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葛尾村の移民史

 葛尾村の文化や歴史をnoteを通じてアーカイブする取り組みとして、今回は「葛尾村の移民史」をテーマに記事を公開いたします。本記事は、葛尾村『葛尾村史』や葛尾村教育委員会『葛尾村戦後開拓民のあゆみ』、また取材によって得た情報をもとに作成しております。


1.松本氏の敗走と栄華

 葛尾村には「松本」姓の方がたくさんいます。正確な数字は分かりませんが、村民の約半数が松本さんだとも言われています。実は、その「松本」姓は「葛尾」という村名のルーツともつながっているのです。そこで、第1章では、松本氏と葛尾村の成り立ちについて紹介していきます。

 松本氏の系譜を遡ると、藤原北家に辿り着きます。藤原雅道に関する『画像家譜伝』によると、藤原親家の嫡孫である松本勘ヶ由介親藤と、その長子である松本勘ヶ由介親治は、信濃の国「葛尾城」の城主でした。しかし、甲斐の武田晴信と戦い、多くの士卒を失い敗れて、松本親子は落人となりました。その後、磐城の国「獅子喰城」に移りましたが、幾月もたたないうちに、磐城の国「大館城」の城主である磐城忠二郎常隆と戦いになり、大敗して磐城の国の標葉郡谷津田村に潜伏していました。天正2年の春、松本親子は相馬顕胤に推挙され、現在の葛尾村の一部となる土地を与えられました。やがてその地に館を新築し、信濃の国「葛尾城」を忍んで、「葛尾」と命名しました。そして、館の住人一族を「松本」の姓とし、世襲にしたようです。それに関連する資料として、次のようなものがあります。

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高木寺鰐口銘
本宮町大字高木字舟場高木寺
懸奉鰐口カツラウ通里権現
大旦那カケ由助
時大永二年十二月
大工 大和秀次
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※鰐口:仏堂・神殿の前に掛け、つるした綱で打ち鳴らす道具

 大永2年は大永4年で、大工大和秀次は日和田の鋳工です。この資料より、1524年時点で既に松本勘ヶ由介が葛尾村にいることが推測されます。また、武田晴信が葛尾城を落としたのは天文22年(1553年)で、その時の城主は村上義清でした。これは『画像家譜伝』に基づく前述の内容とは異なりますが、16世紀に信州にルーツを持つ松本氏が現在の葛尾村に移り住んできたと考えられるでしょう。中世期以前に葛尾という地名は出てきませんが、現在も行政区として名を残す落合は、相馬藩領の一部である落合村として当時から存在していました。したがって、松本勘ヶ由介が相馬顕胤に出仕し、まだ開拓の進んでいなかった落合村の奥地を与えられ、故郷信州にちなんで「葛尾(かづろう)」と名付けたとも考えられます。現在でも、役場をはじめとした公共施設や商店などのサービス業は落合地区に集中している傾向にあります。

 その後、松本氏は製鉄業などで巨大な富を築き、「葛尾大尽」と呼ばれるようになりました。江戸時代には屋号を「鉄屋」にしていたことからも製鉄業で富をなしていたことが推測されます。最盛期には、三春藩や相馬藩、棚倉藩に大金を献上するとともに、藩財政の一部に介入し、山林伐採・酒造米買い入れ・塩などの商売の独占権を得ていたと言われています。しかし、幕藩体制の崩壊とともに商売が傾いていき、明治4年・明治8年の火災では葛尾大尽屋敷と呼ばれる一族の館のほとんどが消失してしまいました。


2.相馬藩の移民政策

 当時の葛尾村(上野川村、野川村、落合村)は陸奥中村藩(以下、相馬藩)領の標葉郡に属していました。相馬藩が江戸時代に行った大規模な移民政策は葛尾村にも影響を与えていると考えられます。そこで、第2章では、相馬藩の移民政策について紹介していきます。

 相馬藩は、現在の相馬郡(相馬市・南相馬市・新地町・飯舘村)と双葉郡の一部(旧標葉郡:大熊町・浪江町・双葉町・葛尾村)の範囲に及びます。領地範囲は多少変動しますが、鎌倉時代初期から江戸時代末期までの長い間、相馬氏が統治を行っていました。相馬藩の総人口は、元禄11年(1698年)に89,120人で最大となり、1783年(天明3年)には53,276人、1786年(天明6年)36,785人と大きく減少していきました(今野、1941)。これは一般に天明飢饉による人口減少と言われていますが、就業機会を求めた人口流出の影響も少なからずあるという主張もあります(岩本、2011)。

  天明飢饉の後、相馬藩は間引き(生まれた子どもを殺すこと)を禁止するなどの人口増加策を講じますが、大きな効果を得ることはできませんでした。そこで、1813年(文化10年)に他藩からの移民政策を実行します。この移民政策においては、1810・11年(文化7・8年)に北陸の浄土真宗僧侶たちが相馬藩に来たことが重要な意味を持ちます(岩崎、1963)。同時期に、先行して北関東諸藩では、北陸の浄土真宗信者の移民が行われていました。浄土真宗信仰が強い北陸の地域では、戒律により間引きなどが厳しく禁じられていたため、農村が過剰人口に直面していたのです。しかし、特に移民が盛んだった常陸笠間藩で紛争が起こってしまったため、同地域での移民推進が困難になってしまいました。そこで、新たな移民先として人口減少に苦しんでいた相馬藩が選ばれたのだと考えられます。この移民政策を通じて、最終的には、3000戸を超える移民を導入することに成功しました。

 北陸からの移民が葛尾村に来たという史料を見つけることはできませんでしたが、同じ旧標葉郡である現双葉郡浪江町にも移民が来ていることからも、葛尾村に移民が導入された可能性は十分考えられるでしょう。


【参考文献】
・今野美寿『相馬藩政史』1941, 相馬郷友会
・岩本由輝「近世陸奥中村藩における浄土真宗信徒移民の導入」2011
・岩崎敏夫「本邦小祠の研究―民間信仰の民俗学的研究」1963


3.満州引揚者の戦後開拓

 太平洋戦争終結直後、葛尾村には多くの開拓者が入ってきました。開拓者の多くは満州から引揚者です。開拓者の方々の中には、現在でもご存命の方もいらっしゃいます。そこで、第3章では、満州引揚者による開拓について紹介していきます。

 1946年(昭和21年)、政府は食糧自給のための緊急開拓事業を開始します。戦後の食糧事情の悪化に対する対応として、開墾適地を買収し開拓者を入植させたのです。自作農民を育成するために、開拓民としての入植には一定の基準を設けた許可制がとられていました。社会情勢の安定に伴い、選定内容も緩和されていき、農家の次男・三男対策や零細農民の農地を増やすための開拓事業は充実していきました。当時の入植適格者の条件は次のようなもでした。

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1.身体強健にして開拓意欲の旺盛な者
2.思想堅実にして協和性に富み、入植者の組織する団体の構成員として必要かつ適格な者
3.世帯主の年齢は満20歳以上60歳未満の者
4.独立農家として必要な家族構成を持ち、稼働力2人以上を有する者
5.住居並びに営農の基盤を開拓地に置き、安定農家としての見込みが確実な者
6.当該地区開拓計画に相応した開拓営農に必要な、技術経験及び資本を相当程度有する者
7.その他本件開拓委員会に於て適当と認める者
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 開墾適地のほとんどが国有林野に散在していたこともあり、昭和21年1月8日付けで出された『国有林野開発方針』に基づいて、開拓者への国有林野の提供が推し進められました。葛尾村においては次のような開拓事業に対する国庫補助が実施されています。

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1.約82町歩を未開墾地として開放
2.開拓道路の開設
  落合~菅ノ又線、広谷地~阿掛線、広谷地~刈又線、大庭場~手倉線、風越線、大楢線、落合~刈又線、浜井場~持藤田線、岩角~下野行線、大笹~野行線、東平~広谷地線など
3.開拓地への肥料導入
4.家畜の導入(主に綿羊)
5.補助住宅の建築
6.開拓組合による配給所の設置
7.開拓地営農指導員の派遣
8.保健婦の巡回指導
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 このように進められた開拓事業によって葛尾村には多くの開拓者が入植しました。下図より、周辺地域と比較しても、葛尾村は特に開拓者の割合が多かったことが分かるでしょう(昭和40年の農家戸数に占める開拓者数、『福島県戦後開拓史』1973より)。半数以上が開拓者という葛尾の割合は、会津地方の絵枝岐村に次いで多いようです。

開拓者割合

 開拓者の保有農地は大半が2ha以下であり、経営規模としては既存の農家よりも広いものの、立地条件の悪さなどから維持は困難なものであったようです。そのため、多くの入植者が開拓意欲喪失・病気・営農資金不足などの理由により離脱していきました。

 開拓者へのインタビューによると、当初は差別意識があったことが伺えます。全く交友関係を持つことができないというような表立った差別はなかったようですが、結婚となると昔から住んでいた側の家族が反発などということがあったようです。また、開拓者に限った話ではないですが、中学卒業後すぐに出稼ぎをしていた方も多くいます。黒部ダムの建設など遠方での出稼ぎをしていた人もいるようです。小中学生のうちから家業の手伝いのため、あまり学校に行けていない方も多いようでした。加えて、開拓者の中には、畜産業で成功した方が何名かいます。全く資材もない中から借金をして畜産を始めた方がほとんどなようです。現在でも、開拓地の多い地区では、畜産が盛んな傾向にあります。このように、様々な苦労を乗り越えた開拓者の方々が戦後の葛尾村を作っていました。


【参考文献】
・葛尾村教育委員会『葛尾村戦後開拓民のあゆみ』2019
・福島県農地開拓課『福島県戦後開拓史』1973


4.震災後の帰村と移住

 東日本大震災による原発事故の影響で、葛尾村は一時全村避難となりました。そして、2016年の避難指示解除後、一部の人たちが帰村し、また新たな住民が移住してきています。第4章では、そのような震災後の帰村と移住について紹介していきます。

 全村避難により村を出ることを余儀なくされた村民の方々は、震災直後の数ヶ月間は村として会津坂下町に避難した後、多くの村民が葛尾村に近い郡山市や田村市、三春町などの借り上げ住宅や仮設住宅に移っていきました。2016年6月12日、葛尾村の避難指示が解除されましたが、すべての人たちが帰村するわけではありません。避難解除から4年経った現在、実際に葛尾村で暮らしているのは震災以前の4分の1の約400人です。さらに、高齢化率は47%を超えています。震災以前からの人口変動をグラフにすると下図のようになります。

図1

※青色:総人口、灰色:65歳~、黄色:15~64歳、赤色:~14歳
※2015年以前は国勢調査のデータを引用

 このように、震災をきっかけに人口が激減しました。令和1年度葛尾村住民意向調査によると、まだ葛尾村に帰村していない人の中で40代以上の人たちは、半数弱の人たちが「葛尾村に戻りたいと考えている」ようです。しかし、医療機関等の生活インフラの不足などの理由から多くの方が帰村していないのが現状です。ただ、帰村していない人たちが全く葛尾村に関わっていないわけではないようです。同じく令和1年度葛尾村住民意向調査によると、4割を超える方々が月に1度以上葛尾村を訪れているようです。実際に、定期的に家の手入れなどに来る人が多くいるように感じます。

 また、震災後に、地域おこし協力隊や復興支援員として移住される方もいます。村が借り上げている村営住宅に住みながら、村内企業で働いている方が多いように感じます。加えて、当団体が行っているプログラムをきっかけにして村に滞在する学生も多く存在しています。今年はオンライン授業になっている大学もあるため、葛尾村に長期滞在している大学生もいます。ここまで葛尾村の移民史を振り返ってきましたが、彼らが移住するような流れが今後生まれてくると、移民史という観点からも大きな転換点になるかもしれません。



一般社団法人 葛力創造舎

 葛力創造舎(かつりょくそうぞうしゃ)は、通常なら持続不可能と思われるような数百人単位の過疎の集落でも、人々が幸せに暮らしていける経済の仕組みを考え、そのための人材育成を支援する団体です。

葛力創造舎

余田 大輝

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