見出し画像

「煽り運転」報道の功罪

車社会の発展に伴って自然発生したであろう「煽り運転」。

数々のニュース報道によって顕在化し、行為そのものが悪質極まるものであるという世間的認識によって煽り運転に対する取り締まり法案を作らせたという事実は大変意味があると思う。

だが、これだけ認知されて罰則が強化されたにも関わらず、平然と煽り運転をする人間が未だ存在している事に驚きを禁じ得ない。ハンドルを握るとその人の本性が表れると言うが、人間の内側の精神に宿る怒りの感情は外側の規制強化だけでは抑制出来ないらしい。

フリーライターである橋本愛喜さんは、自身の著書『トラックドライバーにも言わせて』の中で煽る側の特徴と原因について

「時間的余裕のないドライバー」

「高級車に乗った凡人」

「行き過ぎた正義を振りかざすドライバー」

「悪質ドライバー」

の四つを挙げており、更に危険運転を誘発する車の特性として

「ドライバー同士を遠ざける遮断性」

「平等心理をもたらす単純な操作性」

「ドライバーの気を大きくさせる匿名性」

の三つを挙げている。

含蓄に富んだ意見であると思う。毎日仕事で一般道路や高速道路を使う身である私にとって、総じて言える事は煽る人間は皆「自己中心的で心にゆとりが無い」の一言に尽きるのではないかと思う。

先にも書いたが、煽り運転が顕在化したのは一時期、連日の如く報じていた煽り運転報道によるものである。悲惨な事故にも繋がった煽り運転に対する世間の目も総じて厳しいものになっているし、断じて許されるべき行為ではない。

しかしながら、報道のあり方に対してある種の違和感を感じたのも事実である。これは煽り運転報道だけに限った事ではないのだが。

煽り運転報道には必ずと言って良い程、ドラレコ映像が流れる。その時の状況を克明に表す為に最適な手段なのだから当然なのであるが、問題は行為だけを切り取って流しているという点である。

どのような煽り運転についても絶対とは言い切れないが何かしらの原因があるはずである。行為と共に何故そうなったかという原因についても一緒に報道するのならば問題はないが、悲惨な結果にならなかった軽微なケースについては切り取られる事が多い。

煽り運転の行為を一部分だけ切り取って見せる報道は物事の本質が見えにくい。切り取られた映像を見ている大衆はその行為の瞬間映像に衝撃を受ける。そして、「悪い奴がいるもんだ」と因果関係を知る事もなく自己完結する可能性をも孕む。

様々なケースによる煽り運転という悪質な行為を大衆に報道するのならば、それと同じくらい行為に及んだ経緯とその元になる原因をも報道、検証する必要性があるのではないだろうか?

日々、仕事で道路を使わせてもらう者として様々な煽り運転を目撃してきたが、中には煽られる原因を作っているのでは?というケースも多く見てきた。

例えば一般道で車の流れを全く無視して法定速度以下で走行し、後続車に対して全く譲るつもりがない車や高速道路において比較的低速でいつまでも追い越し車線を走行する車など、一歩間違えれば大事故に繋がる場面もかなり遭遇してきた。(ウインカーなしで右左折、進路変更する車など腐る程いる)

だからと言って煽り運転を推奨するつもりなど毛頭ない。行為自体は絶対悪である。橋本愛喜さんが挙げた

「行き過ぎた正義を振りかざすドライバー」

になる必要性などないのだ。そういう状況だからこそ、苛立ちを抑制してゆとりを持つ事がドライバーに課された責務であると思う。これはプロ、アマ問わずハンドルを握る者に対して共通した心構えだと認識する。

最後までお読み頂き有り難うございました。 いつも拙い頭で暗中模索し、徒手空拳で書いています。皆様からのご意見・ご感想を頂けると嬉しいです。