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【子育て難しいんじゃ】絵を描く練習

今年のクリスマスプレゼントは絵を描くおもちゃ。下絵を利用して何やら色々な絵を作れる大人もびっくりの大変面白そうなものだった。

毎年のようにクリスマスプレゼントの熱量は「もらった瞬間」や「開けて触ったその日」がMAXでありおもちゃの類はそこからの急降下っぷりが半端ではない。株式市場だったらどれだけ破産している人がいることか。

というか、あれだけ欲しい欲しいと訴えていたのにも関わらずよくまぁそこまで白髭おじじの好意を無下にできるものだといっそ関心すら覚える。

子供の関心は熱しやすく冷めやすいぐらいでちょうどいいのかもしれない。と、考えないと親の心が死ぬ。新しいものに触れてばかりなのだからその方が健全と言っても支障はないような気がする。そう考えないと心が粉砕される。


だからこそプレゼントを選定する際に「これ買ってもすぐに飽きてしまうんだよな」とか考えてしまう自分の妙なケチっぷりに頭が重くなり、心が荒んでいく。


だとすれば子供が心から欲しいものを!なんていうふうに勢いよくおもちゃを仕入れる。あとは頼むぜ白髭おじじ。こんなおっきなおもちゃのラッピングないぜ白髭おじじ。どうしようぜ。


なんて苦労しながらクリスマスプレゼントは我が子の元へ届くのだ。


そんな苦労も一週間もしたらおもちゃたちは埃を被り掃除して欲しそうにこちらを見ているなんてことがザラとなる。結果心は果てた。いつになっても慣れない歯痒い瞬間。メルちゃんが床ずれしそうなのでたまにひっくり返す私。


今年娘は前述の通り、絵を描くおもちゃというかそういうものを買った。娘は当初シルバニアファミリーのでかい不動産か、別のでかい不動産が欲しかった。どっちに転んでモバニアファミリーの赤っけぇ屋根の大きなお家だったのだ。


娘はこの二択を決めあぐねすぎていたので玩具屋さんに連れて行ったところこのおもちゃが心を彼女のハートをブチ抜いたらしく、「ガールズデザイナーコレクションが欲しいんじゃあ!わしゃぁ!!!」と毎日奇声を上げるようになってしまった。

私自身は絵心がまるでなく。「心無い人」と後ろ指刺され続けて生きてきたため多少の絵心は人間あった方がいいと思っていた。絵を描くおもちゃは今でも娘が一生懸命に遊び続けており、できた絵を下の妹が色鉛筆で仕上げるという好循環が生まれ続けている。

見本に合わせて娘は絵を描き続ける。真似を繰り返し繰り返すのが一番早く上手になる方法だと思っている私はいつもそれを眺める。

ただ、私自身「絵の上手い下手」についてはいつも疑問符が残っており。絵の上手い下手というのは基準があるようでないようであるようで。
本人がどれだけ満足に表現できていたとしても何かしらの基準に照らし合わせた優劣で立ち位置を決めなければならない。残酷な世界な気がしている。

だから娘が絵を描いたら「どこが一番好きなところ?」と尋ねるようにしている。これは私の絵の基準や物事の価値観に自信が無いからで。私自身の物差しで絵を導こうとしても「氷の心」と揶揄されるだけ。

そして絵心のある妻は「ひゅーっとやってひょいだよ」とおちゃらけた顔ではなく、真顔で言うからサ。もう全然さっぱりなわけサ。

だから少なくとも絵を描いた我が子が「この部分は私の最高の推しポイントなんよぉ!」って言ってくれればそれを表現しようとしたことを褒めてやりたい。そして教えてくれたことを褒めてやりたい。っていうか絵の褒め方がいまだによくわかっていない。上手だねって「どこが上手なのか」自分でもよくわかっていない。


線が似てるのか、同じだから上手いのか。それとも自分が好きな事を表現することが上手いなのか。


よくわからない。


娘は時折、夢中になって絵を描き続けている。彼女が時間を忘れてそれに向き合っている瞬間の表情はとてもカッコいい。できたものはよくわからない(私は的外れな褒め方をすることがあるので)が、その時間を過ごせることが良いことだと思う。


世に出ている作品を作る人たちもこのような夢の中にいるかのように生きて心血を注いでいるのだろう。そうやって絵を生み出す過程のエネルギーを目の当たりにする機会は殆どない。だがその瞬間。我が娘の如く作品熱を注ぐ作者たちの姿を想像すると、絵の上手いとか下手とかそういうの関係ないような気もしてきたりする。


絵って難しい。


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