それは情報量の問題。

引き続き同じようなことを書きます。
書けるうちに書いておくみたいなつもりもある。

ことばに重みがあるとか、謎の説得力とか、ことばの質感とか。
ありますよね。

小学校の時の担任の先生で妙に言葉がしっかりしている、
怒られているのだけど怒られている感じがしない、
諭されているような、導かれているような
妙なお説教をする先生がいました。

もちろんお説教だけではなく、
その先生からもらった日々のアドバイスみたいなことも
覚えていることがあるし、
授業形態も少し変わっていたのでそれも覚えている。

小さい頃の記憶がほとんどない自分にとっては珍しい。

先生のことばになぜ特殊な力があったのか。

彼が教師でありながら僧侶でもあったことが
それに関連していたのかは今更の推測になってしまうけど、
当たるとも遠からずというところかなと思っている。

彼には彼の言葉を放つなりの背景があったはずだ。

彼が担任になったことでぼくの人生は劇的に変わったのだ。
なんていう風には思わなかったし、思ったこともないけれど、
じっとりじっとりと長きにわたり沁み込むようなかたちで
彼の関わりは僕の人生に影響を及ぼしたと思う。

ぼくは小さい頃から割に器用なほうであったと思う。
いじめらしいいじめにあったこともない、
勉強もまぁ学年では上位といって差し支えない成績、
委員長や生徒会といった役割の類も進んで引き受けていたし、
女の子からまるで相手にされないということもなかった。
ゆえに幼い頃に遭遇し、のちに原動力的に働くコンプレックスに
あまり遭遇しなかった学生時代ともいえる。

”そういったマイナスのチャージがないこと自体がコンプレックスだ”
みたいな、もうなんかよくわからない角度でのコンプレックスの抱え方をしてみたりしているのだけど、
学校や大人に対してはずいぶん思うところがあった。
これ今、そういえば、って感じで書いてるんだけど。

ぼくはあんまり大人の言うことを聞かなかった。
聞く気が無かったというか、信頼できなかったというか。
なんかこう、みんなそれらしいこと言ってんなぁ~みたいな感じで、
ひねくれて聞いていたようなところがあって。
ほんとうに知りたいことや学びたいことを
学校って教えてくれないじゃんっみたいな。

だから、あの先生みたいな人に会うと嬉しかった気がする。
言葉の重みや存在としての説得力みたいなものを
彼は持ち合わせていて、どこかそれに憧れた。
つまり、この人の言うことなら聞こう
みたいな気にさせられていたというか。
信頼に足るというか。そういう大人がいることが
ほんとに嬉しかった。
救いだったといってもいいかもしれない。

世界には可能性もありますよっていう一端を
彼は体現していたというかね。
正義に由らない正しさみたいなムードがやっぱり彼にはあったと思うんだよ。

それは今でもぼくの中のものごとを測る定規のような役割を果たしてると思うので、先生って、人って偉大だなと思うわけです。

その後、大学生になって、自分の興味が向くままに
ワークショップや勉強会の類に参加するようになって。
自分がほんとに学びたいことや知りたいことに身を浸すのってこんなおもしろいのかって。

でね、いったんどんな分野でもいいから
学ぶことの甘い部分というか、おいしい部分を経験するとさ、
わりと他の分野にも興味が持てるようになったというか。
学ぶことに対して前向きになれたって気がします。

それも少しおもしろい、興味深い変化だなぁと思っています。


あぁそうそうそれでね、何が言いたかったんだっけ。
そのつまり、表明されていることの背後にあるものに
やたら鋭敏になってきた気がするんですよ割と人生かけて。
表現されているものの背後の厚みのほうを
みるようになっちゃったというか。

それはモノや環境をみるときも機能する感じがある。

考えとして頭に入ってきて、保存している情報って
たいした情報量ではないよね。
そもそもことばって表現の一形態で、
その前には感じたことやなんかがあるわけで。
まだことばにデジタル化していない感じたことそのものって
非常に情報量が多いよね。
それからことばでそれを説明しようとすると
いっきに世界が変わっちゃう。

そのある種の感じを伝えるために、
あの手この手のことばという彫刻刀で
その感じの姿を削り出してくプロセスなわけですよね。
だからやっぱりある感じを
「嬉しい」って言う風に表記するだけでは
不十分なことが往々にしてあって。
だってその「嬉しい」は、
どんな感じのことについてのことばなのか本当はわからないわけで。


数年前、文章がとっても上手な友人(今では本を出版するなどして立派な物書きさんになっている)に
「やっぱり小さい頃から沢山本を読んできたの?」と
聞いてみたことがある。

「いや小さい頃はあんまり読んでなかったんです。
むしろ読まないようにしていたというか。。
本を沢山読むと感じていることを奪われちゃうような気がして」

なんだか空中で蹴りをかわされて、
一回転しながら頭頂部にかかと落としを
ばっちり決められたような気分になったのを覚えている。
(どんな気分だ、、、)
要はまぁ唖然としたというか、ガツンときたというか。

なんて聡明な人なのか。その瞬間に改めて彼女のことを尊敬しましたよ。

人はいつのまにか感覚的な世界から、
言語的な世界へと次元移動するようなところがある。
説明的な世界に移動していくというか。
それによって、模造品的な世界のほうに臨場する時間が長くなる。

生きてコミュニケーションをする限り、
ことばが便利な道具であることはわかりきっている。
なので感覚に臨場するほうが正義だ!なんて言うつもりは全くない。
けれど、やっぱりデジタル化したもので
やりとりしているんだということは覚えておきたい。

そして、そのデジタル化の際にはもともとの情報量が劣化してアウトプットされることになるので、もともとの情報量が問題なのである。

経験したことなのか、
知ったことなのか。
それは量として伝わってしまうということだ。

お読みいただきありがとうございます!