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どうしたって自分。

どのように撮ったって。
どのように撮ったって、
自分のようになってしまうのではないか。

文章の羅列や接合にその人の生理が反映されてしまうように、
カメラのシャッターを押すその瞬間、揺れ、画角にも結果的にその人がいて。

つまり、どれだけ同じ構図を真似てみようとも、
1000/1秒、10000/1秒、最終的にシャッターが瞬きするその瞬間には
撮り手の生理が反映してしまうようなところがあるんじゃないか。

まぁ芸術や表現の類にはよく言われることかもしれない。


あるボタンを押す最終決定ひとつとっても
その人がまるごと投入されてしまうなら、
日々生きて、話して、歩いて、座ってなどの
基本的な所作の中にはかなり情報が入っていると言える。

ともすれば出会うだけで、
それはまるごとその人を提出しているのと同じだ。
(これは少し極端。。?)
しかし言葉の並べ立て方や、その奥の由来や、記憶の景色、
関わってきたことや、見てきたもの、嗅いできた匂いが
ある人のほんの一部分にもけっこう現れていて、
そういったものを感じるのがすごく嬉しい。

そして、自分は自分で、その人はその人でやってきてしまったのだし
今更どこにも行きようもない。
ゆえに、なにか足さなくてもいいというか。
既に結構プレシャスな存在だよなぁ。
その存在を全うする努力や工夫を重ねてみたい。

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