6月12日 3年前と違うこと。

夏至まであと少し。
もうずいぶんと日が長いです。
これを書いている19時半現在、ようやく街のビルの窓から漏れる明かりがきれいに見えてきたところです。

3年前と違うことがあるとするならば、僕自身、”大きな負け”みたいなものを経験したことでしょうか。
僕がずいぶんに落ち込んでいるときに尊敬する人から頂いた言葉「失敗や挫折は誰にでもあるもので、大事なのはそれをどんなものにするかじゃない?」をくりかえし取り出しては考えています。

確かに失敗や挫折を経験しない人はいないでしょう。
いたとして、ずいぶんつまらない人生だと思います。あらゆる物語の中に負けは組み込まれています。主人公が勝ち続けて最強でしたという話は今一歩感情移入ができないというのは悲観主義なのでしょうか。
自分の人生が小説なら負けは必要な要素なのだと思えます。

それでも負けの渦中にいる際には、はっきりいってほとんど視力がないような状態になりました。(今これを比喩として書きましたが、実際にも視力が下がりました。先日の健康診断では視力が両目とも0.4ずつ上がり、元に戻りました。)
何を主軸として生きて良いかわからず、目的が消え去り、別に生きててもしょうがないなという気にすらなりました。
負けるとはそういうことです。失意し、落胆し、とにかく辛い。
生きる目的もわからないし、何も定まらない。

そういった時期を通り抜けて、今更ながら気がつきはじめていることは、自分にはたくさんの良い友人がいるということです。
そして彼ら彼女らは僕の状態がどうであろうと友人として存在し続けてくれ、なんならとても助けてくれる人たちだということです。
今、僕が多くの仲間がいるのは自分がこれまで下手なりに懸命にやってきた人生の結果だと思っています。そういった意味では自分のこれまでの人生は全て間違っていたというわけではないのだと思いはじめています。
それすらも間違ったものにしてしまえば、彼ら彼女らを否定することにもなるので、それはきっと違うだろうと思います。
こんなにいい仲間がいて、さらには「あなたがいてくれてよかった」とか「これお願い」とか言ってくれるのだからはっきり言ってそれだけもかなり満足です。
そして、彼、彼女らはお金では交換できない。
今後、たっくさん稼いだとしても、交換できないのです。
そういう友人らがいるということはなんら変わらなかったし、この先だってさほど変わらないように思います。
つまり僕は全てを失ってなんかいなかったのです。逆に、全て失ったように感じたことで、自分が何を持っているのかがはっきりしたとも言えます。自分が所有している気になっている物やお金は正確には自分のものではないし、実はさほど価値は高くなく。
モノの多くが交換可能なのだから、時期を変えてまた交換ができるものばかりです。ただ、友人や時間、知恵はそうはいきません。

”負け”は僕なりのwalk about(オーストラリアの先住民、アボリジニの成人の儀式の名前)だったんじゃないかと思います。
全てがなくなったことで、全くゼロから組み上げる機会を得ました。
生活費を賄い、仕事を賄い、生活用品や家具を揃え、健康管理も趣味も移動も交際も全てをビルドしていく経験は、自立心を育ててくれたように思います。自分の飯は自分で確保する責任が大人にはあり、それは実際けっこうなことだと思います。食えてるみんなは本当に頑張っていると思います。

『うらおもて人生録』の中で色川武夫さんは「9勝6敗を狙え」という話をしますが、僕は負けを避け過ぎたのだと思います。
勝ち過ぎたというより負けから逃げまくった結果、まとめて大負けこいたのだと思います。しかしまぁやはりそれで良かったのだと思います。

いよいよ改めて、負けをふまえて僕は復帰戦をしなければなりません。
近い将来に、”あの負けがあって良かった”と心から思えるように。


お読みいただきありがとうございます!