了解してくれた。
ただまりなには、ちゃんと挨拶するようにといわれた。
いわれなくても、まりなに会うつもりだ。
まりなは配達に出ていて、あと二時間は帰ってこないといわれた。
自分の携帯の番号を配送の受付の女性に伝えて、ひとまず自宅に戻った。
自宅に帰って、早速荷づくりをはじめた。
少し片付いてきたところに、まりなから連絡が入った。
前に一緒に行った駅前の店で、待ち合わせをした。
店に行ったらまりなはゆっくりとタバコを吸っているが、その姿がとても満ちたりた様子だ。
まりなの前の席に着き。
バイトを辞めるいきさつを話して、急に辞めることを詫びた。
「いいのよ、気にしないで。私も今月一杯で辞めることにしたの」
「そうなんですか」
「ダンナと色々話し合って、帰ることにしたの」
「良かったですね。それでどうでした」
まりなは一瞬、何?って顔をしたが、質問の意味がわかったらしく、照れながらも
「ちゃんと、したわよ」
「もう、最高です!」
「私たちダメかと思ったけど、戻れたわ」
「そうですよ」
「ありがとう。澤田君に背中を押してもらったわ」
「お互い、再出発ですね」
「そうね」
「乾杯しましょう。コーラで」
店員にコーラを2つ注文した。
「今日は俺が奢りますから」
コーラが運ばれてきて、まりなと乾杯した。
コーラの炭酸が、胸にぐっときた。
そろそろ俺も恋がしたい。
そう思った時、前に和子を空港に送った時に泣いていた女性の横顔が浮かんだ。
もう一度、あの女性に会いたい。
俺は心の底から願った。

創作大賞「もう、忘れていいよ」(5)へ続く
https://note.com/katy_moon/n/n87f82445a27d


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