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南面利の湯

旧 日本温泉文化研究会HP「研究余録」2013年4月25日記

最近の日韓関係をめぐる報道や、ここ数日の間の政治家による発言を聞いていて、ふと思い出した温泉地があります。東日本大震災の直前に訪ねた、大阪府和泉市の山間部にある「南面利(なめり)の湯」です。泉源は今も健在で、訪れた時もブクブクと泡を立てて二酸化炭素泉(炭酸泉)が湧き出ていたのですが、湯治場としての役割はとうに終えています。ならば「南面利の湯跡」と言うべきでしょうか。かつては“鳥地獄”とも呼ばれていたそうで、正しくは「毒鳥泉」と言うそうです。

南面利の湯は、おそらく江戸時代後期に始まった湯治場だと思われます。附近に農家が一軒あり、湯治客はそこで入湯したようです。この辺りにはこれといった温泉場がなかったからでしょうか、江戸時代後期に板行された『西国三十三名所図会』(暁鐘成著、嘉永元年1848自序)には、湯治客で賑わっていた様子が描かれています。今では、泉源は放置状態で、池中には木の葉が堆積していて見る影もありません。泉源の傍らには小さな薬師堂も現存しています。

湯治場としてはどうやら短命に終わったようで、明治以降は源泉を瓶詰めにし、炭酸飲料として販売していたと小耳にはさみました(真偽のほどは確認していません)。二酸化炭素泉による炭酸飲料としては、有馬温泉の「有馬サイダー」や宝塚温泉の「ウィルキンソン」、多田温泉(兵庫県川西市)の「三ツ矢サイダー」が有名ですが、明治以後外国人が多く住んだ神戸に近い二酸化炭素泉の温泉地では、他にも瓶に詰めて出荷したところがあったということでしょう。

日韓関係の報道や政治家の発言を聞いていてこの温泉場(跡)を思い出したのは、泉源への登り口(泉源は小高い山の上に所在します)に「韓国式の寺院」があったからです。寺の正式名称は誰も知りませんでしたが、附近の人たちは皆「韓国式の寺」と呼んでいました。なぜここに「韓国式の寺」があるのか。疑問に思い市役所の市史編纂室で訊ねたところ、この地には戦後まで石炭炭鉱があり、多くの韓国・朝鮮の人々が坑夫として働いていたからではないか、と教えられました。市役所でコピーしてもらった『和泉市における在日コリアンの歴史(戦前編)』 (2003年8月発行)には、次のような証言があります。「和泉市にあった“横山炭坑”-ここにも朝鮮人坑夫が働いていた-」という項目で取り上げられている辻本光夫さん(1937年生まれ)の証言です。

「(採掘中)ワイヤーが切れて亡くなった人があり、そのうち何人かが韓国式の葬式をしていた。一番先頭の人が、鶏を絞めて竹にぶら下げて歩いていた。「アイゴー」「アイゴー」と泣いていた光景を覚えている。事故は私の8、9才(1945、6年)の頃であった」。そう説明されているわけではありませんが、この「韓国式の寺」はおそらく坑夫として働く朝鮮半島出身者のために建てられた供養の場だったのでしょう。

南面利の湯についても同書に記載があります。「和泉市南面利に『ぶつぶつさん』という炭酸ガスを発生する池がある。「東南面利」バス停から100mほど千石坂を河内長野方面に向かって行き、地蔵さんのあるところから右に少し登った小高いところにある炭酸泉で『鳥の地獄』と呼ばれている。それは、亜炭層のあるところに起こり炭化が進み石炭になる過程に起こる現象である。この南面利一帯に亜炭を採掘する炭坑があった。寺島實さんの調査によると、岸和田市内畑の牛滝川沿いにも炭酸泉が湧出しているところがあり、やはり亜炭を採掘した炭坑口に石がいっぱい詰められたまま雑草に覆われて残っているとのことである。私たちの地元にあった南面利の炭坑も外環状線(※大阪市内につながる主要道路※掲載時の註記)が開通し、廃坑の跡も炭住のほんの一部を残すのみで、竪坑、斜坑、ボタ山、選炭場、山の神、事務所のあった場所など想像するしかない状況である。関係者の証言から横山炭坑にも朝鮮人が働いていたことがわかる」。

南面利の湯跡を訪れて感じたこと、思ったことはとても多いのですが、それはともあれ日韓関係がギクシャクする中、両国の友好を考える大きな切っ掛けになったことは間違いなさそうです。(※旧HP掲載時の文章を一部削除して再掲しました=2020年11月7日記)

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