多田温泉のこと

旧 日本温泉文化研究会HP「研究余録」2013年7月19日記

数日前から、江戸時代に京都で活躍した医師・香川修庵(1683‐1755)の著作に再度目を通しています。言うまでもなく、修庵による「温泉論」の中核をなすのは『一本堂薬選続編』の「温泉」項なのですが、彼は他の著作でも温泉について言及しており、それらも含めて総合的に理解する必要があると考えているからです。

なぜ『一本堂薬選続編』の中に「温泉」項を含めたのか、その本当の理由も知りたいと思っています。まさか大和高取藩の藩医・柘植龍洲(彰常、1771-1820)が『温泉論』において言うように、「かつて修庵が有馬の人たちに向かって、有馬温泉が繁盛するように宣伝してあげましょう、と申し出たところ、同地の人たちからけんもほろろに断られたことを恨み、その腹いせに城崎温泉を絶賛し有馬温泉を貶めようとして書いたもの」というわけではないでしょうから(実際のところはわかりませんが)。

ところで、香川修庵は『一本堂薬選続編』「温泉」項において、但馬城崎温泉(兵庫県豊岡市)の「新湯」(現在の一の湯)を最上の湯と絶賛しています。その一方で、強く批難する温泉もありました。同じ城崎温泉にありながら、見た目だけの「瘡を癒やす」温泉、と指摘された「瘡湯」などがそうです。「瘡」とは、皮膚病の総称ですが、ここでは梅毒による皮膚の病変を指しています。

もう一つ、修庵が強く、しかも繰り返し強い調子で批判した温泉がありました。その一つが、兵庫県川西市にかつてあった「多田温泉」です。多田温泉は、平野温泉とも呼ばれ、泉温は低いのですが、江戸時代にはかなり賑わった湯治場でした。ところが本物の温泉(良湯)の条件に高温泉(源泉温度が高い)であることを掲げる修庵は、泉温の低い多田温泉を「温泉に非ず」とまで言い、躊躇なく切り捨てています(「摂州之多田非温泉」)。さらに、「如摂州之多田・勢州之薦野・上野州之赤城者、皆非温泉、所以不挙也」とも記し、伊勢の薦野(三重県三重郡菰野町の現「湯の山温泉」)や、上野の赤城(群馬県前橋市の現「赤城温泉」)も温泉ではない、として一蹴しています。湯の山温泉と赤城温泉、どちらも源泉温度は低いものの、修庵の時代には賑わっていた温泉場でした。

「所以不挙也」という文言は、温泉とは言えないので『一本堂薬選続編』の「温泉」項中「和華温泉考」(中国・日本の著名な温泉地を列記した部分)には掲載していない、という意味なのですが、それならば無視すれば済む筈です。にもかかわらず、繰り返し記して難じているのは、どうしてなのでしょうか。

修庵はほかの著作、たとえば『一本堂行余医言』でも「温泉者、謂但馬州城崎瘡湯及諸州称癒瘡者或摂津州多田冷泉類也、非吾門所用温泉也」、「又見浴摂州多田冷泉直患水脹速死者尤多」、「如摂州多田冷泉為最」、「如摂州多田冷泉是也」などと記し、まるで親の仇でもあるかのように何度も何度も多田温泉を非難しています。そこまで言うのですから、何らかの事情があったのかもしれません。冷泉への入浴は危険で死者も出ていることを、強く警告したかったからなのでしょうか。

多田温泉は、兵庫県川西市にありました。かつて拙稿「江戸時代の「飲泉」-源泉の性状をめぐる温泉認識・その部分的素描-」(日本温泉文化研究会編『温泉の文化誌 論集【温泉学①】』でも若干ふれましたが、ここは皆さんよくご存知の「三ツ矢サイダー」発祥の地です。泉質は、もちろん炭酸泉(二酸化炭素泉)でした。今も泉源脇を流れる塩川の水面には、炭酸ガスによるのであろう気泡が随所に見られます。幕末の大火によって寂れ、明治19年発行の内務省衛生局版『日本鉱泉誌』によると、明治前期には年間平均浴客数が50人程度まで落ち込んでいたようです。私が2007年に訪れた時には、旅館建物の廃墟と、泉源および三ツ矢記念館の跡、少し離れた所に集会所を兼ねた「多田平野湯之町温泉薬師庵」が残っているだけでした。この多田温泉も、今となっては忘れられた温泉の一つです。

そう言えば本会著『温泉をよむ』の宗教学の章において、湯治客による石灯籠の奉納について書かせてもらいました。これに関心を持つようになったのは、元文2年(1737)11月に浴客から奉納され、「取次 菊屋三右衛門」と彫られた石灯籠を、この薬師庵で見たことが切っ掛けです。

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