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わたしはあなたによって明瞭化される。

岩手県の遠野というところから愛知に戻ってきました。とっても遠いところ(地名が遠野だからってわけではありませんよ)に行っていた気もするのに、自宅近くの名古屋空港からは1時間のフライトで岩手県まで行ってしまうというこの時間感覚と移動距離の比例しなさには毎度すっとんきょうな気持ちにさせられます。

さて、今日は居場所のなさについて。

自分が居るべき場所にいないとか、まわりと合わないとか、我慢しているとか。表現はいろいろだけど、つまり自分の居場所と感じていない場所に居続けるのはなかなかに心が痛い、麻痺していくようなことだと思います。

これを、まずは自分にさせたくない。いや、ひとにもさせたくない。けっこうさせたくない。ひとに元気でいてほしい。そういう望みというか希望というかがあります。

どんなところなら居場所になるだろう?僕の場合を少し考えてみる。(読んでいる人で暇な人は自分バージョンを考えてみて)
自分が自分でいれること、自分の力が他者に作用していると感じることができること、尊敬できる仲間がいること、分業できること、できたら自然の木々や海や森や川、虫や動物、ようするに人間以外の命あるものの気配がある環境、お金を渡したいと思う働き手が近くにいること(近くでお店をやっている等)

居場所のなさや、行き場のなさはけっこうたまらない。あるグループにいるのに自分は仲間はずれな気がしたり、そもそもグループに近づけなかったり、馴染めなかったり。ひとりな感じで、共有できなくて、合わなくて。僕個人はいつもそうだったわけでは全くないし、むしろ恵まれてきたほうかもしれないけれど、それでもそういった瞬間や時間や時期はあったと思う。そこに自分はいるんだけど、いない時間。

つまるところ、”自分らしく”は、場所や相互作用の問題でもあるということだ。ひとりで考えて自分らしくなんてなれない。そもそも他者がいなければ、自分らしさなんてわからないことだろうし。

”わたし”は”あなた”によって明瞭化されるのでは。

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