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ARCHIVES『THE NIKKEI MAGAZINE Ai』プレミアムクラブ会員向けメールマガジンその10「家(1 )市川團十郎家編」(2015年11月~2023年3月配信/文:Katsuma Kineya、編集:講談社、配信元:日本経済新聞社)

市川團十郎家の見どころと見せどころ(一)

2017年8月10日配信

 今回からしばらく、歌舞伎の「家」についてまとめていこうと思います。ご紹介する「家」は、これまで同様、一ファンとしてのミーハーな視点から選ぶ予定です。まずは市川團十郎家から。市川團十郎家の歴史は歌舞伎の歴史ともいえるため、数回にわたっての紹介になります。

市川團十郎家はなぜ市川宗家なのか

 ほかの芸能とは異なり、歌舞伎には家元は存在しません。にもかかわらず、市川團十郎家を「市川宗家」と呼ぶのは、江戸の人々が情熱と尊敬を込めて名付けたことが始まりのようです。そもそも歌舞伎俳優の芸名は、その多くが、代々継承される名跡(みょうせき)。俳優たちは、名跡とともに、芸風やニン(役に扮した俳優の柄や持ち味)も受け継ぎ、「家」をなします。そして名跡が大きいほど、家の歴史が長いほど、格式の高い名家となり、市川團十郎家はその最高峰。なぜなら、市川團十郎家は、役者専業の家としてはもっとも長い約三百五十年の歴史を持ち、歌舞伎そのものを継承してきたともいえるからです。代々の市川團十郎は、ほぼ全員が、当代随一の役者として、また演出家として、劇作家として、歌舞伎界をひっぱってきました。「荒事」を生み出し、守ってきたのも市川團十郎家です。市川團十郎家は、歌舞伎界全体の“長”という大役をも担っているのです。

初世市川團十郎

 では、市川團十郎という名跡はどのように生まれたのでしょうか。初世の生年は、萬治三(一六六〇)年が定説となっていて、追贈で十世となる市川三升の代で発見された家系図によれば、先祖は武田家の家臣だった堀越家。現在も本名は堀越です。父は侠客(男伊達)で町の顔役だった重蔵、母はとき。初舞台は十四歳のときで、延宝元(一六七三)年、中村座でした。当時の名は市川海老蔵。海老蔵は本名ですが、市川は堀越家の出身地市川郷からとったといいます。團十郎(最初は段十郎)となるのは二年後のこと。初舞台で演じたのは『四天王稚立(してんのうおさなだち)』の坂田公時(きんとき)で、隈取りと奇抜な衣装で勇ましく舞台を駆け回りました。当時ただ暴れるだけだった「荒武者事」を様式化した演出で、これが「荒事」の始まりとされています。荒事が確立したのは一六八〇年代。すでに市川團十郎家の芸となっていました。ちなみに当時上方(京阪地方)では、「和事」が、近松門左衛門と坂田藤十郎によって確立されています。

歌舞伎史上初のこと、いろいろ

 実は、市川團十郎家が「荒事」を「家の芸」として継承するまで、歌舞伎には、個人の芸はあっても、代々引き継がれる家の芸はありませんでした。家の芸を生み出したのも、市川團十郎家というわけです。歌舞伎界初の家の芸を引き継ぐ二世は、初世が二十八歳のときに生まれた長男。成田不動尊に願を掛けてやっと生まれた子ということで、初世は二世が「成田不動の申し子」だと信じていました。元禄十(一六九七)年、二世は『兵根本曾我(つわものこんげんそが)』に初世と出演。この「父子共演」、「子役の登場」も、歌舞伎史上初とされています。二世扮する通力坊が不動の姿になって現れるのですが、不動明王による勧善懲悪は初世が生み出した荒事の型のひとつ。荒事とは神が荒ぶる様子であり、それを作り出した市川團十郎家は江戸の守り神として人気を集めました。二世に不動を演じさせて芸の継承を誇示したことで、そうした人気も継承されることになります。屋号を持ったのも、市川團十郎家が初。『兵根本曾我』で二世が不動尊となって登場すると舞台に賽銭が投げられたそうですが、初世は二世を伴い成功のお礼参りに成田山を訪れた際、この賽銭を寄進し、屋号を「成田屋」としました。

 次回は、複雑に展開していくその後の歴史をひもときます。

(参考資料:『團十郎と海老蔵──歌舞伎界随一の大名跡はこうして継承されてきた』学研、『歌舞伎 家と血と藝』講談社、『悲劇の名門 團十郎十二代』文藝春秋、『十一代目團十郎と六代目歌右衛門 悲劇の「神」と孤高の「女帝」』幻冬舎、『新版 歌舞伎事典』平凡社、『かぶき手帖2017年版』日本俳優協会・松竹・伝統歌舞伎保存会)

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市川團十郎家の見どころと見せどころ(二)

2017年9月8日配信

初世殺害事件と二世襲名

 なんともドラマチックなのですが、初世は上演中、共演者生島半六に刺し殺されます。元禄十七(一七〇四)年二月のことで、享年四十五歳。犯人の師、生島新五郎が責任を感じて二世の後見人となり、初世他界五ヶ月後に襲名が行われます。新五郎は人気役者で、後に大奥最大のスキャンダルと目される絵島生島事件を起こしています。二世の襲名は江戸っ子の涙を誘うものでしたが、現実は厳しく、襲名後に回ってくる役は端役ばかり。冷遇にも負けず精進し、荒事を継承するだけでなく和事もこなして実事(シリアスな役柄、演技)も開拓していきました。父は三升屋兵庫の名で五十作以上は台本を書いているといわれクリエーターとしても偉大でしたが、二世も負けずにオリジナルを作り上げました。そして名実ともに名跡にふさわしい名優の地位を不動のものとします。

家の芸の幅を広げ充実させた二世

 当時上方では人形浄瑠璃を歌舞伎化した義太夫狂言が上演されていて人気でしたが、これを江戸でも流行らせたのは、二世の力。芸以外でも歌舞伎役者の地位改善にも貢献しました。歌舞伎役者に対する差別問題から生じた訴訟に参加し勝つことで、差別意識を払拭し、その顛末書『勝扇子(かちおうぎ)』も出版しています。享保六(一七二一)年には『大鷹賑曾我(おおたかにぎわいそが)』曾我五郎で二百八十日のロングランを記録して給金が千両になりました。それまでにも千両をもらっていた役者はいたものの「千両役者」と呼ばれたのは二世が初。勢い盛んではあっても子には恵まれなかった二世は、父の門弟だった三升屋助十郎の子を養子とし市川升五郎と名乗らせます。升五郎は、享保二十(一七三五)年、十五歳で三代目團十郎を襲名。二世は四十八歳で、二代目海老蔵を襲名。團十郎を譲った後に海老蔵となる形はこのときが初めて。とはいえ、二世は引退したわけではなく海老蔵としてこの後も活躍します。「三ヶの津(京、江戸、大坂)立役の棟梁」と異名をとるほど、上方でも人気を博しました。

三世の早逝、四世、五世の奮闘

 三世は長台詞が得意でした。襲名披露公演では『暫』を演じ、そのツラネが評判を呼んでいます。その後も『不動』、曾我五郎、『助六』、『景清』など家の芸を披露しますが、寛保二(一七四二)年、二十二歳の若さで病死。そして十二年以上もの間、市川團十郎の名跡は空位となります。宝暦四(一七五四)年、二世は四十四歳の二代目松本幸四郎を養子に迎え、四代目市川團十郎を継がせます。二世はその四年後に他界。四世は二世の実子という噂も流れましたが、真偽のほどは定かではありません。ちなみに四世の妻は、二世の姪で養子だったいぬ。襲名時には亡くなっていましたが、再婚していなかったため、四世は養子になるまで二世の娘婿でした。襲名後は家の芸の荒事を次々演じるものの、不評続き。幸四郎時代は実悪を得意としていたからです。挽回するために、最初悪人で後に善人とわかる『菅原伝授手習鑑』松王丸を演じると、これが大当たり。以降、悪人の将門を演じるなど、荒事だけではなく、新しい市川團十郎像で評判を博し、やがて荒事でも盤石の地位を築くようになります。初世二世ですでに十五演目ができあがっていた歌舞伎十八番の残り三演目は、四世が作り上げています。演劇学校「修行講」も主催しました。五代目は四世の実子三代目松本幸四郎が、明和七(一七七〇)年、脂の乗った三十歳で継承。磊落な性格で、それまでの團十郎が演じなかった女形、道化、侠客なども手がけ、役の幅を広げました。父祖の地、甲府で初めて地方興行を行ったのも五世。所作事では歴代團十郎でもっともうまいと評されています。他を押しのけて前に出るタイプではありませんでしたが、家を守ることには力を惜しまず、市川團十郎をさらに大名跡へと押し上げます。六代目に譲ったのは、寛政三(一七九一)年のことでした。

 次回は、江戸時代後半、六世から八世までを中心にご紹介します。

(参考資料:『團十郎と海老蔵──歌舞伎界随一の大名跡はこうして継承されてきた』学研、『歌舞伎 家と血と藝』講談社、『悲劇の名門 團十郎十二代』文藝春秋、『十一代目團十郎と六代目歌右衛門 悲劇の「神」と孤高の「女帝」』幻冬舎、『新版 歌舞伎事典』平凡社、『かぶき手帖2017年版』日本俳優協会・松竹・伝統歌舞伎保存会)

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市川團十郎家の見どころと見せどころ(三)

2017年10月6日配信

出待ち追っかけ殺到のイケメン六世

「こはいかに折れし三升の菖蒲太刀」──六世の辞世の句です。これからというときに勝負の太刀が折れるなんてと、五月の花である菖蒲に掛けて無念の気持ちを表しています。薄命で、亡くなったのは、三世と同じ二十二歳のことでした。自ら句に詠うほど、このときの六世は芸も人気も上り調子。花のある美男役者だったため熱狂的な女性ファンも多く、楽屋口での出待ちや、追っかけもいたようです。
 六世は五世の子ですが、一度養子に出されています。四歳で五世のもとに戻った翌年、徳蔵の幼名で初舞台。翌天明二(一七八二)年に四代目市川海老蔵を襲名します。六代目市川團十郎を襲名したのは、寛政三(一七九一)年十一月。十四歳でした。五世は蝦蔵と改名し、引退します。
 寛政十(一七九八)年の十一月、六世は初めて中村座の座頭を勤めます。引退していた五世も白猿の名で舞台に引っ張り出されて口上を述べ、毎日一首ずつ狂歌を披露。この狂歌は後に口上全文とともにまとめられ出版されています。翌寛政十一(一七九九)年には、初役「助六」に挑むと、「大出来大入大々あたり」と大評判。四月には『仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)』で三役を勤めます。ところが三日目から風邪を引いて休演。そのままこじらせ、はかなくもこの世を去ります。
 当時はアイドルの死を悼み、『市川團十郎極楽実記』(柏満多山人作、歌川豊丸画)なる小冊子が作られ、追悼の意をこめた「死絵」も出版されています。

波乱万丈の七世と謎の自死を遂げた八世

 五世は文化三(一八〇六)年に他界。このときすでに、七世は市川團十郎の名跡を継いでいます。
 七世は五世の孫。叔父の六世に弟子入りし、寛政六(一七九四)年市川新之介を名乗り、六歳で初舞台。演目は『暫』でした。寛政十(一七九八)年ゑび蔵を襲名、寛政十二(一八〇〇)年十歳で七代目市川團十郎を継ぎます。 
 五世が没した年には、わずか十六歳。若い身空で團十郎家の大黒柱となります。時代は「十八大通(じゅうはちだいつう)」という十八人の通人が現れるなど、江戸町人が富と文化を謳歌したころ。若い團十郎を引き立てるお膳立ては整っていました。ファンの応援を受けながら実力をつけ、文化八(一八一一)年、伝説の『助六由縁江戸桜(すけろくゆかりのえどざくら)』が七世の「助六」初役で上演されます。五代目松本幸四郎の「意休」、五代目岩井半四郎の「揚巻」など共演者も豪華そのもの。七世は荒事だけでなく、色悪も得意で、文化十二(一八一五)年には「早替わり」にも挑戦し人気に拍車をかけました。歌舞伎十八番を制定したのも七世です。しかし天保十三(一八四二)年、天保の改革で江戸十里四方追放の刑に処せらてしまいます。七年後に赦免されるまで、上方はじめ各地での興行を余儀なくされますが、七世はポジティブにこなし、赦免後も地方巡業は続けました。
 七世の長男である八代目市川團十郎が生まれたのは、文政六(一八二三)年。期待を一身に背負い、團十郎を襲名したのは、十歳のときでした。面長の美男子に成長し、粋で上品、色気もあり、色悪の「切られ与三郎」なども初演で大当たり。八世が「助六」で「水入り」に使った天水桶の水が一徳利一分で売られて大繁盛したとか、吐き捨てた痰を御殿女中がお守りにしたという逸話も。人気絶頂だった八世ですが、嘉永七(一八五四)年、父を訪ねた上方で自殺。三十二歳でした。理由はいまだ謎に包まれています。そして市川團十郎の名跡は空席のまま、世は明治維新を迎えるのです。

 次回は、九世から現在までの歴史をご紹介します。

(参考資料:『市川團十郎・代々』講談社、『團十郎と海老蔵──歌舞伎界随一の大名跡はこうして継承されてきた』学研出版、『歌舞伎 家と血と藝』講談社、『悲劇の名門 團十郎十二代』文藝春秋、『十一代目團十郎と六代目歌右衛門 悲劇の「神」と孤高の「女帝」』幻冬舎、『新版 歌舞伎事典』平凡社、『かぶき手帖2017年版』日本俳優協会・松竹・伝統歌舞伎保存会)

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市川團十郎家の見どころと見せどころ(四)

2017年11月2日配信

劇聖にして新時代歌舞伎の礎を築いた九世

 活歴(かつれき)、天覧劇、新歌舞伎十八番、肚芸(はらげい)……。劇聖とうたわれた九世が、明治維新以降のいわば歌舞伎新時代に遺した功績は数知れません。
 九世は七世の五男として天保九(一八三六)年に生まれました。生後七日目で河原崎座座元、河原崎権之助の養子となり、幼少期は遊ぶ暇のないほど習い事に明け暮れたといいます。しかし幕末に河原崎座は火災で焼失、明治元年には、養父を強盗に殺害されます。遺志を継ぐべく翌年権之助を襲名して四年後義弟に譲ると、自分は河原崎三升(かわらざきさんしょう)に。三升は團十郎家代々の俳名です。やがて河原崎座を再興。養家に礼を尽くし、九代目市川團十郎を襲名したのは明治七(一八七四)年のこと。三十七歳でした。
 襲名の年、請われて新富座の座頭となった九世は、近代歌舞伎の旗振り役の一人として“演劇改良運動”に身を投じます。伊藤博文や福地桜痴など政財界や学界の錚々たる面々のバックアップで、それまでの荒唐無稽な時代物ではなく、歴史を写実的に表現した「活歴物」を推進。しかし高尚になるほど大衆の心は離れていきました。古典歌舞伎にも力を注ぐようになったのは六十歳の頃。人物を顔や目の静的な動きで表現する、一種リアリズム的な「肚芸」など、それまでに培った至高の芸で、大衆の観客をも虜にしました。惜しまれつつもこの世を去ったのは、明治三十六(一九〇三)年。

黒衣に徹した十世、戦後歌舞伎の立役者十一世

 九世他界後、市川團十郎の名跡は五十九年間空席となります。没後に十一世から名跡を追贈された十世は、存命中、五代目市川三升を名乗っていました。九世の長女実子の婿で元銀行員、役者になったのは、九世が亡くなって七年後の明治四十三(一九一〇)年のこと。役者としては大成しませんでしたが、市川宗家を守ることに力を尽くしました。埋もれていた歌舞伎十八番の数々を復活上演し、市川家の由来を物語る資料、史料を入手。持てる知性教養を活かし、別の形で家に貢献したのです。
 十一代目團十郎は、明治四十二(一九〇九)年に松本幸四郎家長男として生まれています。昭和十四(一九三九)年に十世の養子となり、その翌年、三十二歳で九代目市川海老蔵を襲名。間もなく日本は太平洋戦争へ突入、十一世にも召集令状が来ますが、チフスで免れています。戦後は「海老さま」ブームが沸き起こるほどの人気でしたが、十一代目團十郎を継いだのは、三升没後六年も経った昭和三十七(一九六二)年、五十三歳のときでした。そして三年半後に急逝。このとき、いずれ十二代目となる長男新之介は、まだ十九歳です。十一世はどことなく陰のある魅力的な容姿で、凄みもある芸域の広い役者でした。海老蔵・團十郎時代を通し、色悪や敵役もこなし、大佛次郎作『若き日の信長』などの新作狂言でも活躍。戦後歌舞伎のまさに立役者の一人でした。

世界に羽ばたいた努力の人、十二世

 十二代目市川團十郎襲名は、昭和六十(一九八五)年のこと。二十年ぶりの大名跡復活で、襲名披露公演には、当時の皇太子ご夫妻、首相夫妻、政財界トップから文化人まで、あらゆる人々が訪れました。しかも公演は国内に留まらず、アメリカでも行われ、これを期に、十二世は世界各地で公演、日本の伝統文化を海外に伝える役割を担うことになります。圧倒的な人気を誇る役者でしたが、まだ修行中のころに後ろ楯となってくれるはずだった父を亡くしていたため、人気の陰で、コツコツと努力を重ね続けました。幼い頃に受けたアデノイドの手術の影響で、口跡に難があるといわれていましたが、それも義太夫の稽古などで克服。左利きも習字にひたむきに取り組み右利きに。やがて努力が実を結び、恵まれた容姿に実力が備わり、さまざまな役柄をこなす重鎮として歌舞伎界を支えます。その大らかで実直、善良な人柄でも、数多の人を魅了しました。
 十二世がこの世を去り、再び市川團十郎の名跡は空席となりました。いずれこの大名跡が継がれるとき、どんな團十郎が生まれるのか。いまから楽しみです。

(参考資料:『市川團十郎・代々』講談社、『團十郎と海老蔵──歌舞伎界随一の大名跡はこうして継承されてきた』学研出版、『歌舞伎 家と血と藝』講談社、『悲劇の名門 團十郎十二代』文藝春秋、『十一代目團十郎と六代目歌右衛門 悲劇の「神」と孤高の「女帝」』幻冬舎、『新版 歌舞伎事典』平凡社、『かぶき手帖2017年版』日本俳優協会・松竹・伝統歌舞伎保存会)

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「家(2)」
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